第一章 奪われた妹

其の壱 芦辺家の朝

「おまわりさん、この人です!」

「ぬわっ!?」


 緊迫した女性の声に、拙者はビックリして掛け布団を払い除けた。

 慌てて枕元の目覚まし時計に手を伸ばし、アラームの停止ボタンを押す。


「ふぃぃぃー、驚かしやがって」


 それは、入学祝いに父上より頂戴ちょうだいした「通報音声付き目覚まし時計」だった。従来のベルではなく、犯罪者を追い詰める女性の声が叩き起こしてくれるのだ。間違っても快適な目覚めは望めないが、うっかり寝過ごすこともない。そんな恐るべき代物だった。


 すっかり覚醒した拙者は、被っていたピンクのブラジャーをそっと頭から外した。


 これは、拙者リサーチで安眠効果が認められたナイトキャップの一種である。「ブラキャップ」と名付け、個人的に愛用している。誤解されることも多いが、単なる趣味ではない。実際、テスト勉強で疲労した頭脳は、このブラキャップによりやされているのだ。


 拙者は感謝の気持ちを込めて、もう一度ブラキャップを頭に装着した。


「お巡りさん、この人です!」

「うひっ!?」


 再び緊張感に満ちた女性の声が響き、拙者の心臓は危うく飛び出そうになった。

 反射的に目覚まし時計のスヌーズを止める。


「やれやれ……」


 やましいところはなかったが、何となく室内を見まわしてからブラキャップを仕舞った。

 拙者は一呼吸置いて布団を畳むと、自室の腰高こしだか障子を開けた。


 部屋の外は、全面硝子ガラス戸の回り廊下である。

 庭先には立派な松の木が見える。その脇には石灯籠いしどうろうが鎮座しており、笠のくぼみに溜まった雨水が、朝の陽射しを浴びてキラキラと輝いていた。


 昨夜の激しい雨はすっかり上がったようだ。

 拙者は清々しい朝日に目を細めながら、まだヒンヤリ感の残る廊下をゆっくり歩いた。


 キュッキュッキュッ――

 ウグイス張りの床が、踏み締めるたびに小気味よい律動リズムを刻む。


 別に家の築年数が古いというわけではない。鶯張りは、武家屋敷の典型的な仕掛けの一つなのだ。この広すぎる屋敷には、他にも鳴子なるこ武者窓むしゃまどなど、侵入者を発見する自家製セキュリティが幾つも存在している。


「ふぁぁああ~」


 拙者が欠伸あくびをしながら床板を鳴らしていると、不意に近くの障子が音を立てて開いた。白い得物を持った人影が廊下に躍り出る。


「く、曲者くせもの!」


 迫り来る鋭い斬撃に、拙者は慣れない真剣白刃取りで臨む。だが、敢えなく失敗した。


 ――スパーンッ!


「あうちっ!」

「コレにいは死にました」


 抑揚のない声でそう告げたのは、白い三角巾とエプロンを身につけた女の子だった。その右手には、拙者の頭を容赦なく打ち抜いたハリセンが握られている。


 彼女の名は八千代という。拙者の妹だ。先ほどは曲者などと叫んだが、あれは雰囲気作りを意識した言葉の綾である。


 このハリセンによる奇襲は、侵入者撃退スキルを養うための朝修業なのだ。

 とはいえ、拙者はまだまだ未熟。いつも豪快に脳天唐竹のうてんからたけ割られては、八千代から死の通告を受ける毎日だった。


「おはよう、八千代」

「ん……」


 八千代は一顧いっこだにせず、拙者の挨拶にわずか一字で応じた。


 そんな冷淡な妹は、普通科の中学に通う十四歳。母親のいないこの芦辺あしべ家で、そつなく家事全般をこなす有能な妹である。ただし、俗に言う完璧超人ではない。


 八千代の欠点は、まず洒落っ気が一切ないことだ。


 三つ編みの髪や紺色の下縁眼鏡アンダーリムは言うに及ばず。問題なのは、三角巾とエプロンを常時身につけていることだ。就寝用のエプロン一式まで用意する徹底ぶりである。


 加えて、年頃の娘とは思えぬクールな半眼もマイナス要因だ。落ち着いた口調と相まって、とにかく愛想が欠けている印象だった。


「コレ兄、朝食できてるから」


 相変わらずそっぽを向いたまま、八千代は感情を込めずに言い捨てた。鶯張りの床を踏み鳴らし、居間へと続く廊下を足早に遠ざかっていく。


 正直なところ、拙者は八千代の冷めた態度が苦手だった。


 拙者が求める理想の妹は、妹遁まいとんの術で具現化した舞衣まいにほかならない。妄想の尊い妹を前にすれば、リアルの冷たい妹などあっという間にかすんでしまう。


「残念だがキュン不足でごぢゃるな」


 背中で揺れる三つ編みを見送りながら、拙者はノロノロと洗面所へ向かった。


 鏡の前に立つと、クセ毛の凛々りりしい少年が映し出される。美しくも精悍せいかんな顔つき。一重瞼ひとえまぶたの鋭い眼差しが、鏡の向こうから拙者を見つめ返していた。


「ふむ、今日も拙者はナイスガイだ!」


 パパッと洗顔を済ませ、いつものように仏間へ向かう。拙者はナイスガイを控えめにすると、仏前にかしこまって正座をした。


 それは先祖供養の大きな仏壇だった。


 よく見ると、複数の古びた位牌いはいの中に一つだけ新しいものが混じっている。

 父上の話では、最近亡くなった叔父の位牌ということだった。しかし葬儀が行われた記憶もなく、拙者は叔父の存在自体を疑っていた。父上は嘘をいているのだと。


 では、この新しい位牌は誰のものか?

 想像するのも苦痛だが、あるいは母上のものかもしれない。


 十一年前、拙者が五歳の頃に失踪した母上。その原因は、父上の「妹至上主義」にあった。熟練の妹遁まいとん使いにありがちな、妄想の妹を溺愛できあいする行為のことだ。その執着心に愛想を尽かし、母上は家から出て行った――という話だが、実際のところは拙者にも分からない。


「いや、大丈夫だ。きっと母上は生きている」


 ご先祖様に母上の息災を願うと、拙者は仏壇から離れて居間へ移動した。


 十二畳間の広い和室。中央には大きなかしの座卓があり、すでに八千代の作った朝食が並んでいた。空腹を刺激する良い香りが漂っている。


 上座に目を向けると、紺色の甚兵衛じんべえを着た父上の姿があった。両目をつむり、座布団の上にどっかりと胡坐あぐらを掻いている。


 父上の名は芦辺あしべ甚代じんだい

 妹遁の術を今に伝える、萌隠もがくし流十六代目当主だ。


 萌隠流というのは、芦辺一族を総本家とする妄想忍法の流派である。そのいしずえを築いた初代様は、弟ばかり十七人と一緒に暮らす長兄だった。キュンに恵まれなかった初代様は、妹を切望するあまり、血眼ちまなこになって妹遁の術を編み出したという。


 のちに戦う手段へと変遷へんせんを遂げ、現在に至る。これが偉大なる萌隠流の起源だった。


「おはようございます、父上」


 父上は今年四十一歳。病的にけた頬と白髪交じりの頭髪で、実年齢より老けて見える。軽佻けいちょう浮薄ふはく粗忽そこつな面もあり、当主としての威厳、貫禄に欠ける。母が家を出た直後に難病をわずらい、今は妹遁の術が使えない身体だった。


「おはよう、是周これちか。今日も絶好の妹日和びよりだな」


 拙者の挨拶に、父上は愛嬌たっぷりの笑顔を返した。

 一見すると頼りない父上だが、妄想の妹を愛でる姿勢には見習うべきところがある。


 かつての父上は、無尽蔵の妄想オーラと具現化の技倆ぎりょうにより、比肩する者なき「妹の達人」と評されていた。全盛期は妄想の妹に月のさわりがあり、周囲をドン引きさせたほどだ。まさに天賦てんぷの才の持ち主だった。


「お待たせ」


 拙者が父上の正面に座ると、ちょうど台所から八千代が姿を現わした。濡れた手をエプロンの裾で拭きながら、きびきびした動作で居間の敷居を跨ぐ。


 家族三人が揃うと、父上は食卓の前で静かに両手を合わせた。拙者と八千代もそれにならう。


「いただきます」


 座卓の上に並ぶのは、白飯、味噌汁、焼き魚、たまご、海苔、漬物。


 朝から料理の腕を惜しみなく振るう妹は、どんなに忙しくても決して手を抜かない。それどころか、当然のように家事と学業を両立させている。拙者は尊敬の念を禁じ得なかった。兄の扱いは粗略だが、こうした八千代の勤労ぶりには本当に頭が下がる。


「ごちそうさま」


 いつも真っ先に食べ終わるのは八千代だった。全員の食器を、空いたそばからテキパキと片付けていく。それを申し訳なく思った拙者は、過去に一度だけ手伝おうとしたが、


「却って邪魔」


 と、にべもなく拒否られた苦い経験がある。


 爾来じらい、朝食後は後ろ髪を引かれる思いで自室に戻るのだった。


「優秀すぎる妹にも困ったものだ」


 食事を終えて自室に戻った拙者は、贅沢な悩みを口にしながら着替え始めた。姿見の前で、スタイリッシュに亀甲きっこう縛り柄の寝衣パジャマを脱ぎ捨てる。意味もなく全裸になると、桐箪笥きりだんすから忍者装束を出して身につけた。下着はブーメランパンツ派だ。色気のないふんどしなど穿かない。


 男子の忍者装束は、袖丈の短い濃紺色ネイビーの上着に、下はニッカーズのようなはかま脚絆きゃはんだった。同色の手甲をめ、腰には黒い帯を巻く。鉢金はちがねや頭巾、覆面も流派によって着用するが、それも今ではすたれた習慣だ。被るならパンツくらいが無難だろう。


 拙者は身支度を整えると、背嚢はいのうを抱えて玄関へ向かった。泥で汚れた足袋たびを履き、大きな声で「行って参る!」と告げて格子戸を出た。


 いよいよ今日から、学校の期末試験が始まるのだった。

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