其の参 忍び足とクールビズ

 水遁すいとん「平泳ぎの術」で警官を振り切ると、拙者はうのていで川から上がった。


 濡れた足袋たびが、グチョグチョと不快な音を立てる。


 背嚢はいのうの中もすっかり水浸みずびたしだ。あとで教科書やノート、布教用のパンツなどを乾かさなくてはならない。無能な警官の所為せいで酷い目に遭ったものだ。


「いろいろ疲れたな。さて、これからどうしたものか……」


 体力も服もない以上、一旦いったん帰宅して休息を取るのが妥当な判断だろう。


 だが、試験初日に遅刻というのも頂けない話だった。拙者は溜め息をくと、ずぶ濡れ半裸の状態で学校へ向かった。ここは無理にでも登校するしかない。幸い、川を経由したおかげで学校はすぐそこだ。何とか人目を避け、数分後には裏門を潜り抜ける。


「よし、裏手には誰もいないようだ。しめしめ」


 拙者はしたり顔で言うと、木造四階建ての古びた校舎を見上げた。


 ――萌賀ほうが村立妄想忍者学校。通称「萌校もえこう」である。


 萌賀の里でも珍しい忍者の専門校で、妄想忍法を座学と実技の両面から教えている。他にも体術や幻術、呪術などの多彩な授業がある。しかし普通科で扱うような学科は一切ない。この一般校と掛け離れたカリキュラムこそ、萌校の大きな特徴といえるだろう。


 それゆえ卒業生も、内閣妄想室の諜報ちょうほう員や特殊性癖部隊の士官など、妄想社会特有の仕事に就く者がほとんどだった。


 萌校ならではの特徴は、学年、学級の呼称にも見受けられる。一年生を下忍生、二年生を中忍生、そして三年生を上忍生と呼び、そのクラスは十干じっかん甲乙丙丁こうおつへいていそくして分けられる。


 拙者はこの春に入学した下忍生で、クラスは乙組だった。今からその教室に向かうわけだが、それには服を調達する必要があった。


 さすがの拙者も、半裸のまま校内を歩く度胸はない。


「まあ、服をゲットするまでは半裸だが、それも見つからずに移動すれば問題ない」


 拙者は不敵な笑みをこぼすと、背嚢から女性用の下着を取り出した。布教用の逸品だが仕方ない。そのリボン付きの純白パンツを頭に被り、精神こころを一点に集中させる。濡れ透けの布地に宿る神通力じんつうりきが、頭の天辺てっぺんから股間の先まで稲妻いなづまのように走り抜けた。


神懸かみがかり的な変態を遂げた今、拙者に不可能はない! ふおおぉぉぉ〜!」


 あとは得意の忍び足で気配を消せば楽勝である。あたかも透明人間のように、誰の目にも留まらず校内を彷徨うろつくことができる。頭隠して尻も隠した拙者は、極めて鷹揚おうような足取りで玄関に滑り込んだ。


 パンツの力を借りれば造作もない。


 玄関には多くの生徒がいたが、誰一人として拙者の存在に気づかなかった。皆一様にそっぽを向き、やれ変質者だ下品だと、およそ拙者と関係ない話で盛り上がっている。


 下品といえば、なぜか急に悲鳴をあげて走り去る女子生徒もいた。たおやかで慎ましいはずの大和撫子やまとなでしこが、実になげかわしいことだ。


「それに引き替え、鮮やかに気配を断つエレガントな拙者といったら……フフンッ」


 鼻高々に自身をたたえ、上機嫌で小躍りする。


 ――と、そのときだった。


 いきなり背後から肩を叩かれ、拙者はその場に凍りついた。そう、濡れ透けパンツの忍び足があっさりと見破られたのだ。突然の事態に血の気が引く。


 迂闊うかつだった。学校には当然ながら教師の目もあるのだ。拙者の忍び足がどんなに優秀でも、さすがに彼らの目はあざむけない。それを考慮していなかった。


「…………」


 つまり、半裸で闊歩かっぽする姿を見られてしまったのだ。下手をすれば停学処分もあり得る状況だった。いっそ気づかぬフリで立ち去りたいところだが、それでは立場が悪くなるだけだ。


 拙者は観念すると、派手に視線を泳がせながら振り返った。眼球高速回転の術だ。これなら何も見えないし、見たくないものを見なくて済む。しかし音を遮ることはできなかった。


「おはよう、芦辺あしべ君」


 りんとした高い声が、拙者の耳朶じだを優しく刺激する。

 しかりつける口調ではなかった。これは、もしかしたら軽い処分で済むのではないか……。


 微かに希望が見えた拙者は、それでも警戒して視線を落とすと、足元から少しずつ相手の姿を確認した。視界に入ってきたのは、ニーソックス型の脚絆きゃはん小豆あずき色のミニスカート。袖丈の短い上着も同色で、くびれた腰には黒い帯が巻かれている。


 それは女子生徒が身につける忍者装束だった。拙者が慌てて顔を上げると、ポニーテールの少女がこちらをじっと見つめていた。


「おお、お、緒方おがたではないか。おはよう」


 震える声で応え、ホッと安堵あんどの胸を撫で下ろす。


 拙者の忍び足を看破したのは、緒方緋雨ひさめという名の下忍生だった。つまり同年の者に不覚を取ったわけだが、今は相手が教師でなかったことを素直に喜ぶべきだろう。


 彼女は甲組の生徒で、妹遁まいとんの術を学ぶ忍者の一人である。しかしまだ妹の具現化には至っておらず、何かにつけて同流の拙者を頼ってくる。会うたびに妹遁の教えを乞うのだ。萌隠もがくし流の「次期当主」に贔屓目ひいきめもあるのだろう。


 だが正直、拙者はおのれの修業で手一杯だった。特に女子の妹遁使いは、キュンポイントが男子と違って教えるのが厄介なのだ。姉がどんな心境で妹を欲するのか。そこからどう妄想オーラを練るのか。兄である拙者には勝手が分からない。


 それでもたまに協力してしまうのは、彼女が態度の端々に好意をのぞかせるからだ。妹ファーストの拙者だが、甘える少女を素気すげなくあしらうような朴念仁ぼくねんじんでもない。いや、実を言うと、拙者も緒方に対して淡い恋心を抱いているのだ。


「ところで芦辺君、その変質……いえ、とんでもなく開放的な格好は何?」


 切れ長の涼しげな目が、濡れた半裸を怪訝けげんそうに眺めている。


 その一方的な視線に耐え切れず、拙者も負けじとばかり緒方を見返した。女性にしては長身で、それゆえ華奢きゃしゃな印象を与える彼女。だがスタイルは悪くない。スレンダーでも出るところはそれなりに出ている。むしろモデルのような容姿といってもいいだろう。


 そんな彼女に見惚みとれながら質問に答える。


「この格好は、えーと、拙者の独断と偏見により、クールビズを極限まで突き詰めた姿だ!」


 まさか、半裸で警官から逃げてきたとは言えない。仕方なく苦しまぎれの虚言をろうする。


「随分と思い切ったクールビズなのね。でも濡れてるのはどうして?」

「それは……そう、熱中症対策だ。川を見かけたら反射的に飛び込むよう訓練してる」

「じゃあ頭に被ってる女物の下着にはどんな意味が?」

「スイムキャップだ」


 口から出任せの嘘を並べると、いつしか拙者の半裸は驚くほどの有用性を確立していた。誰もがこのクールビズをうらやみ、こぞって半裸を求めるレベルだ。


 緒方もジト目で感動している。


「さすが芦辺君ね。ただの変態としか思えない露出にここまで意味を持たせるなんて」

「なははは、すごかろ?」

「ええ、クールビズについては納得したわ。……それはそうと、ねえ芦辺君」


 納得しても半裸を求めなかった緒方は、代わりに強請ねだるような甘い声を出した。


 彼女の魂胆こんたんは分かっている。ここから話題を転じ、拙者を妄想修業に巻き込むつもりなのだ。しかし、テスト期間中まで彼女に付き合う余裕はない。拙者は素知らぬ顔で、緒方から会話の主導権を奪うことにした。


「分かっているぞ緒方。いかにクールビズとはいえ、半裸のまま試験を受けるのは問題があると言うのだな?」

「いえ、芦辺君は大体いつもそんな感じだから特に問題は――」

「皆まで言うな。どのみちブーメランと赤いリボンでは相性が悪かったのだ」

「は?」

「というわけで、拙者は今からクールビズを卒業しようと思う。これにて御免ごめんっ!」

「え、さっき始めたばかりでもう卒業って、何、どこ行くの、ちょっと待――」


 制止の声は聞かなかった。


 脱クールビズで緒方を煙に巻くと、拙者は猛ダッシュでその場から退散した。むろん、忍び足を使っている暇はない。


 結果として、純白レースと黒いブーメラン、パンツの姿を校内でさらすことになった。

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