其の肆 眠れぬ夜

 その後、拙者は何事もなく自宅に帰り着いた。


 魂の一部を奪われた状態だが、途中で気分が悪くなることもなかった。妄想を狩られても特に障害は出ない――という美才治びさいじ先生の話は正しかったようだ。


「布団を敷いてあるからコレ兄は自室で休んで。永眠は計画的に」


 玄関の格子戸を開け、八千代が振り返りながら言った。細やかな心遣いが身にみる。計画的に葬儀の手配までしてありそうで不安なくらいだ。


 拙者は言われた通りに自室へ直行すると、黄色いトラックスーツを脱ぎ捨て半裸になった。箪笥たんすからブラキャップを取り出し、頭にシャキーンと装着して布団に入る。


「…………」


 だが、寝ようと思って急に眠くなるものでもない。


 今日はいっぱい汗をいた。シャワーを浴びてサッパリすれば心地よい睡眠を得られるだろう。

 そう考えた拙者は布団を出ると、半裸のまま浴室へ向かった。入浴中のサインプレートが裏返っていたので、躊躇ちゅうちょなく脱衣所の扉を開ける。


「あ……!」


 だが室内には先客がいた。


 上半身裸で眼鏡も外していたのに、なぜか頭の三角巾は着けたままの八千代だった。


「おおおおおおおっぱぃ!」


 兄の予想をはるかに超える特盛りのそれが瑞々みずみずしく躍動したので目のり場に困りながら拙者リサーチを開始して双丘観測を強行するも鼠蹊部そけいぶに添えた妹の両手が赤いリボンの付いた白い布地に下向きの力を加えていたので急遽きゅうきょその動向調査に乗り出して世紀の瞬間を粛々しゅくしゅくと待ったがふとダイナミックに抱き締めて妹の実態を把握しなくてはいけないような使命感に駆られてその任務を遂行すべく拙者は口を開いた。


「妹よ、兄貴をいだけ!」


 偉大なる異人の遺志を継ぐように、拙者は右手をかかげたポーズでおごそかに言い放った。


「ん、御意ぎょい


 すると八千代はあっさり了承し、半裸のまま半裸の拙者に抱きついてきた。


 腹部に押し当てられる二つの柔らかい感触。これには拙者のほうが動転してしまい、妹の小柄な身体を慌てて引きがした。拙者リサーチを断念してクルリと背を向ける。まさか、本当に八千代が抱きついてくるとは思わなかったのだ。


 確かに要求したのは拙者だが、この格好で兄妹が抱き合うのは色々と問題がある。それに何より、拙者にも羞恥心というものが微粒子程度にはあるのだ。


「八千代、おまえには恥じらいってものがないのか!」

「あんまり」


 無表情でサラッと返される。

 八千代に迂闊うかつなことを言うと、とんでもない竹箆しっぺ返しを喰らうようだ。


「ところでコレ兄もシャワー?」

「ああ。……いや、そのつもりだったが出直そう。おまえが先に――」

「じゃあ一緒に入る?」

是非ぜひっ!」


 思わず即答してしまった。


 八千代から誘ってきたのであれば断る理由はない。合意の上ならば後ろめたいところも一切ない。そして着替えも持参していない。もうブラキャップで何とかするしかない。


「ん、でも思い出した」

「何だ?」

「浴室の侵入者は撃退するものだって甚代じんだいが言ってた」

「まさか……ここに至ってお預けだと!?」


 妹とシャワーを浴びる千載一遇のチャンスが、父上の余計な入れ知恵で白紙に戻ろうとしている。この事態を重く受け止めた拙者は、降って湧いた助平スケベイベントの頓挫とんざを回避すべく桃色の頭脳を働かせた。


「コレ兄を撃退。ん、いい物があった」


 そのとき、妹が背後で不吉な物音を立てた。

 同時に殺気めいた気配が全身を走り抜けたので、拙者は反射的に八千代を振り返った。


「え、ちょっ!」


 すると目の前には、大きなたらいを頭上に構えた八千代の姿が……。


 身の危険を感じた拙者は、妹のあられもない格好を目に焼きつけながら「撃退」に備えた。だが、三角巾と純白パンツに気を取られ、物凄い速さで放たれる盥に反応できなかった。


 それは凶悪な風をはらんで空を裂くと、拙者の顔をれて脱衣所の壁に激突した。バキバキッと派手な破砕音を響かせる。木製の盥は一瞬で粉々に砕け散った。


「ん、手が滑った」


 八千代は呑気のんきにそう言ったが、拙者はその凄まじい威力に肝を冷やした。もし手を滑らせていなければ、今頃は大怪我ケガをして床に倒れ伏していただろう。


「ででで、出直してくるっ!」


 拙者は脇目も振らずに脱衣所から飛び出した。廊下のうぐいす張りを盛大に踏み鳴らし、自室まで全力半裸疾走。亀甲きっこう縛り柄の寝衣パジャマに着替え、布団に潜って身を震わせる。妹に対する強烈な恐怖心が、拙者をこの惨めな行動へと駆り立てたのだ。


 妹の膂力りょりょくは尋常ではなかった。


 拙者は、八千代の超人振りに戦慄した。たらいを投げたときの動作など、速すぎてまったく目で追えなかった。このぶんだと朝のハリセン修業も、八千代はかなり手心を加えているに違いない。たとえ妄想忍法を駆使したとしても、妹にはまるで勝てる気がしなかった。


「どうなってるんだ……」


 拙者は、妹に関してあまりに無知だった。


 帰り道の出来事を振り返ると、その思いは一段と強くなる。警官と妹のり取りがずっと頭から離れないのだ。隠れ里の事件を八千代が解決したのだとしても、今の拙者なら当たり前のように受け入れられる。


 たった半日。ただ一緒にいただけで、八千代という存在は大きく変わってしまった。そう、まるで拙者の妹は……


 いや、今は思い悩むべきではないだろう。拙者は自戒するように首を振った。色々なことが一度に起こり、きっと冷静な判断ができなくなっているのだ。


萌即ほうそく是妹ぜまい妹即まいそく是萌ぜほう……」


 妹萌えの経文を唱えて心を落ち着かせる。


 そして頭が冷えた拙者は、まず妄想狩りの件を父上に報告しようと思った。

 八千代にかまけて失念していたが、舞衣を奪われた経緯や、いずれその奪還に向かうむねを伝えなければならない。休むのはそれからだ。


 さっそく自室を出た拙者は、日課である忍び足を練習しながら廊下を歩いた。


 こうして気配を消していたにもかかわらず、学校では緒方に見破られてしまった。拙者はまだまだ未熟ということだ。一流の忍者を目指す以上、一分一秒を惜しんで修業に励まなくてはならない。


 西日に染まる回り廊下を、鶯張りが鳴らないように慎重な足取りで進む。程なくして、前方から小さな話し声が聞こえてきた。


 居間の障子がわずかに開いており、そこから父上と八千代の声が漏れていたのだ。妹はいつの間にかシャワーを終えていたらしい。いや、今はそんなことより……。


 拙者の耳は捉えてしまった。二人の会話の中に「比賀ひがの間者」という言葉が混じっていたのを。それは恐らく緒方のことだろう。だが、どうして父上と妹が彼女の話をしているのか。


 好奇心に負けた拙者は、そのまま忍び足を続けて居間に近づいた。そっと聞き耳を立てる。しかし先ほどより声のトーンを落としたのか、上手く聞き取れなかった。拙者は障子の隙間をそっと覗いた。


 上座で胡坐あぐらを掻く父上と、かしの座卓を挟んで向かい合う八千代の背中が見える。


 拙者は父上の唇に目を凝らした。授業で習った妄想読唇術を発動する。言葉をつむぐ唇の動きに合わせ、喋っている内容を妄想する高度な忍法である。



 ひがのさとに にげこまれたら やっかいだ

 そうなるまえに まいをうばいかえして そのべんきを しまつしてこい

 すべては もがくしりゅうを まもるためだ

 くれぐれも これちかには けどられない ようにな



 拙者は愕然がくぜんとした。


 父上が、忍びでもない八千代に任務を命じていたのだ。しかもその内容は、額面通りに受け止めるなら「舞衣を奪い返して緒方を始末してこい」という粗暴なものだった。


 八千代の身体能力をかんがみれば、決して不可能な任務ではないだろう。だがそれだと、あまりに拙者の立つ瀬がないというものだ。


「…………」


 盗み聞きしたことを激しく後悔した。

 世の中には知らない方が幸せなことも多分にある。家族の隠し事など最たる例だろう。


 拙者は物音を立てずにその場から離れると、今度は殊更ことさらに鶯張りを鳴らして歩き、苦々しい思いで居間の障子を開けた。来たばかりであるふうを装う。


「どうした是周これちか、浮かない顔をして?」


 父上は、素知らぬ態度で拙者に話しかけてきた。いつもの軽薄そうな微笑みが、今はとても憎らしく思える。実に不愉快だった。


 拙者が舞衣を奪われたことも、そして奪った相手が比賀の緒方であることもすでに承知しているはずだ。しかし、そんな様子はおくびにも出さない。


「コレ兄、シャワー空いたから」


 八千代も、取ってつけたようにシャワーの話題を持ち出す。

 いちいち相手をするのも面倒だった。


「父上。実は今日、学校の妄想コンテストで――」


 拙者は二人に答えず、くだんの報告だけを早口でまくし立てた。そして、もう寝るから拙者の夕飯は要らないと断りを入れ、心配する二人を尻目に自室へ戻った。


 ――偽りの家族。


 ふと、そんな言葉が脳裏をよぎる。危ういと感じていた家族の絆が、思わぬところから瓦解し始めたようだ。


「萌即是妹、妹即是萌……」


 拙者は空腹を抱えたまま、薄暗い部屋で漫然と夜を過ごすのだった。

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