其の陸 テント事情

「おい充真じゅうま。行くぜって、まさか山中に分け入るつもりなのか?」

「おお、そのつもりだ」


 周囲の山々は深い森に覆われ、人が行き交うような道はどこにもない。あっても精々せいぜいが獣道だ。ひとたび足を踏み入れたが最後、途端に方向感覚を失ってしまうだろう。


 それでも充真は躊躇ちゅうちょなく山中へと入っていく。彼一人を放って置くわけにもいかず、拙者と伊能いよくも渋々とそれに従った。


「足元に気をつけろよ」


 き出しになった木の根や、そこここに転がる大きな石が足場を悪くしている。拙者は肩で息をしながら下草を踏み、先を行く充真の背中に声をかけた。


「充真、この際だからハッキリ言っておくぞ」

「ん、何だ?」

「悪いが拙者は、緒方がこの森に逃げ込んだとは思えないのだ」

「そう言われても困るぜ。俺はおっぱいの気配は読めても、緒方の思考パターンまでは読めねぇからな」


「引き返すつもりはないのか?」

「当たり前だろ。乳紋にゅうもんが示す道標みちしるべは間違いなく山頂へと続いてるぜ。それともあれか、是周これちかはおっぱいに関して俺の実力を疑うのか? 俺の信用は貧乳レベルってか?」

「そんなことは! ……いや拙者が悪かった、そのまま進んでくれ」


 単なる直感で充真の采配を危ぶむなんてどうかしていた。親友としても失格だ。

 拙者は胸の谷間よりも深く反省し、おっぱいのスペシャリストにすべてを託した。


 充真の隣では、未だに伊能が疑わしそうな表情を浮かべている。それでも引き返そうとは口にしなかった。態度には出さないが、彼女も幼なじみの力量を信じているのだ。


 こうして拙者たちは、充真を先頭にして道なき道を登り続けた。しばらく進むと、目敏めざとく何かを見つけた伊能が興奮気味に前方を指差した。


「あれ見て、木の幹に矢印が彫ってあるんよ。ほら、あっちの木にも!」

「等間隔で続いてるみたいだな。もしかして逃走用の目印か?」

「だとしたら緒方が通った証拠だぜ」


 充真が鼻の下をこすりながら自慢気に言う。


 この矢印が緒方の付けたものなら、彼女は最初からこの山に逃げ込む予定だったということだ。事前に準備がしてあれば、深い森の中でも迷ったりはしないだろう。


 その点は追いかける側としても安心できる。


 しかし、仮に山を越えても比賀の里へ抜ける道はないはずだ。果たして緒方はこの先で何をするつもりなのか。拙者たちは、矢印を頼りに彼女の足取りを追った。


「あっ!」


 更に森の中を進むと、再び伊能が何かに気づいて声をあげた。


「今度はどうした伊能?」

「二人とも、あそこテント張られてんよ!」

「何……!?」


 突然の指摘に、拙者は慌てて己の股間あそこを確認した。もしかしたら緒方の隠れ巨乳を想像して、無意識に荒ぶっていたのかもしれない。


 しかしはかまの該当箇所を見ても、アレは自己主張もなく至って紳士的な状態だった。どうやら拙者の早合点はやがてんらしい。テントとは、膨張した局部の比喩ではなかったようだ。伊能の紛らわしい物言いにすっかり騙されてしまった。


 拙者は照れ隠しの半笑いを浮かべ、うつむいたまま充真の横顔を盗み見た。すると彼も、まさに自分の股間を見下ろしながら苦笑している最中だった。


「おい、堂々とあたいを無視すんな! てか、何で二人して下向いてるんよ?」


 男のテント事情にうとい伊能が、この状況を理解できずに眉をひそめる。


 そんな彼女を適当になだすかすと、拙者は本来の「彼処あそこ」を求めて周囲に視線を巡らせた。木々が少しだけ開けた場所に、無理やり一張の白いテントが設営されている。


「なるほど、これは確かにテントだな……」


 ただし、そのテントはキャンプ用のそれではなく、運動会などで使うパイプテントだった。森に似合わぬ奇妙な光景が目の前に広がっている。


「これは緒方が張ったものか? 近くには誰もいないようだが」


 パイプテントなので中を検める必要はない。一目で誰もいないことが分かる。


「妙だぜ、おっぱいの気配はするのに緒方がいないなんて」

「それ、あたいのと間違えてんじゃない?」

「バカ言うなよみやび。どうやったら『平地』と『双丘』を取り違えたりすギャッ――」


 充真の言葉が途切れて悲鳴に変わる。伊能が彼の顔面をグーで殴ったのだ。


「二人は本当に仲が良いな」


 そんな一連の遣り取りを見て、拙者は思わず率直な感想を漏らしていた。

 すると、すぐに伊能の猛烈な抗議が返ってくる。


「はぁ!? 冗談言わないで。今の聞いたっしょ? こいつ、あたいの胸をナスカの地上絵とか言って揶揄やゆしたんよ」

「言ってねぇし! つーか、ちゃっかりゴージャスな平地に差し替えてんじゃねぇよ!」


 充真は怒鳴るように言い返すと、殴られた左頬をさすりながらパイプテントに近づいた。未練たらしく世界遺産でない方の胸――すなわち緒方のおっぱいを探し始めたのだ。


 拙者がその殺気を感じ取ったのは、ちょうど充真がテントの真下に入ったときだった。


「逃げろ充真、これは罠だ!」


 警告の叫びとほとんど同時だった。


 テントの上方から怪しい人影が降ってきたのだ。しかも驚いたことに、その人影は落下しながら大きく膨れ上がった。唐突に現れる四角いシルエット。


「便遁の術か!」


 それは、頭上に潜んでいた緒方からの不意打ちだった。


 木の枝から飛び降り、空中で個室を具現化したのだ。欠点であるはずの重量を、縦の間合いで攻撃力に転じる。便遁使いならではの発想だった。


 充真は拙者の声にすぐ反応したが、敵の位置を視認できずに逃げるのが遅れた。


「ぐわぁぁぁ!」


 木目の個室がテントを突き破り、下にいた充真の右脚を押し潰す。幸いにも地面は柔らかい黒土で、彼は難なく下敷きになった脚を引き抜いた。それでもかなり痛かったのか、その顔に苦悶の表情を浮かべている。


「ちょっ、充真! 大丈夫なん!?」


 伊能が取り乱した様子で充真の元へ駆け寄った。落ちていた枝を即席の添え木にして、手持ちの帯で挫いた足首をしっかり固定する。実に手際の良い応急手当だった。


 充真のことは彼女に任せておけば問題ない。

 拙者は一人、壊れたテントの側に立つ緒方と対峙した。


「さすがね芦辺あしべ君。まさか、この逃走ルートを嗅ぎつけるなんて」

「おまえの隠れ巨乳のおかげだ」

「は?」

「しかし恐れ入ったぞ。頭上から奇襲するためえてパイプテントを用意するとは。見通しが良すぎて警戒心も奪われたしな。これもすべて計算くか?」

「いえ、中古で安いテントがそれしかなかったから、仕方なく野営に使おうと……」

「へ?」

「な、何でもないわよ!」


 緒方が顔を紅潮させて叫ぶ。


 今にもトイペが飛んできそうな勢いだ。拙者はすぐさま距離を取って身構えた。だが彼女は小さく舌打ちすると、急に背を向けて森の奥へと走り出した。


「待つんよ、トイレ女!」


 緒方が逃げに転じたのは、伊能が拙者の背後に駆けつけたからだった。さすがに二対一ではが悪いと判断したのだろう。


是周これちか、雅を連れて緒方を追ってくれ! 俺なら大丈夫だ!」


 痛そうに右足を引きずる充真が、額の脂汗あぶらあせぬぐいながら大声で怒鳴った。


まん充真。ひとまず置いてくぞ」


 拙者は伊能に目配せすると、逃げていく緒方の背中を追って猛然と走り出した。

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