拙者の妹

川奈雅礼

序章

其の壱 部屋と妹と拙者

 午後から降り出した雨は、夕刻を過ぎた辺りから本降りになった。

 薄暗い拙者せっしゃの部屋が、屋根瓦を叩く雨音で満たされていく。


 ――嗚呼ああ、これでは五月蝿うるさくて集中できない!


 そんな未熟な心を投影するように、文机ふづくえを照らす蝋燭ろうそくの炎がユラリと揺れた。ふすまに映る拙者の影も、その動きに合わせて不気味に踊り出す。


 思わずギョッとした。


 普段の何気ない光景なのに、無様にも驚いてしまったのだ。恐らく連日のテスト勉強で、脳の疲労がピークに達していた所為せいだろう。


 拙者は肩の力を抜き、右手の甲で額の汗を拭った。そして深く溜め息をくと、今度は抽斗ひきだしから女性用の下着を取り出した。両手で広げて頭に装着する。


「……いや待て、これは違うのだ!」


 何処いづこかより軽蔑の視線を感じた拙者は、虚空に向かってく申し開きを始める。


「これは鉢金はちがねの代わりに装着すると心が落ち着いて鍛錬がはかどるという祈願の一種で赤いリボンのついたレース編みの純白パンツなら効果は絶大と拙者リサーチでも証明された健全な男子の訓練法であり断じてグヘヘな趣味の類ではない勘違いするな!」


 一息で弁明を終える。

 そのとき、降りしきる雨が拙者を嘲笑あざわらうように強さを増した……。


     ☆


 萌賀ほうが村立妄想忍者学校に入学して、早くも三か月が過ぎた。


 待望の夏休みを目前に控え、いよいよ明日から期末試験が始まる。今宵こよいの拙者は、その試験に向けてガッツリ復習の最中だった。


「…………」


 何をするにしても、まずは心を落ち着けることが肝要である。拙者は、頭に装着した女性用下着の乱れを整えると、結跏けっか趺坐ふざを組んで深く瞑想した。


 耳をろうするのは、絶え間なく降り続く雨の乱打。その不規則なノイズは、ともすれば意識の底から消失し、あたかも沈黙が降りたかのような錯覚を引き起こす。


 騒然たる無音。あるいは、雨の静寂とでもたとえようか。


 しかし、そんな詩的な情緒に浸る暇もなく、音なき騒音は唐突な終わりを迎える。ガタガタという無粋な物音に取って代わられたのだ。


 拙者は目をすがめ、音がした方向――すなわちおのれの頭上を仰ぎ見た。すると天井板の隙間から、ちょうどほこりまみれの少女が落ちてくるところだった。畳の上で尻バウンドした少女は、取って付けたように着地のポーズを決めた。


舞衣まい、参上でごぢゃる」

 拙者、歓迎でごぢゃる!


 ……いや失敬。文机の脇に降ってきたのは拙者の愛すべき妹だった。姫カットが似合う黒髪の美少女忍者、くノ一の舞衣だ。


「ぐぬぬ、オシリ打ったナリ」

 ムフフ、オシリたいナリ!


 ……いや失敬。妹は小さな尻をさすりながらチロリと舌を出した。


 敢えて手前味噌を並べるなら、舞衣は可憐で清純で、まさに天使のような妹だった。拙者的には嫁にしたい妹ナンバーワンである。


「舞衣、オシリを打ったのか。どれ、ここは拙者が優しく丁寧に朝まで撫でて――」

「平気でごぢゃる!」


 舞衣は元気に立ち上がると、桃色の忍者装束をパンパンとはたいた。埃を払うその動きに合わせ、頭頂部のアホ毛がピョコンピョコンと可愛らしく揺れる。


 着衣の乱れを正すと、舞衣はモジモジした動作で拙者に近づいてきた。そして、長い睫毛まつげに縁取られた目を猫のようにクルクルさせると、


「お兄ちゃん、今夜はどんな術を教えてくれるでごぢゃるか?」


 好奇心に満ちた声で問いかけてくる。そう、今宵の拙者は、舞衣に新しい術を教えると約束していたのだ。


「では、忍法『こむら返りの術』を伝授しよう」


 拙者は胸を張って答えた。


 忍法「こむら返りの術」とは、ふくらはぎの筋肉を痙攣けいれんさせる渋い忍法である。被術者に過酷な長距離走を強いることで手堅く発動する。様々な意味で難度の高い術だ。拙者はそうした注意点も含め、新術のプロセスを懇切丁寧に伝えた。


 舞衣は最初、興味深そうに耳を傾けていた。実に楽しそうな表情だった。もし尻尾があれば、きっとパタパタして喜んだに違いない。


 だが、すべての手順を聞き終えた妹は、まるで手の平を返したように唇を尖らせた。


「その術やだ。地味でごぢゃる」


 殊のほか否定的な意見で却下され、拙者は危うく卒倒しそうになった。舞衣の冷めた態度にすっかり打ちのめされる。


「…………」


 薄暗い拙者の部屋に、耳障りな雨音だけが虚しく響いた。

 しかし、その陰気なムードを拭い去ったのは、他でもない舞衣の爽やかな一声だった。


「実は舞衣、凄い術を覚えたから、お兄ちゃんに見て欲しいナリ!」


 落胆した拙者を励ますように、舞衣は愛らしい笑顔の花を咲かせた。


 おお、いじらしい妹よ!


 拙者はすぐさま立ち直ると、冷静に鼻息を荒くした。目顔で「ダメでごぢゃるか?」と訴える妹に、兄の寛大さをもって優しく問い返す。


「どんな術を覚えたのだ?」

「あのね、全力脱衣の術っていうナリ」

「……んなっ!?」


 その術名を聞いた途端、拙者の思考はズキューンの様相を呈し、あまつさえキュンキュンでドッカーンに陥った。


 ――いや、いやいや、ちょっと待て!


 拙者は平静を装って考える。

 そのような十八禁術の使用を、おいそれと許可するわけにはいかない。世間には、検閲忍と呼ばれる忍者の厳しい目もあるのだ。


 ……だが! だがしかし!


 愛しい妹が、拙者に見て欲しいと言っている。それを無下に断るなんて、兄として失格だし論外だし無理だし我慢できないし見たい!


「拙者としても妹の脱衣には興……成長には興味がある。是非ぜひ見せてもらおう。正直もう待ちきれないのだ。いや別に変な意味ではなく期待がそれだけ大きいということだから早く脱いで拙者をゴートゥーヘヴンな世界へ導いて欲しいと思うにやぶさかではないがくれぐれも慌てて失敗などしないようになマジで」


 拙者は兄の威厳をもって、妹に的確なアドバイスを送った。


「うん、じゃあ始めるでごぢゃる」


 そう言って、舞衣が桃色の忍者装束にそっと手をかける。いよいよ始まるのだ。


 光源の弱さが吐血しそうなほどに悔やまれた。まったくもって痛恨の極みである。できれば昼間、もっと明るい部屋で、じっくり丹念に妹の成長を拝みたかった。


 そんな拙者の切実な想いが胸に溢れた瞬間。

 部屋を照らす蝋燭の炎が、風もないのにフッと掻き消えた。


     ☆


 ――それは心を乱した結果だった。


 妄想の妹を具現化する「妹遁まいとんの術」が、脱衣の雑念により解けてしまったのだ。


「…………」


 拙者の部屋は、暗闇と孤独と雨音に包まれた。

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