其の伍 胸の気配を追え!

 ――翌朝。


 自宅の玄関を出ると、頭上には雲一つない青空が広がっていた。容赦なく照りつける太陽の下、拙者はじんわり汗をきながら学校に到着する。


「おはよう!」


 寝不足の顔を隠して教室に入り、努めて明るい声で皆に挨拶した。

 だがそんな努力も虚しく、ざわついた室内に拙者のことを心配する生徒は一人もいなかった。


「何かあったのか?」


 無視されて傷つきながらも、その原因を最前席の伊能いよくたずねてみる。すると彼女は、黒板をあごでクイッと示して不機嫌そうに答えた。


「ザワザワしてる理由はあれよ!」


 板面に書かれていたのは「本日課外授業」の六文字。


「なるほど……」


 本来ならば妄想コンテストの二日目である。昨日の第一、第二試合に引き続き、今日は第三試合と決勝戦が行われる予定だった。


 順当に勝ち上がった伊能が不満を抱くのも無理はない。特に彼女の場合、実技でしか点数を稼げないから尚更なおさらだ。可哀想かわいそうだが、この機を逃せば成績の伸び悩みは避けられないだろう。


「これってトイレ女の所為せいなんよね? 超ムカつくんよ!」


 赤味がかった髪を逆立て、伊能は怒りもあらわに吐き捨てた。

 このまま彼女の近くにいたらトバッチリを受けるかもしれない。拙者は、早々に会話を切り上げてその場から離れた。


 自分の席に座り室内を見まわす。級友たちは複数のグループを作り、中身の薄い会話で和気わき藹々あいあいと盛り上がっていた。試験から解放され完全に気が抜けた様子だった。


呑気のんきなものだな、このあと大変な授業が始まるってのに……」


 課外授業を行うと言った場合、それは例外なく「任務」が課されることを意味する。地元で大事件や災害が起きた際には、こうして授業が適時変更されるのだ。


 将来、妄想社会に出て就職する忍者にとって、この任務は職場体験の意味合いも兼ねている。だから試験よりも優先されるのである。


「はぁい、みんな静かにしてちょうだい!」


 慌ただしく教壇に立った仲尾先生が、朝の挨拶もなしに大声をあげる。


「今日は妄想コンテストを延期して課外授業をするわよ」

「ぶぅー、ぶぅー!」


 怖いもの知らずの伊能が即座にブーイングを飛ばす。


 仲尾先生は、そんな彼女をマスカラの効いた一睨ひとにらみで黙らせると、授業に関する詳しい説明を始めた。それはオネエを感じさせない改まった口調だった。


「すでに承知の通り、昨日の妄想コンテストで比賀ひがものの潜入が発覚しました。甲組の緒方おがた緋雨ひさめという生徒です。彼女は現在逃走中で、まだ萌賀ほうがの里のどこかに潜伏しています。本日の課外授業――つまり貴方あなたたちの任務は、緒方緋雨が比賀の里へ逃げ込む前に探し出して、捕縛することです」


 間者一人に対し、下忍生全員を駆り出す異例の処置だった。


 まあ仕方のないことだろう。学校は、緒方の素性を見抜けず入学させるという失態を演じている。そのうえ彼女の逃亡まで許したら恥の上塗りだ。必死にならざるを得ない。


 だが拙者にとっては、学校の体面など知ったことではなかった。妄想トイレにとらわれた妹を一刻も早く取り戻す。それが拙者のすべきすべてだった。


「はい、じゃあ三人一組の班を作って課外授業を始めてちょうだい」


 最後に砕けた口調でそう言うと、仲尾先生は両手を叩いて朝のホームルームを終わらせた。


 追跡は三人一組で行うのが忍者学校の鉄則ルールだ。


 さっそく拙者は、緑色の美乳バンダナを巻く寝癖の変態イケメンに声をかけた。親友の藤村ふじむら充真じゅうまである。任意の班を作るときはいつも彼を誘うようにしている。


 拙者が彼を選ぶ一番の理由は、単純に頼みやすいからだ。互いに気心の知れた仲だから当然である。しかしそれだけではない。彼と組めば、副次的に伊能いよくみやびの仲間入りも確定するのだ。班員探しの段取りが大幅に省けるのだった。


 そしていよいよ出発という段になると、なぜか充真はニンマリ得意顔を拙者に向けた。


「おい是周これちか、今回は俺の才能に感謝しろよ」

「何だよやぶから棒に」

「フッフッフッ、聞いて驚け。俺には、逃走中の緒方を見つけ出す特別な力があるんだ!」

「……は?」


 そんな忍法は聞いたことがない。


 だが自信に満ちた充真の顔を見ると、ただの冗談とも思えなかった。拙者は半信半疑のまま話の続きを促した。


「それで、特別な力っていうのは?」

「周知の通り、すべての乳影ちかげ流忍者は『乳紋にゅうもん』を感知できるが、俺はその能力が人一倍優れてるって話さ」

「いや初耳なのだが。そもそも乳紋とは何だ?」

「胸部が放つ独特のパルス。分かりやすく言えば『おっぱいの気配』だな」

「おおおおおおおおっぱいの気配っ!」

「乳紋は人によって波長や周期が異なる。だから特定の個人を識別する手段にもなるんだ。要するに俺は、おっぱいの気配一つで人を追跡することができるのさ」


 口角を上げてニヤリと笑う充真。

 拙者が感動のあまり絶句していると、それまで一言も発しなかった伊能が口を開いた。


「つまり充真は、事前にトイレ女の乳紋とやらを把握してたんね?」


 キモそうに問いかける彼女に、充真は惜しみないイケメンスマイルで応じた。


「妄想コンテストで観戦中に確認したんだ。緒方は実に見事な隠れ巨乳だったぜ」

「あんた、ただのヘンタイなんよ。そんなんでホントに追跡できんの?」

「もちろんだ。まあ、雅のように微弱な乳紋だと気づくのも難しいが」

「だったら気づかれないようにあんたを闇討ちしてやるんよ」


 伊能が微かな殺気を込めて言い返す。


 拙者は、そんな憎まれ口を叩き合う二人が妙にうらやましかった。

 自分でも意外な感情だ。恐らく昨日の出来事にたんを発しているのだろう。拙者は今、以前にも増して家族に深い溝を感じている。


 むろん、幼なじみと家族を比較しても意味はない。それでも拙者は、気が置けない充真たちの関係を見ていると、つい芦辺あしべ家の不和を意識してしまうのだ。とりわけ妹に関しては、ただ反りが合わないだけでなく知らないことも多い。悩みは尽きない。


 そういえば、八千代も今頃は緒方追跡の任に就いているのだろうか……。


「ちょっと芦辺、あんたさっきからボーッとしてっけど、そんなんで大丈夫なん? 妄想の妹なしでトイレ女に勝てんの? 足手まといなら要らないかんね」


 人の気も知らず言いたい放題の伊能だった。その悪態に、拙者も負けじと強い言葉を返す。


めるな、妹だけが拙者の戦闘手段ではないぞ。まだ得意の体術がある!」

「ほー、体術がねぇ。へー、そうなんだ。それでトイレ女に勝てんの?」

「二人とも血気盛んなのは結構だが、戦う相手を間違えるなよ。そろそろ出発するぜ」


 充真の仲裁と合図を受け、拙者たちは隠れ巨乳狩りの任務に就いた。味方である他班と競うように校門を出る。


 現在、萌賀と比賀を繋ぐ要所すべてに包囲網が敷かれている。潜行する緒方は袋のねずみであり、生徒たちは逃げ場のない彼女を探し出し、追いかけ、そして捕縛するのだ。


 しかし拙者の班は緒方を探す必要がなく、ただ彼女の乳紋を目指すだけのシンプルな追跡行だった。他班とは異なる特殊な進路の取り方である。


 そして出発から二時間――


「ねえ充真、ホントにこっちで合ってんの?」


 道路脇に立つ周辺案内図を見ながら、伊能が疑わしそうな声で問いかける。


「ああ、少しずつ巨乳の気配に近づいてるぜ」

「だとしたら緒方の行動がせんな。この先は潜伏にこそ適しているが、見つかった場合は袋小路になって逃げられない。周到な彼女がそんなヘマをするだろうか……?」


 拙者は小首を傾げ、やや否定寄りな意見を述べた。


 ローカル線とバス二本を乗り継いで訪れたその場所は、市街地から大きく外れた辺鄙へんぴな山の一角である。心地よい微風そよかぜが頬をで、花盛りの優しい香りを運んで鼻腔びこうをくすぐる。


「トイレ女はどうでもいいけど山の空気は美味しいんね。下界より涼しいし」


 標高が上がり、炎天下の猛威も幾分か和らいだ。近く遠く聞こえる小鳥の鳴き声が、心にも涼を運んでくるようだった。


「よし、それじゃあ行くぜっ!」


 充真は山麓に向かって右拳を突き出すと、仕切り直すように怪気炎かいきえんをあげた。

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