其の肆 妄想演武

「きゃあああああああー!」

「校内に変質者が入ってきたぞぉ!」


 廊下のあちこちで、女子の悲鳴や男子の怒号が飛び交っている。


 そんな中、背嚢はいのうで顔を隠した拙者は、謎の快感に酔い痴れながら廊下を疾走した。そのまま二階の男子更衣室へ駆け込む。そう、そこはおとこたちの聖域である。たとえ全裸で逆立ちをしてもとがめる者はいない。これで半裸の拙者も一安心というわけだ。


「おい芦辺あしべ、その変態スイマーみたいな格好は何だよ?」


 更衣室には七人の先客がいた。


 いずれも上半身は裸で、ロッカーを背に車座を組んで談笑している。拙者に声をかけてきたのはその内の一人だ。


 彼らは「妄想マッスル部」に所属する物好きな連中である。すべての妄想オーラを肉体強化に注ぎ、鍛えた筋肉を具現化する似非えせマッチョなやからだ。ボディビルダーを気取っているが、はたから見たら妄想ドーピングの脳筋忍者でしかない。


 そんなむくつけき野郎どもは、テスト期間中にもかかわらず朝練をしていた。筋肉がすべてに優先するのだろう。拙者は、テカテカ光る疑似マッスルに眉をひそめて言った。


「悪いが、この格好は変態でもスイマーでもない。拙者が独自に開発したクールビズだ!」

「クールビズ? まあ確かに涼しそうだが、少し露出を控えたほうが良くないか?」

「フンッ。そんなこと言って、セクスィーな拙者の半裸に嫉妬しっとしたわけか」

「するわけないだろ、おまえの仕上がってない肉体なんかに」


 拙者は、妄想マッスル部の一人と話しながら自分のロッカーを開けた。中には、体術の授業で使うトラックスーツが入っている。一般校でいうジャージみたいなものだ。


「よし、間に合わせでトラックスーツを着ておけば……って、あれ?」


 だがロッカーの中を確認しても、肝心のトラックスーツがどこにも見当たらない。


 戸惑いながらも記憶を手繰たぐった拙者は、つい先日、教卓の上でナマ着替えに挑戦したことを思い出した。そのとき脱いだトラックスーツは、教室の後ろのロッカーに仕舞ったのだ。脱衣後に横着したのが失敗だった。


南無なむさん!」


 思わず頭を掻きむしる。


 こうなったら、いっそ開き直ってパンツ二丁で過ごそうか。忍び足で気配を消せば問題ないはずだ。――と安易に結論づけたが、今日は忍び足の調子が悪いことを忘れていた。予期せぬ川泳ぎで疲れた所為せいか、緒方にもあっさり見破られてしまったのだ。


 どのみち着席したら忍び足は使えない。無計画な乱用は避けるべきだった。


「ならば、トラックスーツを更衣室まで届けてもらえば……」


 拙者は顔を上げ、妄想マッスル部の面々を見た。


 彼らに頼るという手段もあるが、恐らく交換条件として入部を迫られるだろう。無論そんなのは願い下げだった。舞衣をムキムキのマッスル娘にされたら、キュン死どころかショック死してしまう。いや、マッチョになるのは拙者だけなのか。いずれにせよぴら御免だった。


 そうなると、残された方法は一つしかない。


「キモォー!」


 拙者は妹遁まいとんの術を発動した。


 わざわざ妄想マッスル部に頼らなくても、舞衣をパシらせれば丸く収まる話だった。雑用を押し付けたからといってへそを曲げる心配もない。


 それより問題は、舞衣が一向に姿を現さないことだった。例によって妹の具現化が位置ズレを起こしたのだ。やれやれ、と溜め息交じりに室内を見まわす。拙者が入り口付近に目を向けると、ちょうどドアノブがガチャリと音を立てた。


 どうやら舞衣は、男子更衣室の外に現れたらしい。すぐに迎え入れようと入り口に駆け寄る。だが開いたドアの向こうに立っていたのは――


「ちょっと芦辺君、どうして逃げるの?」


 ねた口調で拙者を非難する緒方緋雨ひさめだった。ここまで追いかけてきたらしい。


「いや、拙者はクールビズを卒業するために服の調達を……」


 しかし途中で言いよどむ。どんな理由であれ、逃げたという事実は変わらないからだ。


 拙者がそのまま黙っていると、緒方はしびれを切らした様子で男子更衣室に入ってきた。


 妄想マッスル部の連中が、そんな彼女をサイドチェストのポーズで取り囲む。異様な光景の中、部員の一人が丁寧な物腰で話し始めた。


「緒方さん、妹の具現化は大変じゃないですか? その点、筋肉の具現化は遁術とんじゅつよりも難度が低く、誰でも簡単に習得できます。難しい妹遁の術はあきらめて、僕たちと一緒に妄想マッスルを鍛えませんか?」


 まさかの部活勧誘だった。


 しかも、まだ緒方が具現化できないことを承知で、そこに付け込むような誘い文句だ。慇懃いんぎん無礼な態度といい、彼女を遠まわしに愚弄ぐろうしているのは間違いない。男子更衣室に入り込んだ異物――女子生徒をからかいたかったのだろう。


 緒方もそれに気づくと、

「筋より皮のほうがさまになってるみたいね。妄言もうげん吐きマッスル部に改名されたら?」


 駄洒落ダジャレを絡めて冷静にやり返した。


「な、何だと!」


 仕掛けたマッチョが色めき立つ始末だった。女子一人を相手に、今にも喧嘩けんかを吹っ掛けそうな雰囲気だ。緒方も挑発するように薄い笑みを浮かべている。


 このままでは危うい。そう判断した拙者が仲裁に入ろうとした、まさにそのときだった。


 不意にバンッ! という大きな音が室内に響いた。全員が驚いて硬直し、周囲は水を打ったように静まり返る。


 それはロッカーの扉が勢いよく開いた音だった。そして皆が注目する中、アホ毛を揺らした舞衣がヨロヨロと転がり出た。ロッカーの中に位置ズレを起こしていたようだ。


「うっかり収納されてたでごぢゃる」

 しっとり汗をいてるでごぢゃる!


 ……いや失敬。ロッカーの中が暑かったのか、舞衣は汗ばむ顔にてへぺろな照れ笑いを浮かべた。妹の登場が張り詰めていた空気を和ませる。


 場の流れを変えるチャンスだった。


「そ、そうだ緒方。ちょうど舞衣も現れたことだし、ここは一つ妄想演武を見せてやろう」


 緒方の修業に付き合うことを告げ、妄想マッスル部の敵意をそれとなく牽制けんせいする。拙者としてはむにまれぬ提案だったが、緒方が嬉しそうに微笑んだので悪い気はしなかった。


「是非お願いするわ、芦辺君」

「分かった。それでは舞衣、緒方に妄想演武を見せてやってくれ」

合点ガッテンでごぢゃる!」


 消極的な拙者と違って、舞衣は見るからにやる気満々だった。


 そんな妹が今から披露する「妄想演武」とは、具現化に至らぬ忍者が遁術を見覚える特訓法である。平たく言えば見学のことだ。妹遁使いの場合、妹の一挙一動をめるように観察する。そのとき何を演じるかは妹の主体性により様々だ。


「お、何が始まるんだ?」


 妄想マッスル部の連中が、興味津々といった面持ちで妄想演武を傍観する。人の苦労も知らないで気楽なものだ。


「えー、本日は少し趣向を変えて、舞衣の新術を披露するでごぢゃりまする。コホンッ」


 舞衣は改まった口調で言うと、わざとらしくせき払いをいやちょっと待てまさか全力脱衣の術をやるつもりなのかあれは駄目だぞ検閲忍の目も気になるが妹の美しい素肌をけがれたマッチョの目にさらすなんて許せないし拙者と二人きりじゃなければ認めな――


「まだ誰も知らない幻の忍法! その名もジャジャーン、こむら返りの術ナリ! イエーイ、パチパチパチ」


 外連味けれんみたっぷりに発表したのは、舞衣自身が地味と酷評した忍法「こむら返りの術」だった。ふくらはぎの筋肉を痙攣けいれんさせる例のあれだ。教えた拙者としては複雑な心境である。


 妄想マッスル部の連中が拍手を送り、無責任に場を盛り上げた。


 すっかり調子に乗った舞衣は、ピョコンと一礼して術の説明を始める。


「――かくかくしかじかで。何と、ふくらはぎの筋肉をピクピクさせちゃうでごぢゃる!」


 やがて妹は、兄の「受け売り」を興奮気味に説明し終えた。


 するとどうだろう。無責任なマッチョ連中は、各々の着替えを済ませて更衣室から退出してしまったのだ。中には、去り際に露骨な舌打ちをするヤツもいた。勝手に見学しておきながら、何と失礼な態度だろうか。


 結局、最後まで残っていたのは緒方だけだった。


 それでも舞衣はくじけることなく、飽くまで舞衣マイペースで妄想演武を続ける。


「ではこれより、こむら返りの術を実演したいと思います!」

「ふぁ!?」

 思わず頓狂とんきょうな声をあげてしまった。色々な意味で難度の高いこの術を、舞衣は無謀にも実演すると言ったのだ。緒方を無理やり走らせるつもりだろうか。


「こちらに、あらかじめ長時間走ったふくらはぎが用意してあります」


 実演料理さながらのノリで言うと、舞衣は桃色の脚絆きゃはんめくって綺麗な小腿部しょうたいぶを見せた。


 そして次の瞬間!


「ごぢゃああ~!」


 大袈裟おおげさに叫んだ妹は、苦しそうに床を七転八倒した。両脚がピクピクしている。そう、舞衣の実演は術をかける側ではなく「受ける側」だったのだ。ただの茶番に過ぎなかった。


「…………」


 いよいよ場が白ける。


 拙者は、黙ってたたずむ緒方に近づくと、その横顔を恐る恐る覗き込んだ。


「んがっ!?」


 思わず息が詰まる。


 そこには、苦笑と失笑と冷笑を足して、更には苦虫まで噛み潰したような不機嫌全開の表情が浮かんでいた。凄まじい顔芸上級者である。


「えーと、お、緒方……さん?」

「何?」

「今回は役に立たない妄想演武で、その、誠に申し訳ない」

「別に構わないわ。これで妹遁の底は見えたから」

「え? それってどういう――」

「ごめんなさい芦辺君、私もう行くわね」


 いつもの愛想はどこへやら。緒方は切れ長の目に凍てつくような色をたたえると、足早に更衣室から姿を消してしまった。かなり怒っているようだった。


「こいつは早めに謝る必要があるな。舞衣も一緒に謝ってくれ」


 しかし振り返ると、いつの間にか舞衣も姿を消していた。緒方の美少女離れした顔芸に心が乱れたのだ。


 拙者は、半裸のまま更衣室に取り残された。

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