其の漆 トイレに消ゆ

 拙者は、対戦フィールドの向こうに立つ相手を見た。


 白いリボンでわえたポニーテールに、忍者モデルを思わせる美しい立ち姿。涼しげな目で拙者の視線を受け止める彼女の名は――


「お、緒方!?」


 そう、甲組の緒方緋雨ひさめだった。てっきり見学組だと思っていた彼女が、この妄想コンテストで拙者を指名してきたのだ。


芦辺あしべ、あんた今まで騙されてたんじゃないん?」


 試合を終えてくつろ伊能いよくが、揶揄やゆするような口調で言う。


 拙者は反論することもできず、ひたすら困惑するばかりだった。緒方は何を考えているのか。その真意は不明だが、拙者としては対戦に応じる以外にない。指名された側がそれを拒否した場合、試験のルールで減点となるからだ。


「……」


 対戦フィールドに入る緒方を見て、拙者も不本意ながらそれにならった。


 彼女の瞳に迷いの色はない。


「お互いに名乗りを上げたら試合を始めてちょうだい」


 仲尾先生が、第一試合と同じように指示を出して対戦フィールドから離れる。


 試合開始が告げられてしまったのだ。もう腹をくくるしかない。


萌隠もがくし流、芦辺是周これちかキモォー!」


 拙者は名乗りながら掛け声を発した。位置ズレを見越して、少しでも早く舞衣を具現化しようと思ったのだ。相手の出方が分からない以上モタモタしてはいられなかった。


 拙者に続いて緒方も名乗りを上げる。


比婆古ひばこ流、緒方緋雨」

「……え!?」


 予想外の言葉に耳を疑った。


 緒方は妹遁まいとんを修めようとする忍び。つまり拙者と同じ萌隠流であるはずだった。


 しかしそれは、くまで彼女の言葉に嘘がない場合である。そして拙者は、緒方が具現化に至っていないという理由から、一度もそのこころざしを疑わなかったのだ。


「緒方ちゃん、あなた比婆古流って……」


 およそ物に動じない仲尾先生が、両目のマスカラをピクピクさせて言葉を詰まらせる。


 当然の反応だった。なぜなら、比婆古流は萌賀ほうがの里に伝わる流派ではないからだ。


「なあ、甲組の緒方って比賀ひがものなのか?」


 生徒たちが口々にささやき始める。皆一様に信じられないといった表情だ。比婆古流が「比賀の里」で受け継がれる流派だということは、この場にいる誰もが知っている事実だった。


「萌賀と比賀、まさか第二次妄想大戦の勃発ぼっぱつとか……」


 様々な憶測が無責任に飛び交い、下忍生たちの間で波紋のように広がっていく。


 無理もない。萌賀と比賀――二つの里は不倶ふぐ戴天たいてんの敵同士なのだ。かつて忍者社会を震撼しんかんさせた妄想大戦では、互いの存亡を賭けて相争った。中でも萌隠流と比婆古流は、三百年もの昔から反目し合う間柄だった。


「緒方、おまえは本当に比賀者なのか?」

「そうよ」


 拙者の問いかけに、緒方の凛々りりしい声が躊躇ちゅうちょなく答える。


「冗談では……ないのか?」

「信じられないのね。じゃあ見せてあげるわ」


 そう言うと、緒方は静かに妄想オーラを練り始めた。


 やがて彼女の横にドロン! 巻き上がる灰色の煙とともに、木目調のオシャレな「個室」が具現化された。


 個室というのは、建設現場などで見かける屋外用仮設トイレのことだ。高さニメートル半、重さ九十キログラムを超える大型妄想である。


「そんな……」


 拙者は目の前の光景が信じられなかった。いや、信じたくなかった。


 しかし緒方が使ったのは、紛れもなく比婆古ひばこ流が伝える忍法「便遁べんとんの術」だった。


 それは室町時代。斥候せっこうとして活躍した蜷川にながわ一族が、潜伏先で急な腹痛にあえぎ、ひたすらかわやを欲して編み出したという妄想忍法である。何時いつでも何処どこでも、好きなときに「個室」を具現化できる下痢止め要らずの術だ。


 昨今では水洗式が主流であり、温水洗浄便座や擬音装置も備えているという。便遁だけに極めて利便性の高い術だが、一方で流した排泄物の行方が分からず、恐怖の四次元妄想として恐れられている。


「緒方ちゃん。あなたが比賀者だと判明した以上、この試合を許可するわけにはいかないわ」


 審判役の仲尾先生が、荘厳そうごんたる爆乳を具現化して対戦フィールドに入ってきた。いつの間に来たのか、副担任や妄想マッスル部の顧問も姿を見せると、教師たちは目で示し合わせて緒方を取り囲んだ。萌賀の里に紛れ込んだ異分子を排除するつもりなのだ。


 その動きを横目で追った緒方は、しかし動揺する素振りもなく、木目調の個室から威嚇いかくするように流水音を響かせた。


「確かに私は比賀者よ。でもいいのかしら?」


 緒方があからさまに挑発する。


「異郷の地に忍び込んだ一人の小娘を、大の大人が寄ってたかって捕らえるなんて。末代までの恥にならなければいいけど」


 それは相手の自尊心を刺激する安手な駆け引きだった。もちろん、仲尾先生にそんな下策は通用しない。あらゆる感情を排して任に当たるのが忍びである。


 だが、未熟な拙者は上手く割り切ることができなかった。


「待ってください、仲尾先生。このまま……このまま拙者に戦わせてください!」


 感情を優先することが、忍者として失格なのは百も承知である。それでも拙者は、そう言わずにはいられなかった。


「あのね芦辺ちゃん。萌賀の里に潜入した比賀者は、何かしら密命を帯びているものなのよ。だから、あたしたちはその不穏分子を速やかに排除しなければならないの」

「分かっています。ですが彼女は、わざわざ妄想コンテストで拙者を指名し、一対一の真っ向勝負を挑んでいます。それを知らん顔では、萌隠もがくし流次期当主の名がすたるというものです」

「そうね、でも身分を偽って潜入することは里の協定で――」

「これは拙者の戦いです。先生方は、どうか手出し無用で願います!」


 拙者が強い決意を込めて申し出ると、仲尾先生は呆れ顔で深い溜め息をいた。


「まったく、人の話も聞かないで仕方のない子ね。いいわ、あなたの好きになさい」


 それだけ言うと、仲尾先生はきびすを返して対戦フィールドから出ていった。


 他の先生方も諦めたようにその場を退く。次期当主という立場があったればこそだろう。通例に反して拙者の顔を立ててくれたのだ。


 そんな先生方に胸の内で礼を言い、拙者は改めて緒方緋雨と対峙たいじした。すると彼女は、してやったりという顔で拙者を眺めた。


「ふふ、期待通りね。芦辺君なら私をかばってくれると信じてた」

「べ、別に庇ったわけではないぞ」


 即座に否定したが、結果として庇護ひごしたことに違いはない。


 緒方は実に用意周到だった。拙者の為人ひととなりを身近で観察し、妄想演武を通して手の内を探っていたのだ。拙者が庇うことさえ見越していた。さりげなく好意をチラつかせたのも、この状況を作り出す保険だったのかもしれない。そう思うと胸の奥がチクリと痛んだ。


「なぜ拙者と戦う? 萌隠流に対する復讐か? それとも何か密命を帯びているのか?」

「さあ、どうかしらね。少なくとも、流派の積年の恨みを晴らす上で、芦辺君は打ってつけの相手だと思うけど」


 はぐらかすような答えだった。不満に思った拙者は重ねて口を開こうとしたが、悠長ゆうちょうに問い質すことはできなかった。


「おしゃべりはここまでよ、覚悟して芦辺君!」


 緒方が戦闘態勢に入ったのだ。


 彼女は個室のドアを少しだけ開くと、その隙間からトイペを2ロール掴み出した。


「便遁、落とし紙の術!」


 緒方の両手から、投げテープのようにトイぺの帯が飛び出す。その動きは、まるで二匹の白蛇が宙をうようだった。


 あまりの早業はやわざに避ける暇もない。うねりながら伸びたトイぺが、拙者の身体を雁字がんじがらめに縛り上げ、あっという間に自由を奪う。


「ぐおおっ、クセになりそ……」


 紙とは思えぬ強度だった。破くことはおろか、振りほどくことすらできない。これで尻を拭いたら高確率でになるだろう。だが今はトイぺの品質を気にしている場合ではなかった。四肢ししを縛られた拙者は、首だけ動かして辺りを見まわした。具現化した舞衣の姿を探す。


 ところが、どうしたことだろう。真っ先に具現化したはずの妹が、校庭のどこに目を向けても見当たらないのだ。このままでは何もできずに負けてしまう。


「舞衣! どこだ返事しろ! スリーサイズばらすぞ! 早く姿を現せ、舞衣ぃ~!」


 他に打つ手がなかった拙者は、とにかく大声で愛しい妹の名を連呼した。


 するとその呼び声に応え、地面から右腕だけがボコッと生えてきた。ちょうど対戦フィールドの中央付近だ。そばにいた緒方が驚いて後退する。


 やがてゾンビのように地面から這い出てきたのは、すっかり土にまみれた妹の舞衣だった。


「ペッ、ペッ。土中で永眠しちゃったでごちゃる」

 ヘッ、ヘッ。夢中で召喚しちゃったでごぢゃる!


 ……いや失敬。可愛らしく土を吐き出す舞衣は、どうやら下方向に位置ズレを起こして土葬されていたようだ。


「舞衣、永眠明けのところ悪いが戦ってくれ」

合点ガッテンでごぢゃる!」


 舞衣は元気に応じると、頭頂部のアホ毛を掴んでスラリと抜き放った。

 暗器の一種で、仕込みアホ毛と呼ばれる武器である。


 妹遁の術で具現化した妹は、頭部のどこかに必ずアホ毛を生やし、何かしら得物を仕込んでいる。舞衣のそれは、桃色のつかを持つ日本刀「萌え一文字いちもんじ」だった。


「ナリィィィーー!」


 脱力感に富んだ雄叫おたけびをあげると、舞衣は拙者に絡みつくトイペを危なげなく斬り捨てた。


 身体が自由になった拙者は、さっそく妹に反撃の指示を出す。


「よし、まずは便器を破壊するんだ!」


 便遁使いと戦うときは、そのかなめである便器を狙うのが定石だった。具現化対象にダメージを与えれば、術者の妄想オーラも同時に削れるからだ。それが術の根幹部分ともなれば、破壊による消耗は一段と大きくなる。


 最終的に妄想オーラが枯渇こかつすれば、術者は回復するまで何も具現化できない。つまり機動力ゼロの便器を攻めれば、緒方は嫌でも守勢にまわらざるを得ないのだ。


「ノックはしない派でごぢゃる!」


 舞衣は萌え一文字を上段に構えると、宣言通りノックはせずに個室へ斬りかかった。


 しかしそれを見た緒方は、


「便器を壊したいのであれば、どうぞご随意ずいいに」


 守りを固めるどころか、ヒョイと個室から離れてしまった。読みが外れた拙者は、罠を警戒して新たな指示を出そうとする。だが一足遅かった。


 ――スパッ!


 舞衣が豪快な袈裟けさ斬りを放ち、木目のトイレを一刀両断する。真っ二つになって崩れ落ちるドア。その向こうに、拙者はべからざる光景を見た。


「バカな、便器のない個室……だと!?」


 それはトイレとして致命的な欠陥だった。室内にあったのは、偽りの水流音を作り出す擬音装置のみ。これでは放尿も脱糞もままならない。放屁だけで我慢しろというのか。


「残念、本命はこっちよ」


 舞衣の背後を取った緒方は、勝ち誇った様子でドロン、その場に白い洋式便器を具現化した。地面の上に、いきなり便器のみが鎮座する露出度マックスのトイレだ。しかも異様にデカい。


「しまった!」


 彼女は、省エネ妄想の一つ「複式ふくしきの術」を使ったのだ。具現化対象を部位ごとに分割して、必要なところだけ小出しにする節約術である。


 本来、妄想忍法は一つの対象しか具現化できない。妄想限界というものが存在する。しかしこの節約術を使えば、分割した対象を別個に具現化することが可能となる。緒方は複式の術でメインの便器を温存し、ダメージの少ない空っぽの個室をおとりに使ったのだ。


「逃げろ舞衣、後ろだ!」

「ほえ?」


 標的の便器を探す舞衣が、呆然とした面持ちで拙者の声に反応する。


 だが間に合わなかった。緒方は舞衣の襟首えりくびを掴むと、隙だらけの足を払って素早く投げ飛ばしたのだ。


「便遁奥義、かわや封じの術!」


 逆さまになった妹が、狭い便器の中に萌え一文字ごと押し込まれる。


「ごぉ~ぢゃ~、ぶふっ」

「ま、舞衣!」


 直後に水の流れる音が響くと、舞衣の身体は回転しながら便器のうずまれてしまった。


 拙者は立ち尽くした。あまりの出来事に何もできなかったのだ。


「妹をトイレに流すなんて、そんな術が……」

「芦辺君。茫然自失のところ悪いけど、私が逃げ切るまで人質になってもらうわよ」


 緒方は悪びれた様子もなく言うと、舞衣が真っ二つにしたドア――その地面に落ちた片割れを拾い、力任せに拙者の側頭部を殴りつけた。


「ぐはっ……!」


 痛みを感じたのは一瞬だった。


 拙者の意識は衝撃とともに弾け飛び、たちまち闇の奥底へと沈んでいった。

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