其の弐 兄の焦燥

妹遁まいとんの術が使えないとはどういうことですか?」


 拙者は、つい非難するような口調でたずねてしまった。納得できる話ではなかったからだ。


「その前に芦辺あしべ君、妄想コンテストの結果は覚えてるかしら?」


 そう問い返された拙者は、目覚める以前の記憶がないことを改めて自覚した。きっと大切な何かを忘れているのだ。心のモヤモヤは一向に晴れる気配がなかった。


 そんな拙者に思い出す糸口を与えたのは、美才治びさいじ先生が放った次の一言だった。


「あなたは緒方緋雨ひさめと戦ったのよ」


 それを聞いた瞬間、拙者はハッと息を呑んだ。

 失われた記憶が渡り鳥のように舞い戻り、鮮明な像を結んで脳内に溢れ出す。


「その顔、どうやら思い出したみたいね」

「はい。拙者は妄想コンテストで緒方と戦い……そして敗れました」

「そうね、その通りよ。深刻な記憶喪失じゃなくて良かったわ」

「でも肝心なことが分かりません。妹遁の術が使えないとはどういうことですか?」


 もう一度、同じ言葉で先生に問いかける。そもそも拙者の記憶障害が、今回の件にどう関係しているというのか。


「あなたは、先の戦いで妹をトイレに流された。つまり妄想の妹を奪われたということよ」

「待ってください。あのとき妹は確かに便器の底へ消えました。でもそれは妹遁の術が解けたというだけで、妄想の妹を奪うなんて、そんな出鱈目デタラメなことできるはずが――」


 美才治先生は、反論する拙者を右手で制した。


比婆古ひばこ流の『妄想狩り』は、かつての大戦でも悪名をとどろかせた無慈悲な所業よ。決して荒唐こうとう無稽むけいな話じゃないわ」

「妄想狩り? 緒方が使った奥義のことですか?」

「そう。具現化した便器に妄想を押し込み、異次元へ流してしまうかわや封じの術ね。今では使い手の少ない最上位の忍法よ。この術で狩られた妄想は、二度と具現化できなくなるの」

「まさか。具現化できないのは、単に妄想オーラが枯渇こかつしたからでは?」


 妹を奪うという発想に合点がてんが行かない拙者は、疑問をていして妄想狩りの理屈に反発した。


 しかし美才治先生は、気を悪くした様子もなく説明を続ける。


「芦辺君も授業で習ったはずよ。妄想忍法というのは、魂の一部を『うつわ』として放ち、そこへ妄想オーラを流し込んで具現化するものだと。厠封じの術は、その器ごと便器の彼方へ封じてしまう忍法なの。つまり、あなたの魂の一部は、妄想の妹と一緒に奪われてしまったのよ」

「……っ!」


 衝撃の事実に二の句が継げなかった。


 拙者は、ようやく先生の言わんとするところを理解した。要するに、器ごと流された妄想は具現化が解けず、そのまま便器に封じられ、術のやり直しが利かないということなのだ。


「今の芦辺君は魂の一部が欠落した状態。だから安静にして欲しいと言ったの。これまでに、妄想を奪われて障害が出た者はいないけれど、念のためにね。それと――」


 しかし拙者の耳は、もう先生の声など捉えていなかった。


 大事な妹が便器により拉致らちされたのだ。冷静に話を聞いていられる心境ではなかった。


 覚束おぼつかない足取りでベッドから立ち上がる。


「芦辺君?」

「キモォー! キモォー! キモォー!」


 現実を受け入れられない拙者は、ひたすら妹を求めて叫び続けた。何度も掛け声を繰り返す。頭の中は舞衣まいのことで一杯だった。


「ちょ、ちょっと芦辺君、落ち着きなさい!」


 先生が慌てて拙者の肩を押さえ、無理やりベッドの上に座らせる。

 拙者は首を巡らし、室内を隅々まで観察した。しかし舞衣の姿はどこにもない。やはり妹の具現化はできなかった。位置ズレではなく、本当に現れなかったのだ。


「そんな……」


 悔しさが込み上げる。


 拙者が厠封じの術に心を乱していれば、舞衣は途中で消えて無事だったかもしれない。皮肉にも、対戦中の高い集中力があだとなったのだ。もちろん意図して具現化を解くこともできたが、その為には妹に触れる必要があった。どのみち妄想狩りはけられなかったのだ。


「芦辺君、つらいとは思うけれど――」

「美才治先生!」


 同情の言葉を聞きたくなかった拙者は、それを遮るように先生の名を呼んだ。


「は、はい?」

比賀ひがの里から宣戦布告はありましたか?」


 拙者は義憤ぎふんに駆られた。


 妹を奪うという卑劣な行為、それは妄想大戦の再現に他ならない。ならば比賀の目的は一つ、第二次妄想大戦を引き起こすことだ。緒方はその先鋒せんぽうを担った一人だろう。妄想狩りの被害は校内だけにとどまらず、すでに萌賀ほうがの各地で広がっているはずだ。


 しかし先生は、そんな拙者の推理に対して首を振った。


「比賀の里は、今回の件に関与してないそうよ。だから宣戦布告もないわ。理由は分からないけれど、妄想を――妹を狩られたのは、今のところ芦辺君一人だけよ」

「え?」


 とんだかたかしだった。


 大戦の勃発ぼっぱつどころか、被害者は拙者しかいないというのだ。


「萌賀に潜入したのは緒方だけなんですか?」

「ええ。彼女は個人的な都合で、芦辺君の妹を標的にしたのかもしれないわね」


 そうなると、いよいよ緒方の真意が分からなかった。


 あるいは、旧敵の次期当主に一泡ひとあわ吹かせてやろうと思ったのか。比婆古流の忍者なら、確かに溜飲りゅういんが下がることだろう。しかしそれが動機だとしたら、あまりに労力を度外視している。流派を偽り、単独で潜入してまでやることではない。


 いずれにせよ、緒方を捕らえて洗いざらい吐かせれば済む話だ。


 拙者は、そう考えると居ても立ってもいられなくなった。指先で何度もひざがしらを叩く。緒方の行方が分かっていれば、すぐにでも保健室を飛び出していただろう。


「芦辺君、あせっちゃダメよ。過去には、奪われた妄想を取り戻したケースもあるの。具体的なことは不明だけれど、妹を救い出す手立ては間違いなく存在するわ」

「ならば、その手段は緒方から聞き出します! あいつは今どこにいるんですか? 気絶した拙者を盾にして逃げたはずですよね? それとも捕まえたんですか?」

「落ち着いて。緒方はまだ逃走中だけれど、先生やPTAの方々が動いているわ。数日あれば確実に捕まえられるはずよ。地の利はこちらにあるのだから」


 先生の話によると、里の要所にあみを張って緒方を待ち構えているという。


 萌賀と比賀、隣り合う里をつなぐ道は限られている。緒方がこの包囲網を突破できる可能性はゼロに近いだろう。


「だから芦辺君は少し休むといいわ」

「そんな暇はありません。拙者もその包囲網に加わって緒方を――」

「芦辺君、少しは聞き分けなさい!」


 美才治先生に一喝され、拙者は思わず肩をすくめた。


「これは命令よ。さっき家の人を呼んだから、今日は大人しく帰りなさい。いいわね?」

「家の人?」


 拙者が問い返すと、計ったようなタイミングで保健室のドアが開いた。そして颯爽さっそうと現れたのは、三角巾にエプロン姿の妹――芦辺八千代だった。


「まいど」


 八千代は出前のような台詞セリフを吐くと、両肩の三つ編みを揺らして先生に頭を下げた。


「妹の八千代です。いつも兄が生き恥をさらしております」

「え、生き恥? いえ、それは、そんなことはないと思うけれど、ええ」


 美才治先生が、妹の奇抜な挨拶に戸惑いながら、しどろもどろに返答する。


 その横で、拙者も困惑を隠せずにいた。兄に対して冷淡な八千代が、わざわざ学校まで迎えに来たからだ。いつもなら呼ばれても断るだろう。どういう風の吹きまわしだろうか。


「八千代……」

「ん。コレにい、おめおめ生き延びた?」


 妹の優しい言葉が、鋭利な刃物のように拙者の胸をえぐる。


 地味な服装も、ぶっきら棒な口調も、いちいち普段通りの八千代だった。迎えには来たが、拙者を心配する様子など微塵みじんもない。


「芦辺君。家に帰ったら、妄想狩りの一件を親御おやごさんに報告するのよ」

「……はい、分かりました」

「それじゃ八千代さん。お兄さんのこと、よろしく頼んだわね」

御意ぎょい


 無表情で親指を立てるリアルの妹に、拙者は一抹の不安を覚えるのだった。

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