其の弐 兄の焦燥
「
拙者は、つい非難するような口調で
「その前に
そう問い返された拙者は、目覚める以前の記憶がないことを改めて自覚した。きっと大切な何かを忘れているのだ。心のモヤモヤは一向に晴れる気配がなかった。
そんな拙者に思い出す糸口を与えたのは、
「あなたは緒方
それを聞いた瞬間、拙者はハッと息を呑んだ。
失われた記憶が渡り鳥のように舞い戻り、鮮明な像を結んで脳内に溢れ出す。
「その顔、どうやら思い出したみたいね」
「はい。拙者は妄想コンテストで緒方と戦い……そして敗れました」
「そうね、その通りよ。深刻な記憶喪失じゃなくて良かったわ」
「でも肝心なことが分かりません。妹遁の術が使えないとはどういうことですか?」
もう一度、同じ言葉で先生に問いかける。そもそも拙者の記憶障害が、今回の件にどう関係しているというのか。
「あなたは、先の戦いで妹をトイレに流された。つまり妄想の妹を奪われたということよ」
「待ってください。あのとき妹は確かに便器の底へ消えました。でもそれは妹遁の術が解けたというだけで、妄想の妹を奪うなんて、そんな
美才治先生は、反論する拙者を右手で制した。
「
「妄想狩り? 緒方が使った奥義のことですか?」
「そう。具現化した便器に妄想を押し込み、異次元へ流してしまう
「まさか。具現化できないのは、単に妄想オーラが
妹を奪うという発想に
しかし美才治先生は、気を悪くした様子もなく説明を続ける。
「芦辺君も授業で習ったはずよ。妄想忍法というのは、魂の一部を『
「……っ!」
衝撃の事実に二の句が継げなかった。
拙者は、ようやく先生の言わんとするところを理解した。要するに、器ごと流された妄想は具現化が解けず、そのまま便器に封じられ、術のやり直しが利かないということなのだ。
「今の芦辺君は魂の一部が欠落した状態。だから安静にして欲しいと言ったの。これまでに、妄想を奪われて障害が出た者はいないけれど、念のためにね。それと――」
しかし拙者の耳は、もう先生の声など捉えていなかった。
大事な妹が便器により
「芦辺君?」
「キモォー! キモォー! キモォー!」
現実を受け入れられない拙者は、ひたすら妹を求めて叫び続けた。何度も掛け声を繰り返す。頭の中は
「ちょ、ちょっと芦辺君、落ち着きなさい!」
先生が慌てて拙者の肩を押さえ、無理やりベッドの上に座らせる。
拙者は首を巡らし、室内を隅々まで観察した。しかし舞衣の姿はどこにもない。やはり妹の具現化はできなかった。位置ズレではなく、本当に現れなかったのだ。
「そんな……」
悔しさが込み上げる。
拙者が厠封じの術に心を乱していれば、舞衣は途中で消えて無事だったかもしれない。皮肉にも、対戦中の高い集中力が
「芦辺君、
「美才治先生!」
同情の言葉を聞きたくなかった拙者は、それを遮るように先生の名を呼んだ。
「は、はい?」
「
拙者は
妹を奪うという卑劣な行為、それは妄想大戦の再現に他ならない。ならば比賀の目的は一つ、第二次妄想大戦を引き起こすことだ。緒方はその
しかし先生は、そんな拙者の推理に対して首を振った。
「比賀の里は、今回の件に関与してないそうよ。だから宣戦布告もないわ。理由は分からないけれど、妄想を――妹を狩られたのは、今のところ芦辺君一人だけよ」
「え?」
とんだ
大戦の
「萌賀に潜入したのは緒方だけなんですか?」
「ええ。彼女は個人的な都合で、芦辺君の妹を標的にしたのかもしれないわね」
そうなると、いよいよ緒方の真意が分からなかった。
あるいは、旧敵の次期当主に
いずれにせよ、緒方を捕らえて洗いざらい吐かせれば済む話だ。
拙者は、そう考えると居ても立ってもいられなくなった。指先で何度も
「芦辺君、
「ならば、その手段は緒方から聞き出します! あいつは今どこにいるんですか? 気絶した拙者を盾にして逃げたはずですよね? それとも捕まえたんですか?」
「落ち着いて。緒方はまだ逃走中だけれど、先生やPTAの方々が動いているわ。数日あれば確実に捕まえられるはずよ。地の利はこちらにあるのだから」
先生の話によると、里の要所に
萌賀と比賀、隣り合う里を
「だから芦辺君は少し休むといいわ」
「そんな暇はありません。拙者もその包囲網に加わって緒方を――」
「芦辺君、少しは聞き分けなさい!」
美才治先生に一喝され、拙者は思わず肩を
「これは命令よ。さっき家の人を呼んだから、今日は大人しく帰りなさい。いいわね?」
「家の人?」
拙者が問い返すと、計ったようなタイミングで保健室のドアが開いた。そして
「まいど」
八千代は出前のような
「妹の八千代です。いつも兄が生き恥を
「え、生き恥? いえ、それは、そんなことはないと思うけれど、ええ」
美才治先生が、妹の奇抜な挨拶に戸惑いながら、しどろもどろに返答する。
その横で、拙者も困惑を隠せずにいた。兄に対して冷淡な八千代が、わざわざ学校まで迎えに来たからだ。いつもなら呼ばれても断るだろう。どういう風の吹きまわしだろうか。
「八千代……」
「ん。コレ
妹の優しい言葉が、鋭利な刃物のように拙者の胸を
地味な服装も、ぶっきら棒な口調も、いちいち普段通りの八千代だった。迎えには来たが、拙者を心配する様子など
「芦辺君。家に帰ったら、妄想狩りの一件を
「……はい、分かりました」
「それじゃ八千代さん。お兄さんのこと、よろしく頼んだわね」
「
無表情で親指を立てるリアルの妹に、拙者は一抹の不安を覚えるのだった。
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