其の漆 トイレに消ゆ
拙者は、対戦フィールドの向こうに立つ相手を見た。
白いリボンで
「お、緒方!?」
そう、甲組の緒方
「
試合を終えて
拙者は反論することもできず、ひたすら困惑するばかりだった。緒方は何を考えているのか。その真意は不明だが、拙者としては対戦に応じる以外にない。指名された側がそれを拒否した場合、試験のルールで減点となるからだ。
「……」
対戦フィールドに入る緒方を見て、拙者も不本意ながらそれに
彼女の瞳に迷いの色はない。
「お互いに名乗りを上げたら試合を始めてちょうだい」
仲尾先生が、第一試合と同じように指示を出して対戦フィールドから離れる。
試合開始が告げられてしまったのだ。もう腹を
「
拙者は名乗りながら掛け声を発した。位置ズレを見越して、少しでも早く舞衣を具現化しようと思ったのだ。相手の出方が分からない以上モタモタしてはいられなかった。
拙者に続いて緒方も名乗りを上げる。
「
「……え!?」
予想外の言葉に耳を疑った。
緒方は
しかしそれは、
「緒方ちゃん、あなた比婆古流って……」
およそ物に動じない仲尾先生が、両目のマスカラをピクピクさせて言葉を詰まらせる。
当然の反応だった。なぜなら、比婆古流は
「なあ、甲組の緒方って
生徒たちが口々に
「萌賀と比賀、まさか第二次妄想大戦の
様々な憶測が無責任に飛び交い、下忍生たちの間で波紋のように広がっていく。
無理もない。萌賀と比賀――二つの里は
「緒方、おまえは本当に比賀者なのか?」
「そうよ」
拙者の問いかけに、緒方の
「冗談では……ないのか?」
「信じられないのね。じゃあ見せてあげるわ」
そう言うと、緒方は静かに妄想オーラを練り始めた。
やがて彼女の横にドロン! 巻き上がる灰色の煙とともに、木目調のオシャレな「個室」が具現化された。
個室というのは、建設現場などで見かける屋外用仮設トイレのことだ。高さニメートル半、重さ九十キログラムを超える大型妄想である。
「そんな……」
拙者は目の前の光景が信じられなかった。いや、信じたくなかった。
しかし緒方が使ったのは、紛れもなく
それは室町時代。
昨今では水洗式が主流であり、温水洗浄便座や擬音装置も備えているという。
「緒方ちゃん。あなたが比賀者だと判明した以上、この試合を許可するわけにはいかないわ」
審判役の仲尾先生が、
その動きを横目で追った緒方は、しかし動揺する素振りもなく、木目調の個室から
「確かに私は比賀者よ。でもいいのかしら?」
緒方があからさまに挑発する。
「異郷の地に忍び込んだ一人の小娘を、大の大人が寄って
それは相手の自尊心を刺激する安手な駆け引きだった。もちろん、仲尾先生にそんな下策は通用しない。あらゆる感情を排して任に当たるのが忍びである。
だが、未熟な拙者は上手く割り切ることができなかった。
「待ってください、仲尾先生。このまま……このまま拙者に戦わせてください!」
感情を優先することが、忍者として失格なのは百も承知である。それでも拙者は、そう言わずにはいられなかった。
「あのね芦辺ちゃん。萌賀の里に潜入した比賀者は、何かしら密命を帯びているものなのよ。だから、あたしたちはその不穏分子を速やかに排除しなければならないの」
「分かっています。ですが彼女は、わざわざ妄想コンテストで拙者を指名し、一対一の真っ向勝負を挑んでいます。それを知らん顔では、
「そうね、でも身分を偽って潜入することは里の協定で――」
「これは拙者の戦いです。先生方は、どうか手出し無用で願います!」
拙者が強い決意を込めて申し出ると、仲尾先生は呆れ顔で深い溜め息を
「まったく、人の話も聞かないで仕方のない子ね。いいわ、あなたの好きになさい」
それだけ言うと、仲尾先生は
他の先生方も諦めたようにその場を退く。次期当主という立場があったればこそだろう。通例に反して拙者の顔を立ててくれたのだ。
そんな先生方に胸の内で礼を言い、拙者は改めて緒方緋雨と
「ふふ、期待通りね。芦辺君なら私を
「べ、別に庇ったわけではないぞ」
即座に否定したが、結果として
緒方は実に用意周到だった。拙者の
「なぜ拙者と戦う? 萌隠流に対する復讐か? それとも何か密命を帯びているのか?」
「さあ、どうかしらね。少なくとも、流派の積年の恨みを晴らす上で、芦辺君は打ってつけの相手だと思うけど」
はぐらかすような答えだった。不満に思った拙者は重ねて口を開こうとしたが、
「お
緒方が戦闘態勢に入ったのだ。
彼女は個室のドアを少しだけ開くと、その隙間からトイペを2ロール掴み出した。
「便遁、落とし紙の術!」
緒方の両手から、投げテープのようにトイぺの帯が飛び出す。その動きは、まるで二匹の白蛇が宙を
あまりの
「ぐおおっ、クセになりそ……」
紙とは思えぬ強度だった。破くことはおろか、振り
ところが、どうしたことだろう。真っ先に具現化したはずの妹が、校庭のどこに目を向けても見当たらないのだ。このままでは何もできずに負けてしまう。
「舞衣! どこだ返事しろ! スリーサイズばらすぞ! 早く姿を現せ、舞衣ぃ~!」
他に打つ手がなかった拙者は、とにかく大声で愛しい妹の名を連呼した。
するとその呼び声に応え、地面から右腕だけがボコッと生えてきた。ちょうど対戦フィールドの中央付近だ。
やがてゾンビのように地面から這い出てきたのは、すっかり土にまみれた妹の舞衣だった。
「ペッ、ペッ。土中で永眠しちゃったでごちゃる」
ヘッ、ヘッ。夢中で召喚しちゃったでごぢゃる!
……いや失敬。可愛らしく土を吐き出す舞衣は、どうやら下方向に位置ズレを起こして土葬されていたようだ。
「舞衣、永眠明けのところ悪いが戦ってくれ」
「
舞衣は元気に応じると、頭頂部のアホ毛を掴んでスラリと抜き放った。
暗器の一種で、仕込みアホ毛と呼ばれる武器である。
妹遁の術で具現化した妹は、頭部のどこかに必ずアホ毛を生やし、何かしら得物を仕込んでいる。舞衣のそれは、桃色の
「ナリィィィーー!」
脱力感に富んだ
身体が自由になった拙者は、さっそく妹に反撃の指示を出す。
「よし、まずは便器を破壊するんだ!」
便遁使いと戦うときは、その
最終的に妄想オーラが
「ノックはしない派でごぢゃる!」
舞衣は萌え一文字を上段に構えると、宣言通りノックはせずに個室へ斬りかかった。
しかしそれを見た緒方は、
「便器を壊したいのであれば、どうぞご
守りを固めるどころか、ヒョイと個室から離れてしまった。読みが外れた拙者は、罠を警戒して新たな指示を出そうとする。だが一足遅かった。
――スパッ!
舞衣が豪快な
「バカな、便器のない個室……だと!?」
それはトイレとして致命的な欠陥だった。室内にあったのは、偽りの水流音を作り出す擬音装置のみ。これでは放尿も脱糞も
「残念、本命はこっちよ」
舞衣の背後を取った緒方は、勝ち誇った様子でドロン、その場に白い洋式便器を具現化した。地面の上に、いきなり便器のみが鎮座する露出度マックスのトイレだ。しかも異様にデカい。
「しまった!」
彼女は、省エネ妄想の一つ「
本来、妄想忍法は一つの対象しか具現化できない。妄想限界というものが存在する。しかしこの節約術を使えば、分割した対象を別個に具現化することが可能となる。緒方は複式の術でメインの便器を温存し、ダメージの少ない空っぽの個室を
「逃げろ舞衣、後ろだ!」
「ほえ?」
標的の便器を探す舞衣が、呆然とした面持ちで拙者の声に反応する。
だが間に合わなかった。緒方は舞衣の
「便遁奥義、
逆さまになった妹が、狭い便器の中に萌え一文字ごと押し込まれる。
「ごぉ~ぢゃ~、ぶふっ」
「ま、舞衣!」
直後に水の流れる音が響くと、舞衣の身体は回転しながら便器の
拙者は立ち尽くした。あまりの出来事に何もできなかったのだ。
「妹をトイレに流すなんて、そんな術が……」
「芦辺君。茫然自失のところ悪いけど、私が逃げ切るまで人質になってもらうわよ」
緒方は悪びれた様子もなく言うと、舞衣が真っ二つにしたドア――その地面に落ちた片割れを拾い、力任せに拙者の側頭部を殴りつけた。
「ぐはっ……!」
痛みを感じたのは一瞬だった。
拙者の意識は衝撃とともに弾け飛び、たちまち闇の奥底へと沈んでいった。
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