第二章 偽りの家族

其の壱 骨を振る校医

 ――いつもの夢を見ていた。


 それは決して架空の物語ではなく、実際にあった過去の一幕ワンシーンだった。


 始まりは満開の桜並木だ。こずえと木漏れ日が織り成す参道を家族四人で歩いている。


 母上、周莉しゅうりに寄り添う幼い頃の拙者。その隣には、産着うぶぎの八千代をおっかなびっくり抱える父上、若き甚代じんだいの姿がある。何の変哲へんてつもない芦辺あしべ家の日常、りし日の風景だ。


 しかしそれは、八千代がぐずった途端に崩壊する。


 優しい笑顔を浮かべた母上が、いきなり茶色のミディアムヘアをき乱し、憎悪に満ちた目で八千代を睨みつけたのだ。


 拙者は豹変ひょうへんした母上が怖かった。復讐者のような眼差しが恐ろしかった。


 だから嘘の尿意を訴え、少しでも八千代を遠ざけようとした。


「母上、おしっこ」


 妹から距離を取れば、いつもの優しい母上に戻る。拙者は幼心おさなごころにそれを知っていた。ただ問題は、近くに公衆トイレがないことだった。前を見ても後ろを見ても、桜並木の一本道だ。


 それでも母上は拙者の手を握ると、


「心配しないで是周これちか、トイレならありますよ」


 そう言って、普段通りの笑顔で導いてくれるのだった。


 そして短い明晰めいせきは、トイレを目前に唐突な終わりを迎える。


 視界が白い煙に覆われると、なぜか最後に「南天ナンテンの花」を象った浮き彫りレリーフが現れ、夢は静かに溶暗フェードアウトしていくのだ――


     ☆


「母上……」


 拙者は、目尻からこぼれる涙で目を覚ました。


 にじむ視界の先には、白いクロス貼りの知らない天井が見える。拙者の部屋ではない。


 目をこすりながら上体を起こすと、顳顬こめかみの辺りがズキズキと痛んだ。反射的に右手を伸ばす。指先の柔らかい感触で、額に包帯が巻かれていると分かる。


「ここは?」


 拙者が寝ていたのは、白いカーテンで仕切られたベッドの上だった。室内には微かな消毒液の匂いが漂っている。どうやら保健室のようだ。


「はて、何があったのか……」


 拙者の記憶は、もやがかかったように不鮮明だった。


 どうして頭部を負傷したのか、なぜ保健室のベッドで寝ていたのか。何一つ思い出せない。こんなことは生まれて初めてだった。


「だ、誰かいませんか?」


 拙者は、抑えた声で遠慮がちに呼びかけた。少し待っても反応がなかったので、取り敢えずベッドから離れようとする。


 そのとき――不意にカーテンが開くと、白衣を着た若い女性がヒョッコリと顔を出した。


「あら芦辺君、もう起きたの?」


 校医の美才治びさいじ癒女ゆめ先生だ。


「御免なさいね。職員会議があって留守にしてたの」


 先生がベッドのそばに歩み寄る。消毒液の匂いに混じって、甘い大人の香りがフワリと拙者の鼻腔びこうをくすぐった。


「頭は痛くない?」

「はい、おかげさまで。包帯ありがとうございました」

「その包帯は私じゃなくて、仲尾先生が愛を込めて巻いたものよ」

「うげっ」


 思い出したように頭が痛くなる。


「少し血がにじんでるわね。念のために傷の具合を診ておきましょう」


 美才治先生が、ハーフアップの明るい茶髪を揺らしながら顔を近づける。口元にある黒子ホクロが妙に色っぽい。年上の女性を意識すると、拙者は照れ臭くて頬が熱くなった。


「なるほど。どうやら手加減されたみたいね。この程度の浅い傷なら、軽く殴ってやれば完治するわ」


 頭の怪我を視認すると、先生は急に物騒なことを言い始めた。それは、壊れかけの機械を叩いて直すような軽いノリだった。


「……え、殴る?」

「大丈夫よ、あっという間に終わるから」

「お、終わるって拙者の人生が?」


 その問いかけに応えたのは、妄想オーラの急激な高まりだった。


 そして次の瞬間、美才治先生の右手にドロン、煙をともない見覚えのある大腿骨だいたいこつが現れた。


 言わずもがな、匕骨あいくちである。妖怪の骨を具現化した骨遁こっとん使いの武器だ。それを美才治びさいじ先生が右手に持って、拙者の目の前で大きく振りかぶっている。


「ちょっ……先生、何を!?」

「ほら、傷口に骨を振るって言うでしょ?」

「それを言うなら傷口に塩を――」

「いくわよ。両手は膝の上ね、そのまま動かないで!」


 拙者の言葉を遮り、凶悪な匕骨が問答無用で振り下ろされる。


「待っ」


 どうして骨遁使いは、そろいも揃って拙者を殴りたがるのか。そこに小さな不満を覚えたが、今は先生を信じて衝撃に備える。目をつむり、言われた通り両手は膝の上へ。無抵抗でベッドに座り、殴られて特殊な性癖に目覚めないかと期待しながら……。


 ――カッコォーン!


 やがて傷口を殴打されると、鹿威ししおどしのような心地よい音が室内に響いた。


「はい、終わったわよ。これで完治ね」

「ぎゃああああ……って、あれ?」


 拙者は盛大に悲鳴をあげたが、殴られた痛みはまったく感じなかった。それどころか、頭のズキズキさえ嘘のように引いていたのだ。原理は不明だが、恐らく傷が完治したのだろう。


「これは一体……?」

「あら、芦辺君は初めてだったかしら。驚かせちゃって御免なさいね」


 そう言って謝ると、美才治先生は近くの丸椅子に腰をかけた。


 拙者は戸惑いながらも、この「不可解な治療」について説明を求めた。


「先生、どうして拙者の怪我は治ったのですか?」


 ただ傷口を殴っただけなのに、と心の中で皮肉を付け加える。


 美才治先生は、まだ手元にある匕骨あいくちを自慢気に握ると、拙者の疑問に笑顔で答えた。


「ご覧の通り、私は妙骨みょうこつ流の忍者よ。骨遁の術で『鎌鼬かまいたち』の骨を具現化するの。厳密に言うと三匹目の鎌鼬ね。芦辺君は、三位さんみ一体の鎌鼬について知ってるかしら?」

「いえ、妖怪には詳しくないので」

「三匹の鎌鼬は、一匹目が対象を転倒させ、二匹目がそれを斬りつけ、そして三匹目が素早く薬を塗るの。パックリ開いても出血しない鎌鼬の傷は、その三匹目が塗る薬のおかげね」


 そこまで聞いてすぐにピンと来た。


「つまり先生の匕骨には、その薬の特性があると?」

「正解。私が具現化する匕骨『薬壷やっこ』は、殴った相手の傷を癒やす力が宿ってるの」


 説明を終えると、先生は襟元えりもとにかかる後れ毛を左手で払った。


「不思議な遁術とんじゅつですね」


 殴打で癒やされる貴重な体験だったが、事前に説明を受けなかった拙者としては、まるでいたちに化かされた気分である。どうせならスッキリ殴られて何かに目覚めたかった。


「というわけで怪我は完治したけれど、まだ経過を見るから一両日中は安静にしてね」

「経過って、どこも痛くないですよ。他にも何か問題が?」

「え? それは……」


 拙者の質問を聞くと、先生は曖昧な態度で言葉をにごした。急に歯切れが悪くなる。明らかに何かを隠している様子だった。


「もしかして、骨で殴られた副作用があるとか?」

「いいえ、薬壷にそういう危険性はないわ」

「じゃあ目覚める前の記憶がないから安静にしろ、という意味ですか?」


 重ねて訊ねると、美才治先生は驚いた顔で拙者を見た。


「記憶障害なんて初耳よ。脳震盪のうしんとうを起こしたのかもしれないわね。詳しく話を聞かせ――」

「その前に! まずは安静にしなくちゃいけない理由を教えてください!」


 語気を強めて迫る。すると先生は、観念したように小さく溜め息をいた。


「本当は、ショックを与えないように時間を置いてから言うつもりだったけれど」

「大丈夫です。後まわしだとかえって気になります。ブラキャップを被っても安眠できません」


 先生が首を傾げる。


「ブラ……? よく分からないけれど、冷静に受け止めなくちゃダメよ?」

「分かっています。勿体もったいつけずに話を進めてください」

「では結論から言うわね。芦辺君。あなたは今、妹遁まいとんの術が使えなくなっているの」

「……はい?」


 美才治先生が何を言っているのか、拙者は即座に理解できなかった。

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