其の肆 眠れぬ夜
その後、拙者は何事もなく自宅に帰り着いた。
魂の一部を奪われた状態だが、途中で気分が悪くなることもなかった。妄想を狩られても特に障害は出ない――という
「布団を敷いてあるからコレ兄は自室で休んで。永眠は計画的に」
玄関の格子戸を開け、八千代が振り返りながら言った。細やかな心遣いが身に
拙者は言われた通りに自室へ直行すると、黄色いトラックスーツを脱ぎ捨て半裸になった。
「…………」
だが、寝ようと思って急に眠くなるものでもない。
今日はいっぱい汗を
そう考えた拙者は布団を出ると、半裸のまま浴室へ向かった。入浴中のサインプレートが裏返っていたので、
「あ……!」
だが室内には先客がいた。
上半身裸で眼鏡も外していたのに、なぜか頭の三角巾は着けたままの八千代だった。
「おおおおおおおっぱぃ!」
兄の予想を
「妹よ、兄貴を
偉大なる異人の遺志を継ぐように、拙者は右手を
「ん、
すると八千代はあっさり了承し、半裸のまま半裸の拙者に抱きついてきた。
腹部に押し当てられる二つの柔らかい感触。これには拙者の
確かに要求したのは拙者だが、この格好で兄妹が抱き合うのは色々と問題がある。それに何より、拙者にも羞恥心というものが微粒子程度にはあるのだ。
「八千代、おまえには恥じらいってものがないのか!」
「あんまり」
無表情でサラッと返される。
八千代に
「ところでコレ兄もシャワー?」
「ああ。……いや、そのつもりだったが出直そう。おまえが先に――」
「じゃあ一緒に入る?」
「
思わず即答してしまった。
八千代から誘ってきたのであれば断る理由はない。合意の上ならば後ろめたいところも一切ない。そして着替えも持参していない。もうブラキャップで何とかするしかない。
「ん、でも思い出した」
「何だ?」
「浴室の侵入者は撃退するものだって
「まさか……ここに至ってお預けだと!?」
妹とシャワーを浴びる千載一遇のチャンスが、父上の余計な入れ知恵で白紙に戻ろうとしている。この事態を重く受け止めた拙者は、降って湧いた
「コレ兄を撃退。ん、いい物があった」
そのとき、妹が背後で不吉な物音を立てた。
同時に殺気めいた気配が全身を走り抜けたので、拙者は反射的に八千代を振り返った。
「え、ちょっ!」
すると目の前には、大きな
身の危険を感じた拙者は、妹のあられもない格好を目に焼きつけながら「撃退」に備えた。だが、三角巾と純白パンツに気を取られ、物凄い速さで放たれる盥に反応できなかった。
それは凶悪な風を
「ん、手が滑った」
八千代は
「ででで、出直してくるっ!」
拙者は脇目も振らずに脱衣所から飛び出した。廊下の
妹の
拙者は、八千代の超人振りに戦慄した。
「どうなってるんだ……」
拙者は、妹に関してあまりに無知だった。
帰り道の出来事を振り返ると、その思いは一段と強くなる。警官と妹の
たった半日。ただ一緒にいただけで、八千代という存在は大きく変わってしまった。そう、まるで拙者の妹は……
いや、今は思い悩むべきではないだろう。拙者は自戒するように首を振った。色々なことが一度に起こり、きっと冷静な判断ができなくなっているのだ。
「
妹萌えの経文を唱えて心を落ち着かせる。
そして頭が冷えた拙者は、まず妄想狩りの件を父上に報告しようと思った。
八千代に
さっそく自室を出た拙者は、日課である忍び足を練習しながら廊下を歩いた。
こうして気配を消していたにも
西日に染まる回り廊下を、鶯張りが鳴らないように慎重な足取りで進む。程なくして、前方から小さな話し声が聞こえてきた。
居間の障子がわずかに開いており、そこから父上と八千代の声が漏れていたのだ。妹はいつの間にかシャワーを終えていたらしい。いや、今はそんなことより……。
拙者の耳は捉えてしまった。二人の会話の中に「
好奇心に負けた拙者は、そのまま忍び足を続けて居間に近づいた。そっと聞き耳を立てる。しかし先ほどより声のトーンを落としたのか、上手く聞き取れなかった。拙者は障子の隙間をそっと覗いた。
上座で
拙者は父上の唇に目を凝らした。授業で習った妄想読唇術を発動する。言葉を
ひがのさとに にげこまれたら やっかいだ
そうなるまえに まいをうばいかえして そのべんきを しまつしてこい
すべては もがくしりゅうを まもるためだ
くれぐれも これちかには けどられない ようにな
拙者は
父上が、忍びでもない八千代に任務を命じていたのだ。しかもその内容は、額面通りに受け止めるなら「舞衣を奪い返して緒方を始末してこい」という粗暴なものだった。
八千代の身体能力を
「…………」
盗み聞きしたことを激しく後悔した。
世の中には知らない方が幸せなことも多分にある。家族の隠し事など最たる例だろう。
拙者は物音を立てずにその場から離れると、今度は
「どうした
父上は、素知らぬ態度で拙者に話しかけてきた。いつもの軽薄そうな微笑みが、今はとても憎らしく思える。実に不愉快だった。
拙者が舞衣を奪われたことも、そして奪った相手が比賀の緒方であることもすでに承知しているはずだ。しかし、そんな様子はおくびにも出さない。
「コレ兄、シャワー空いたから」
八千代も、取ってつけたようにシャワーの話題を持ち出す。
いちいち相手をするのも面倒だった。
「父上。実は今日、学校の妄想コンテストで――」
拙者は二人に答えず、
――偽りの家族。
ふと、そんな言葉が脳裏を
「萌即是妹、妹即是萌……」
拙者は空腹を抱えたまま、薄暗い部屋で漫然と夜を過ごすのだった。
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