其の弐 キモォー!

 見上げると、頭上には雲一つない青空が広がっていた。

 昨夜の雨が嘘のような快晴だ。


 東から照りつける陽光は、すでに本格的な暑さをはらんでいる。もちろん湿度も高く、すぐに肌が汗ばむ。だが不快に感じることはなかった。りょうを含んだ朝の空気が、身体の熱を奪うように吹き抜けていくからだ。遠くで聞こえる小鳥のさえずりも心地よい。


「ツンとした暑さの中にもデレの清涼感。まるで二面性を持つ妹に抱擁ほうようされた気分だ!」


 拙者はそうひとち、自らの詩的センスに満足して歩を進めた。


 通学路は水田に囲まれた畦道あぜみちで、眼前には牧歌的な景色が広がっていた。その長閑のどかな雰囲気は民家が連なる辺りまで続くと、そこで唐突に終わりを迎える。水田が姿を消し、畦道は幅の広い舗装路へと変わるのだ。


 その道脇に、並行して伸びる細長い川があった。普段は青く澄んだ川面を見せるが、今朝は大雨の影響で茶色く濁っている。水位が上昇し、流れも幾分いくぶんか速いようだ。


「何やら不安をあおる情景だな……」


 拙者は、そんな川の変化を見ながら試験のことを考えた。今日から始まる期末試験は、座学を含まない妄想忍法の実地テストだ。


 正直とても不安だった。


 昨夜は妹遁まいとんの術をガッツリ復習したが、拙者には大きな課題が二つも残っていた。


 まず一つは「具現化の位置ズレ」である。

 本来、対象である妄想の妹は術者の近くに現れる。ところが拙者の場合、その位置を上手く制御できない。その所為せいで、昨夜は舞衣を天井裏に具現化してしまったのだ。


 そして、もう一つの課題は「集中力の欠如」だった。

 妄想忍法は、魂の一部を「うつわ」として体外へ放ち、その中に妄想オーラを流し込んで具現化する。だが心を乱すと、その妄想オーラの供給が不安定になり、具現化を維持できなくなる。要するに、気が散ると妹が消えてしまうのだ。


 昨晩の復習では、妹の脱衣に興……いや、自室の光量不足に落胆した。その結果、意図せず妹遁の術が解け、漏れた妄想オーラで蝋燭ろうそくの炎も消えてしまったのだ。


 あまりにも不甲斐ふがいなかった。

 今の実力では、妹を正しい位置に具現化することも、長く維持することもできない。


「このままでは駄目だ。もっと妄想を現実的な形にしなければ!」


 自信につながるものが欲しかった拙者は、通学路を歩きながら復習することにした。


 ――まずは術の発動からだ。


 といっても、準備に時間を要するわけではない。器を放つ技倆と適度な妄想オーラがあれば、具現化は何時いつでも何処どこでも可能なのだ。いやらしい手印も、舌を噛みそうな呪文も必要ない。


 だが一方で、任意に使える掛け声も存在する。


 それは、全国妄想委員会が推奨する「起妄きもう」という言葉だった。妄想を奮い起こすという意味で、発動時に「キモォー!」と気合いを込めて叫ぶのだ。


 推奨の理由としては「スムーズに具現化できる」や「無言だと味気ない」をはじめ、「演出面の都合」など大人の事情も臆面おくめんなく挙げられている。


 だが実際のところ、この掛け声は具現化の効率とは一切関係なかった。また多くの女流忍者の間では不評で、未だ定着に至っていない。


「それでも拙者は使う。日本では、古来より言霊ことだまが信じられているからだ!」


 建前を口にした拙者は、掛け声とともに妹遁の術を発動する。


「キモォー!」


 ……しかし舞衣は現れなかった。またぞろ具現化の位置がズレてしまったのだ。

 拙者は妹を捜すために立ち止まった。人気ひとけのない通学路をぐるりと見渡す。


 すると遠くから「ごぢゃあ~」という個性的な悲鳴が聞こえてきた。慌てて声のした方向を見ると、増水した川の上流から大きな桃が……いや、そうではない!


 桃色の忍者装束を着た舞衣が、ドンブラコナリ、スッコナリと流れてくるではないか。


 拙者は、川で洗濯する老婆の所作で近寄ると、舞衣の手首をギリギリで掴み、かろうじて身体を引き上げることに成功した。


「へくちっ。りっ、立派な桃の参上でごぢゃる」

 ゴクリッ。エッ、濡れた妹は歓迎でごぢゃる!


 ……いや失敬。全身びしょ濡れの妹が、小さくクシャミをしながら桃っぽく言う。


「おおぅ……!」


 拙者は紳士的に鼻の下を伸ばした。舞衣のそぼ濡れた忍者装束が、素肌に張りつき桃色全開のつやっぽさを放っていたのだ。


 思わず生唾なまつばを飲み込むと、拙者は舞衣の全身をくまなくめまわすように何度も見ながら心配した。濡れたままでは、たとえ妄想の妹でも風邪かぜを引くかもしれないと。いや、もちろん実際は病気になどならないが、すぐに兄の権限で妹の体調を改変する。


「妹遁、早く濡れた服を脱がないと風邪を引くぞの術!」


 これで風邪を引く条件はとどこおりなく満たされた。誤解がないように申し添えておくと、妄想の妹にリアルの厳しさを教えることが目的だった。


 あとは兄として、いかに自然な流れで脱衣へ導けるか。それが当面の問題だった。


「ううっ。舞衣、急に寒気がするナリ」

「ならばく脱ぐべし!」


 拙者は興奮気味に叫ぶと、説明そっちのけで妹の脱衣を急がせた。濡れた服で風邪を引いたら大変だからだ。


 しかし病気の経験がない妹は、その意図をまったくみ取れない様子だった。なぜ濡れた服を脱ぐのか理解できないのだ。そこで拙者は、


「風邪、いや、脱げ、よ!」


 と四段論法で詳しい説明を加え、改めて脱衣を促した。


「……う、うん。分からないけど分かったナリ」

「代わりの服なら心配いらないぞ。拙者の忍者装束を貸してやろう」

「ありがとうでごぢゃる」


 舞衣に服を貸すため、拙者も全身全霊を捧げて脱ぎ始める。


 パンツに関しては、普段から鉢金代わりに持ち歩いている女性用の下着がある。それを妹に貸せば、拙者が愛用のブーメランパンツを脱ぐ必要はない。もちろん、半端に脱ぐより全裸のほうが好ましいだろう。だが、往来では半裸にとどめるのが真のダンディズムというものだ。


 妹より先に脱ぎ終えた拙者は、女性用の下着を指先でクルクル回しながら、悠々の半裸待機と洒落しゃれ込んだ。

 ところが――。


「舞衣、ちょっと恥ずかしいナリ」


 あの全力脱衣の術を覚えた妹が、濡れた服を脱がずに恥じらっているのだ。拙者は、笑顔で舌打ちしながら優しく声をかけた。


「大丈夫だ、舞衣。拙者しか見てないから、余すところなく脱ぎなさい」

「そうじゃないでごぢゃる。お兄ちゃんの格好が、その、変――」


 舞衣が、拙者の半裸を手放しで褒めようとしたときだった。


 それを邪魔するように、背後で人の動く気配がした。通行人だ。何というタイミングの悪さだろう。もちろん公道を歩くことに罪はないが、拙者は露骨な渋面を作って振り向いた。

 すると、


「おまわりさん、この人です!」

「ほげっ!?」


 聞き覚えのある言葉とともに、若い女性と男性警官が現れた。


 拙者は不測の事態に目を見張った。指先で回した女性用の下着が、まるで凶兆を報せるように地面へ落下する。


「君、どうして路上で服を脱いでいるのかね?」

「いえ、これは川に落ちた妹に服を貸すためで……」

「妹?」


 警官が不審そうな声を出すので、拙者はすがるように舞衣を振り返った。


 だが、そこには一本の電柱がひっそりとたたずむだけだった。その正面には「チカン注意!」と大きく書かれた貼り紙。拙者の背後に舞衣はいなかったのだ。


「それでどこにいるのかね、君の妹は?」

「……え、あれ?」


 舞衣は忽然こつぜんと姿を消してしまった。驚いた拍子に妹遁の術が解けたのだ。未熟な具現化が思わぬ放置プレイを招いた。


「署までご同行願えますかな?」


 ドラマでしか聞いたことのない台詞セリフを言われ、拙者は激しく動揺した。


「どうしてはだかなのか、署のほうで詳しく事情を――」

「いえ、裸ではありません! ちゃんとブーメランパンツを穿いています。それに足袋たびも」

「しかしだね、君」


 半裸で警官に食い下がる拙者を、通報者の女性が冷やかな目で眺めている。


 とても言い逃れできる状況ではなかった。ここはトンズラの術で退避するしかない。


 拙者は、地面に落ちた女性用の下着を拾うと、素早く丸めて警官の顔に投げつけた。間髪かんはつれず、背嚢はいのうだけを抱えて川面にダイブする。


 とにかく必死だった。逃げなければ公然猥褻わいせつ罪で捕まってしまう。とんだ冤罪えんざいだ。


 拙者は、急流にまれながら通学路を振り返った。

 茶色い水飛沫しぶきの向こうに、拳を振りまわして走る警官の姿が見えた。

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