第一章 奪われた妹
其の壱 芦辺家の朝
「お
「ぬわっ!?」
緊迫した女性の声に、拙者はビックリして掛け布団を払い除けた。
慌てて枕元の目覚まし時計に手を伸ばし、アラームの停止ボタンを押す。
「ふぃぃぃー、驚かしやがって」
それは、入学祝いに父上より
すっかり覚醒した拙者は、被っていたピンクのブラジャーをそっと頭から外した。
これは、拙者リサーチで安眠効果が認められたナイトキャップの一種である。「ブラキャップ」と名付け、個人的に愛用している。誤解されることも多いが、単なる趣味ではない。実際、テスト勉強で疲労した頭脳は、このブラキャップにより
拙者は感謝の気持ちを込めて、もう一度ブラキャップを頭に装着した。
「お巡りさん、この人です!」
「うひっ!?」
再び緊張感に満ちた女性の声が響き、拙者の心臓は危うく飛び出そうになった。
反射的に目覚まし時計のスヌーズを止める。
「やれやれ……」
拙者は一呼吸置いて布団を畳むと、自室の
部屋の外は、全面
庭先には立派な松の木が見える。その脇には
昨夜の激しい雨はすっかり上がったようだ。
拙者は清々しい朝日に目を細めながら、まだヒンヤリ感の残る廊下をゆっくり歩いた。
キュッキュッキュッ――
別に家の築年数が古いというわけではない。鶯張りは、武家屋敷の典型的な仕掛けの一つなのだ。この広すぎる屋敷には、他にも
「ふぁぁああ~」
拙者が
「く、
迫り来る鋭い斬撃に、拙者は慣れない真剣白刃取りで臨む。だが、敢えなく失敗した。
――スパーンッ!
「あうちっ!」
「コレ
抑揚のない声でそう告げたのは、白い三角巾とエプロンを身につけた女の子だった。その右手には、拙者の頭を容赦なく打ち抜いたハリセンが握られている。
彼女の名は八千代という。拙者の妹だ。先ほどは曲者などと叫んだが、あれは雰囲気作りを意識した言葉の綾である。
このハリセンによる奇襲は、侵入者撃退スキルを養うための朝修業なのだ。
とはいえ、拙者はまだまだ未熟。いつも豪快に
「おはよう、八千代」
「ん……」
八千代は
そんな冷淡な妹は、普通科の中学に通う十四歳。母親のいないこの
八千代の欠点は、まず洒落っ気が一切ないことだ。
三つ編みの髪や紺色の
加えて、年頃の娘とは思えぬクールな半眼もマイナス要因だ。落ち着いた口調と相まって、とにかく愛想が欠けている印象だった。
「コレ兄、朝食できてるから」
相変わらずそっぽを向いたまま、八千代は感情を込めずに言い捨てた。鶯張りの床を踏み鳴らし、居間へと続く廊下を足早に遠ざかっていく。
正直なところ、拙者は八千代の冷めた態度が苦手だった。
拙者が求める理想の妹は、
「残念だがキュン不足でごぢゃるな」
背中で揺れる三つ編みを見送りながら、拙者はノロノロと洗面所へ向かった。
鏡の前に立つと、クセ毛の
「ふむ、今日も拙者はナイスガイだ!」
パパッと洗顔を済ませ、いつものように仏間へ向かう。拙者はナイスガイを控えめにすると、仏前に
それは先祖供養の大きな仏壇だった。
よく見ると、複数の古びた
父上の話では、最近亡くなった叔父の位牌ということだった。しかし葬儀が行われた記憶もなく、拙者は叔父の存在自体を疑っていた。父上は嘘を
では、この新しい位牌は誰のものか?
想像するのも苦痛だが、あるいは母上のものかもしれない。
十一年前、拙者が五歳の頃に失踪した母上。その原因は、父上の「妹至上主義」にあった。熟練の
「いや、大丈夫だ。きっと母上は生きている」
ご先祖様に母上の息災を願うと、拙者は仏壇から離れて居間へ移動した。
十二畳間の広い和室。中央には大きな
上座に目を向けると、紺色の
父上の名は
妹遁の術を今に伝える、
萌隠流というのは、芦辺一族を総本家とする妄想忍法の流派である。その
のちに戦う手段へと
「おはようございます、父上」
父上は今年四十一歳。病的に
「おはよう、
拙者の挨拶に、父上は愛嬌たっぷりの笑顔を返した。
一見すると頼りない父上だが、妄想の妹を愛でる姿勢には見習うべきところがある。
かつての父上は、無尽蔵の妄想オーラと具現化の
「お待たせ」
拙者が父上の正面に座ると、ちょうど台所から八千代が姿を現わした。濡れた手をエプロンの裾で拭きながら、きびきびした動作で居間の敷居を跨ぐ。
家族三人が揃うと、父上は食卓の前で静かに両手を合わせた。拙者と八千代もそれに
「いただきます」
座卓の上に並ぶのは、白飯、味噌汁、焼き魚、たまご、海苔、漬物。
朝から料理の腕を惜しみなく振るう妹は、どんなに忙しくても決して手を抜かない。それどころか、当然のように家事と学業を両立させている。拙者は尊敬の念を禁じ得なかった。兄の扱いは粗略だが、こうした八千代の勤労ぶりには本当に頭が下がる。
「ごちそうさま」
いつも真っ先に食べ終わるのは八千代だった。全員の食器を、空いた
「却って邪魔」
と、にべもなく拒否られた苦い経験がある。
「優秀すぎる妹にも困ったものだ」
食事を終えて自室に戻った拙者は、贅沢な悩みを口にしながら着替え始めた。姿見の前で、スタイリッシュに
男子の忍者装束は、袖丈の短い
拙者は身支度を整えると、
いよいよ今日から、学校の期末試験が始まるのだった。
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