其の参 知らない妹
「まだ昼過ぎだったか」
保健室で寝ている間に、
廊下の窓から見える校庭は、
拙者は八千代を連れて職員室に立ち寄ると、これから帰宅する
「
「いえ。
先生の
すると、その様子を見ていた八千代が、
「コレ
と、率直すぎる感想を漏らした。何という命知らずな発言か。
恐怖した拙者は自身に金縛りの術を発動、下を向いたまま動けなくなった。
「…………」
無言の
「あの、妹が本音を……じゃなくて、妄想コンテストでは拙者の
語尾が無様に震えた。
先生と目を合わせることができず、拙者の視線は床の上を這いずりまわった。八千代の非礼を詫びるつもりが、著しい勇気不足で別件の謝罪となった。
「いいの、妄想コンテストのことは気にしないで。
――ぐはっ!
「コレ兄が失礼しました」
――がふっ!
まさかのダブルパンチで心を
しかし肩の力を抜いて歩き出すと、再び大量の汗が噴き出してきた。今度は脂汗ではない。厳しい暑さによる発汗だ。
通学路には陽射しを遮るものがなく、遠くで逃げ水が油絵のように
だが妹は暑さに強いのか、涼しげな顔で拙者の隣を歩いていた。
「八千代、今日は迎えに来させて悪かったな。わざわざ学校を早退したんだろ?」
「ん、苦しゅうない。
八千代は興味なさそうに答えると、紺色の
妹が「甚代」と呼ぶ人物、それはもちろん父上のことである。八千代は、普段から父上を下の名で呼び捨てにしているのだ。
父上も黙認しているので、何か事情があるのは確かだろう。例えば八千代が養女で、父上を親として認めない場合だ。実際、八千代の顔は両親のどちらにも似ていなかった。
そして、妹の養女説を唱える理由がもう一つある。それは母上の露骨すぎる拒絶だ。
失踪する前の母上は、明らかに八千代のことを嫌っていた。まるで自分の娘ではないように接していたのだ。憎んでいるようですらあった。
その
「……なあ、八千代」
珍しく二人きりになれたので、拙者は兄妹の遠すぎる距離を縮めようと呼びかけた。様々な疑問をぶつけ、妹に対する苦手意識を
「おまえは、どうして妄想忍法を学ばないのだ?」
拙者の知る限り、妹は一度として忍法の修業をしたことがない。父も決して忍びの道を強要しようとせず、妹を普通科の中学に通わせている。
「ん。そういうの、できない体質だから」
「できない体質?」
よく分からない答えが返ってきた。
妄想できない体質、という意味だろうか。それ以外の解釈はできなかったが、拙者にはただの言い訳にしか聞こえなかった。
「単なる食わず嫌いじゃないのか? もし良ければ拙者が教えてやるが」
「ん、片腹痛い」
元々あまり乗り気でなかった所為か、その一言ですっかり心が折れてしまう。やはり八千代は苦手だった。拙者は、まだ心の傷が浅いうちに会話を切り上げた。
「…………」
そのまま気詰まりな雰囲気で歩いていると、やがて通学路は見慣れたT字路に差しかかった。拙者の足が無意識に止まる。T字路の突き当たりには細長い川が流れていた。
「どうしたのコレ兄、心不全?」
「この場所は……速やかに通過しなければっ!」
そのとき拙者の脳内で
つまり、ここは拙者が無実の罪を着せられ、半裸のまま泳いで逃げた場所なのである。言うなれば鬼門だった。
「コレ兄、この川で泳ぎたいの?」
「いや、そんなバカな」
「今なら雨上がり増水キャンペーン実施中」
「うわっ、押すな!」
急に背後から突き落とされそうになり、拙者は慌てて八千代の身体にしがみついた。
その拍子に気づいたのだが、どうやら八千代は胸が大きいようだ。拙者より頭二つも身長が低い
「……ちょっといいかな、そこの
「ぬわっ!」
おっぱい調査中だった拙者は、急に背後から声をかけられ文字通り飛び上がってしまった。
「失礼、私はこういう者だ」
そう言って警察手帳を取り出したのは、見覚えのある中年男性だった。彼の
「おまえは今朝の!」
低い声に緊張を走らせる。
「半裸逃亡犯め、今度は少女に何をしていた!」
拙者は、八千代のエプロンから素早く手を離した。
「い、いえ違います。こいつは拙者の巨乳かもしれない妹で……」
「また『妹』か。トラックスーツ姿で妹の身体を撫でまわす兄がどこにいる?」
――ここにいるっ!
拙者は、胸を張って堂々と答えたかった。だが
とにかく、こうなった以上は逃げの一手。またしてもトンズラの術しかない。
拙者は、トラックスーツに仕込んであった「パンツ
しかし警官は下着の
「こうしてヘンタイ忍者は逮捕されたのです」
八千代が紙芝居を読み上げるように、拙者の逮捕劇を冷淡無情に
「八千代、この薄情な妹め。拙者の危機を見て思うことはないのか?」
「愚の骨頂?」
――のああっ!
平然と吐き出される言葉の凶器が、すでに弱り切った拙者の心をズタズタに引き裂いた。
「署までご同行願おうか」
警官の冷たい声が
拙者は人生の
「
打ち
そのとき、不意に八千代が拙者たちの前に立ち
「お
「ああ、怖かったかい? もう変態は逮捕したから大丈夫だよ」
「それより私のこと覚えてる?」
「え……?」
警官はしばらく不審そうに妹を見つめていたが、
「確か芦辺先生の……。これは失礼しましたっ!」
「ん、お勤め大儀である」
どうやら八千代は、この警官とは以前から顔見知りのようだった。しかし二人の関係は、今の
「隠れ里の誘拐事件では大変お世話になりました」
警官が、ヘコヘコと
隠れ里といえば、
その隠れ里で起こった事件を、一般人の八千代が解決したというのだろうか……。
「隠れ里の件は他言無用。甚代に言われなかった?」
「そ、そうでした。これはうっかり……」
警官が、
「ところで、そのヘンタイ忍者は私の兄様。大目に見てもらえない?」
「え、まさか芦辺先生のご子息ですか? これは重ね重ね失礼を。すぐに釈放します!」
こうして
警官はあたふたと手錠を外すと、
「今朝方お兄様が脱ぎ捨てた忍者装束は、最寄りの交番で大切にお預かりしております。返却致しますので後日お立ち寄りください」
そう言って、拙者にも深々と頭を下げた。
気持ち悪いくらい愛想が良い。すっかりVIP待遇だ。手の平を返す警官の様子に、拙者はただただ戸惑うばかりだった。
「コレ兄、警察に迷惑かけたらダメ」
妹に
拙者は後頭部を
だが実際は違った。拙者の思い込みに過ぎなかった。ひとたび
「コレ兄、帰ろう」
「……ああ、そうだな」
「お気をつけて」
警官の敬礼に見送られて家路につく。
その道中、拙者は真剣に考え込んでしまった。
たとえ心を折られても、リアルの妹と向き合う機会を設けるべきではないかと。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます