其の参 知らない妹

「まだ昼過ぎだったか」


 保健室で寝ている間に、随分ずいぶんと時間の感覚が狂ってしまったようだ。


 廊下の窓から見える校庭は、燦々さんさんと降り注ぐ陽光で満ちあふれている。夕方くらいかと思っていたが、実際には妄想コンテストから数時間しか経っていなかった。


 拙者は八千代を連れて職員室に立ち寄ると、これから帰宅するむねを担任の仲尾先生に伝えた。


芦辺あしべちゃん、歩いて帰れる? 無理しないでね。必要なら車を出してあげるわよ?」

「いえ。美才治びさいじ先生に殴ってもらったので、もう大丈夫です。あ、それと頭の包帯ありがとうございました」


 先生の凶相きょうそうに軽い立ちくらみを覚えながらも、拙者は丁寧に頭を下げて感謝の意を示した。


 すると、その様子を見ていた八千代が、


「コレにいの先生、化粧を施した般若はんにゃみたいな顔だね」


 と、率直すぎる感想を漏らした。何という命知らずな発言か。


 恐怖した拙者は自身に金縛りの術を発動、下を向いたまま動けなくなった。ひたいにじんわりとあぶらあせにじむ。永遠とも思える長い沈黙。


「…………」


 無言の重圧プレッシャーねた拙者は、なけなしの勇気を振り絞って謝罪の言葉を口にする。


「あの、妹が本音を……じゃなくて、妄想コンテストでは拙者の我儘わがままでご迷惑をおかけして、誠に申し訳ありませんでしたぁ~!」


 語尾が無様に震えた。


 先生と目を合わせることができず、拙者の視線は床の上を這いずりまわった。八千代の非礼を詫びるつもりが、著しい勇気不足で別件の謝罪となった。


「いいの、妄想コンテストのことは気にしないで。おとこなら、決して譲れぬ戦場が一つくらいはあるものよ。それはそうと、口の悪い妹さんで芦辺ちゃんも大変ね」


 ――ぐはっ!


「コレ兄が失礼しました」


 ――がふっ!


 まさかのダブルパンチで心をられた拙者は、妹の手を引いて逃げるように職員室を辞した。校門を出て帰路につく。ようやく極度の緊張感から解放された。


 しかし肩の力を抜いて歩き出すと、再び大量の汗が噴き出してきた。今度は脂汗ではない。厳しい暑さによる発汗だ。


 通学路には陽射しを遮るものがなく、遠くで逃げ水が油絵のように揺蕩たゆたっている。これでは汗を掻いても仕方がない。


 だが妹は暑さに強いのか、涼しげな顔で拙者の隣を歩いていた。


「八千代、今日は迎えに来させて悪かったな。わざわざ学校を早退したんだろ?」

「ん、苦しゅうない。甚代じんだいに頼まれたから」


 八千代は興味なさそうに答えると、紺色の下縁眼鏡アンダーリムをクイッと押し上げた。


 妹が「甚代」と呼ぶ人物、それはもちろん父上のことである。八千代は、普段から父上を下の名で呼び捨てにしているのだ。何時いつからそう呼ぶようになったかは定かでない。だが初めて聞いたとき、拙者はかなりのショックを受けた。


 父上も黙認しているので、何か事情があるのは確かだろう。例えば八千代が養女で、父上を親として認めない場合だ。実際、八千代の顔は両親のどちらにも似ていなかった。


 そして、妹の養女説を唱える理由がもう一つある。それは母上の露骨すぎる拒絶だ。


 失踪する前の母上は、明らかに八千代のことを嫌っていた。まるで自分の娘ではないように接していたのだ。憎んでいるようですらあった。


 その所為せいで拙者は母上側、八千代は父上側という構図が出来上がり、家族の間にみぞを作っていた。妹に対してへだてがましいのもそういった経緯があるからだ。母上がいなくなって以降は、ずっと蚊帳かやの外に置かれている気分だった。


「……なあ、八千代」


 珍しく二人きりになれたので、拙者は兄妹の遠すぎる距離を縮めようと呼びかけた。様々な疑問をぶつけ、妹に対する苦手意識を払拭ふっしょくしようと思ったのだ。


「おまえは、どうして妄想忍法を学ばないのだ?」


 拙者の知る限り、妹は一度として忍法の修業をしたことがない。父も決して忍びの道を強要しようとせず、妹を普通科の中学に通わせている。萌隠もがくし流の人間としては異例のことだ。


「ん。そういうの、できない体質だから」

「できない体質?」


 よく分からない答えが返ってきた。


 妄想できない体質、という意味だろうか。それ以外の解釈はできなかったが、拙者にはただの言い訳にしか聞こえなかった。


「単なる食わず嫌いじゃないのか? もし良ければ拙者が教えてやるが」

「ん、片腹痛い」


 辛辣しんらつすぎる言葉の刃がグサッ! 拙者の胸を容赦なく貫いた。


 元々あまり乗り気でなかった所為か、その一言ですっかり心が折れてしまう。やはり八千代は苦手だった。拙者は、まだ心の傷が浅いうちに会話を切り上げた。


「…………」


 そのまま気詰まりな雰囲気で歩いていると、やがて通学路は見慣れたT字路に差しかかった。拙者の足が無意識に止まる。T字路の突き当たりには細長い川が流れていた。


「どうしたのコレ兄、心不全?」

「この場所は……速やかに通過しなければっ!」


 そのとき拙者の脳内で逆行再現フラッシュバックしたのは、川上からドンブラコナリと流れてくる舞衣まいの姿。


 つまり、ここは拙者が無実の罪を着せられ、半裸のまま泳いで逃げた場所なのである。言うなれば鬼門だった。


「コレ兄、この川で泳ぎたいの?」

「いや、そんなバカな」

「今なら雨上がり増水キャンペーン実施中」

「うわっ、押すな!」


 急に背後から突き落とされそうになり、拙者は慌てて八千代の身体にしがみついた。


 その拍子に気づいたのだが、どうやら八千代は胸が大きいようだ。拙者より頭二つも身長が低いため、完全にあなどっていた。せするタイプらしい。拙者はリサーチの必要性をひしひしと感じ、八千代のエプロンにそっと手を這わせた。リアルの妹こそ苦手な拙者だが、何を隠そうリアルのおっぱいは得意なのだ。


「……ちょっといいかな、そこのきみ

「ぬわっ!」


 おっぱい調査中だった拙者は、急に背後から声をかけられ文字通り飛び上がってしまった。


「失礼、私はこういう者だ」


 そう言って警察手帳を取り出したのは、見覚えのある中年男性だった。彼のほうもナイスガイな拙者を覚えていたらしい。すぐに血相を変えて気色けしきばんだ。


「おまえは今朝の!」


 低い声に緊張を走らせる。


「半裸逃亡犯め、今度は少女に何をしていた!」


 拙者は、八千代のエプロンから素早く手を離した。


「い、いえ違います。こいつは拙者の巨乳かもしれない妹で……」

「また『妹』か。トラックスーツ姿で妹の身体を撫でまわす兄がどこにいる?」


 ――ここにいるっ!


 拙者は、胸を張って堂々と答えたかった。だがやましいところはないものの、この警官をり込める自信もなかった。まったく鬼門が良い仕事をしているではないか。


 とにかく、こうなった以上は逃げの一手。またしてもトンズラの術しかない。


 拙者は、トラックスーツに仕込んであった「パンツ撒菱まきびし」を惜しみなく地面に放った。水色ストライプの女性用下着である。相手が男なら間違いなく拾って、速攻で頭に被るはずだ。


 しかし警官は下着のたしなみが浅かったのか、パンツ撒菱をガン無視すると、拙者の右手首にジャラリと手錠をかけた。とんだ見込み違いだった。拾ったパンツを被ろうとしていた拙者は、抵抗するすべもなく拘束されてしまった。


「こうしてヘンタイ忍者は逮捕されたのです」


 八千代が紙芝居を読み上げるように、拙者の逮捕劇を冷淡無情にまとめる。完全に他人事ひとごとだ。せめて「コレ兄」と呼んでくれたら兄妹だと分かるのに、助ける気がないのだろうか。


「八千代、この薄情な妹め。拙者の危機を見て思うことはないのか?」

「愚の骨頂?」


 ――のああっ!


 平然と吐き出される言葉の凶器が、すでに弱り切った拙者の心をズタズタに引き裂いた。


「署までご同行願おうか」


 警官の冷たい声が耳朶じだを叩く。


 拙者は人生の終焉おわりを悟った。もしもすべてをリセットできるなら、次こそは舞衣の全力脱衣の術を拝んでやる。そんな虚しい夢を見て、うっすら自嘲の笑みを浮かべるのだった。


嗚呼ああ、さらば愛しき妄想の日々よ……」


 打ちひしがれた拙者は、むくつけき警官に手を引かれて歩き出した。


 そのとき、不意に八千代が拙者たちの前に立ちふさがり、不躾ぶしつけな半眼で警官の顔を見上げた。


「おまわりさん」

「ああ、怖かったかい? もう変態は逮捕したから大丈夫だよ」

「それより私のこと覚えてる?」

「え……?」


 警官はしばらく不審そうに妹を見つめていたが、矢庭やにわに態度を軟化させると、そのいかつい顔に不釣り合いな愛想笑いを浮かべた。


「確か芦辺先生の……。これは失礼しましたっ!」

「ん、お勤め大儀である」


 どうやら八千代は、この警官とは以前から顔見知りのようだった。しかし二人の関係は、今のり取りを見る限り尋常とは思えなかった。明らかに八千代の方が上から目線なのだ。


「隠れ里の誘拐事件では大変お世話になりました」


 警官が、ヘコヘコとへりくだりながら礼を述べる。


 隠れ里といえば、萌賀ほうがにも比賀ひがにも属さない「はぐれ忍者」たちの巣窟そうくつである。正確な場所は拙者も知らないが、二つの里の境界線上にあるといううわさだった。


 その隠れ里で起こった事件を、一般人の八千代が解決したというのだろうか……。


「隠れ里の件は他言無用。甚代に言われなかった?」

「そ、そうでした。これはうっかり……」


 警官が、仰々ぎょうぎょうしい動作で口に手を当て、何度も頭を下げる。平身低頭するその姿は、まるで妹を恐れているかのようだ。拙者は呆気にとられ、しばらく開いた口が塞がらなかった。


「ところで、そのヘンタイ忍者は私の兄様。大目に見てもらえない?」

「え、まさか芦辺先生のご子息ですか? これは重ね重ね失礼を。すぐに釈放します!」


 こうして何処どこぞのヘンタイ忍者は、驚くほどすんなり釈放される運びとなった。


 警官はあたふたと手錠を外すと、


「今朝方お兄様が脱ぎ捨てた忍者装束は、最寄りの交番で大切にお預かりしております。返却致しますので後日お立ち寄りください」


 そう言って、拙者にも深々と頭を下げた。


 気持ち悪いくらい愛想が良い。すっかりVIP待遇だ。手の平を返す警官の様子に、拙者はただただ戸惑うばかりだった。


「コレ兄、警察に迷惑かけたらダメ」


 妹に抑揚よくようのない声で叱られる。


 拙者は後頭部をきながら下を向いた。反省したわけでも、決まりが悪かったわけでもない。妹のことを何一つ知らないと痛感したのだ。家にいる八千代を見て、すべてを知ったつもりになっていた。


 だが実際は違った。拙者の思い込みに過ぎなかった。ひとたびふたを開ければ、そこには様々な顔を持つ妹がいたのだ。


「コレ兄、帰ろう」

「……ああ、そうだな」

「お気をつけて」


 警官の敬礼に見送られて家路につく。


 その道中、拙者は真剣に考え込んでしまった。

 たとえ心を折られても、リアルの妹と向き合う機会を設けるべきではないかと。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る