第3話 探偵団、東へゆく Ⅲ 転の段 千代、真相に近づく

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 翌日の朝、千代は電話で安芸署の対策本部に出勤している、坂本刑事に、裏木戸の秘密を伝え、裏木戸の周辺の捜査を依頼した。

「それともうひとつ、慎作の過去を調べて欲しいのよ。ここへ来る前、兵隊時代、本当に、良子さんの亭主と同じ部隊に居たのか、遺品を預かるほどの仲やったんか、疑問があるのよ」

「わかりました。それと、千代さん、大山ゆう男ですけど、ひょっとしたら、身元がわかるかもしれませんよ。実は、大阪府警の盗賊団の取り調べで、わかったことですが、『酒呑の鬼吉』を頭として、その下に、『四天王』とゆう、小頭が居るそうです。三人は捕まっているんですが、ひとり、『金時(きんとき)』って綽名の男が、逃げています。その男の指紋が、あるそうです。頭からの指令書を、四天王が回覧してた時に、付けたものが、証拠品に有って、そこに、三人以外の指紋がある。それが、『金時』の指紋に間違いないそうです。大山の指紋と照合してますが、ほぼ一致したみたいながです。ですから、団長こと、大山哲夫は盗賊団の小頭、『金時』って男に間違いないと思います。まもなく、結果が上がってきますが、まず、報告しときます。

 それと、安興寺の家系ですが、芳之助という、長男が居りました。芳次郎より二歳年上、で、戦後間もなく、亡くなってます。独身で身体が弱かった、いや、奇形児やったって、訊いてます。その父親、絹婆さんの亭主ですが、戦前に亡くなっていますので、例の引き継ぎは、父親から、芳之助、そして、芳次郎という、順番だと思われます。

 慎作の過去についても、今、県警本部から、調査依頼を掛けてますから、兵隊時代のことは、今日中にわかると思います」

 勇次の報告に礼を言って、受話器を置いた千代は、誰かの視線を背中の方に感じていた。佐代子の娘、俊子が、廊下の陰から、千代の様子を覗っていたのである。

(そうか、探偵団の会話を訊いてたんは、俊子やったんかもしれん。佐代子さんは、農業で結構忙しいから、我々を四六時、見張るなんてできないはずや。

 農業?そうや、お父ちゃんが言ってたっけ、犬猫の死骸、血文字の予告、があって、近所の農家が、仕事が手につかん、って……。嘘やろう?そんな風には、全然思えんかった。皆、農業は普段のままや。ということは、あれも単なる、噂か?いや、佐代子さんの口から出たもんやから、撹乱戦術かもしれんな?犬猫の死骸もそんなにようけやなかったのかもしれん。見てないことは、話半分、どうも、わたしたちは、誰かに、巧く乗せられたんかもしれんな。誰かとは……?)

 佐代子の家の、与えられた部屋の中で、千代は自分の仮説をもう一度、確認するように、眼を閉じて、瞑想状態になる。色んな証言を思い起こしている。

「そうか、あれも、偽装か」

 と、思い当たることがあった。

       *

「千代さん、勇次さんからの伝言です」

 と、才蔵が小松家を訪ねてきたのは、その日の午後であった。

「裏木戸の外を一斉に捜査して、色んな事がわかってきましたよ」

「色んな事って?」

「一番は、江の川沿いを少し下った処に蘆が茂っている場所があって、その草に、人間の血痕が付いているのを見つけたそうです。

 それといくつかの足跡を照合して、佐代子さんの足跡、慎作のもの、ピエロの男、それと、もうひとつ、左足が不自由だと思われる、男の足跡があったそうです」

「それって、例の、風呂敷を抱えた、商人風の男のこと?」

「ええ、右と左で、足跡の深さが違う、しかも、左は引き摺るような歩き方。その男の他に、左足を引き摺る者は居りませんよね?」

「その足跡、何処にあったが?」

「もちろん、裏木戸の外です。裏木戸の方に、向かっているそうです。あそこは、塀に庇が付いていて、この前の雨でも、足跡が消えなかったようです。それに、人通りなど、めったにない場所ですから。その先は山の斜面で、行き止まりですし……」

「そしたら、その男も、安興寺を訪ねてきてたんや」

「けど、誰もそんな男は来てないって、言ってましたよね?」

「嘘が多いんよ。この事件の証言の半分は、嘘よ。わたしたち、その嘘に、惑わされてきたのよ」

「何処が嘘で、何処が本当なのですか?」

「そこは、今、精査中。でも、みんなが『知らん』って言ってることは、ほぼ全部、嘘。みんな、実はよく知っているのよ。三菱の隠し資産についても、思っていたより、知られていたのかもしれんよ。例えば、住職、神主、慎作、おまけに、佐代子さんも……

 ねえ、佐代子さん!」

 千代が急に隣の部屋に向かって、声をかけた。その声に反応したかのように、何者かが隣の部屋で、動く気配がした。

 才蔵が、急いで廊下へ飛び出す。佐代子が隣の座敷から、玄関へ走って行くのが確認できた。

「佐代子さんが、居ったんですね?気づいていたんですか?」

「いや、ひとり言よ。何処かで、盗み聞きしてるとは思っていたけど、まさか、隣の部屋とはね。大胆すぎる……」

「また、芳和にご注進ですかね?わたし、安興寺に帰ります」

「小政さんは?」

「明見寺です。例の『謎の石塔』って奴を調べてくるって言ってました」

「じゃあ、わたしは、散歩がてら、星神社へ登ってみるわ」

「気をつけてくださいよ。安興寺の連中、我々を『五月蝿い、ハエ』と思っているようですから……。あっ、そうだ、小六はどうしてます?」

「籠に入れて、餌のお豆や雑穀食べてるよ」

「散歩に行くなら、小六を連れていってください。何があるかわからないから……」

       *

 小六を懐に入れ、動きやすい、スラックス姿に着替えて、千代は一旦、安興寺の裏木戸の外へ向かった。

 警察官の姿があり、長い棒を使いながら、近辺の草原や、溝を捜査している。

「あっ、千代さん、才蔵君に伝言頼んだがですが、逢いました?」

「うん、さっきね。それより、大捜索ね?」

「ええ、殺人現場が、この近辺とわかったもので、現場検証です。小さな証拠も、見逃さないように……」

「でも、この前の雨で、流されているかもね?」

「ええ、でも、足跡とかありましたし、そう、足跡と言えば、馬の蹄の跡もありましたよ。安興寺の馬でしょうね……。

 ああ、それと、今、連絡があったんですが、例の団長の指紋の照合結果ですが、『金時』と思われる男の指紋と、完全に一致したそうです。

 もうひとつは、まだ確定的ではないんですが、慎作の過去ですが、良子の旦那のいた部隊には、居ないそうです。慎作の旧姓から、軍歴を調べていますが、どうも、陸軍の特殊な部隊に居たようで……」

「特殊な部隊?」

「ええ、七三一部隊とか、何かようわからん部隊らしいんです」

 千代はその時、七三一部隊についての知識はなく、その部隊が、毒物、毒ガス、細菌兵器などの研究をしていたことは、後に知ることになる。

「そうだ、勇さん、調べといて欲しいことがあるの」

「何です?」

「高知か、その周辺、ひょっとしたら、徳島辺りかもしれんけど、有名な義足作っている人、職人ゆうか、技師ゆうか、そうゆう人を捜して欲しいの」

「義足?ああ、芳和さんに勧めるんですね?わかりました、調べておきます。そんなに居らんでしょう、特殊なもんやから……」


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「雨が来そうやなぁ」

 星神社へ向かう坂を上りながら、千代は空を見上げて、呟いた。西の空が黒雲に包まれている。通夜の晩の大雨から以降、梅雨時期にしては雨量は少ない。

(そろそろ振る頃かな?)と、空を西から南、東へと視線を巡らせた。

「そうや、社務所によって、雨具、借りて行こう。晩くなったらいかんから、懐中電灯もいるな」

 千代は、星神社の社務所に入って、禰宜さんから、蓑笠と懐中電灯を借りた。そして、神社の社殿から、裏山へ続く道に足を踏み入れた時である。

「あれ?あれは……、京子さん?」

 裏山の、洞窟――防空壕――に続く道を、スラックス姿の女性が登って行くのが見えた。髪を切っていることを知らなければ、綱渡りを演じた、大道芸人の下田京子とは、気が付かなかったであろう。

 京子と思われる女性は、振り返ることもなく、防空壕跡の鍵の掛かった扉の前に到着すると、その鍵を両手で抱えるようにして、何なく、南京錠型の鍵を外し、突起を引くように、扉を左右に開いた。そして、暗闇の中へ消えて行った。

「あれ?いとも簡単に鍵を開けたな?鍵が壊れていたんやろうか?」

 千代は、ゆっくりと扉に近づき、鍵を確かめる。その鍵は、南京錠の形をした、ナンバー・ロック型の鍵であった。三つの数字が暗号になっており、その数字が合わさると、鍵が外れる仕組みなのである。

 つまり、京子はその番号を知っていたことになる。

 千代は扉の前から中を覗う。扉のすぐ前は、階段になっており、石段を後からコンクリートで補強したものが数段続いている。その先に、コンクリートの床が見え、そのまだ先に、岩肌の地面が見える。そこから先は、光が届かない。穴は、まだ、奥があるようであった。

 京子の姿は見えない。千代はゆっくり、階段を降り、コンクリートの床に立って、懐中電灯を点けてみた。

 穴の天井は、大人が充分立って歩ける高さがあり、階段下のスペースはかなり広く感じられる。二十畳ほどか?広間のようである。防空壕にしては、立派な物である。周りの岩肌も、コンクリートで補強されている。

 広間の奥に、ぽっかりと、穴があいている。洞窟はそこから奥に繋がっているのだろう。その穴の前には、太い荒縄――神社の注連縄(しめなわ)に似た――が穴の両脇に取り付けられた、鉄製の輪の金具に縛られている。「危険・立ち入り禁止」の木札がぶら下がっていた。

 その縄の前に立ち、懐中電灯の光で中を覗う。穴は少しカーブを描いて、長く続いているようだ。高さは百七十センチくらいか。幅は両手を開いたくらい、充分、通行できる大きさであり、岩盤も多少のひび割れはあるものの、崩れる心配はなさそうである。人工的というより、自然の穴を広げた、そんな感じの穴であった。

 意を決して、注連縄の下をくぐり、未知の世界へ足を踏み入れる。地面は硬い岩盤であり、先に入ったはずの京子の足跡はない。

 穴は、右にカーブしながら、十メートルほどで、もう一度、広い場所に出る。畳、四畳半ほどの場所だが、天井が二メートルほどあって、窮屈さを感じない。ここまで来ると、外気の蒸し暑さが感じられず、気温はかなり低くなってきていた。

 その先に、三つの穴がある。どれもほぼ同じ大きさ。少し屈まなければ通れない、百五十センチくらいの高さのドーム型の穴が等間隔で並んでいるのである。

「真ん中やね」

 と、何の根拠もないのに、千代は少し腰を屈め、穴の中に入って行く。

「残念、不正解か」

 穴は、十数メートル先で行き止まりであった。だが、そこは天井が高く、天井から外の光が漏れている。どうやら、空気抜きの穴のようである。周りの岩肌は、取っ掛かりもなく、とても、その天井の穴までは登れそうにない。また、その穴も、人が通れるほどの大きさでもないようである。

 千代は穴を引き返し、三つの穴の場所まで戻ると、今度は右側の穴に入って行った。

「おや?今度は正解かな?」

 少し、行くと天井が高くなり、幅も広くなった。そして、また広間に出たのである。

 十畳ほどの広さがあり、天井も二メートルくらいありそうである。もう、奥へ続く穴も見当たらない。

 その代わり、穴の奥――千代の正面――には、石造りの祭壇のようなものがあり、その上に三つの物体が置かれている。その奥に、石棺のようなものが見えている。

 その三つに物体の正体を確かめるべく、懐中電灯を向けた千代が、思わず、悲鳴をあげそうになった時、

「京子、とうとう、ここまで辿り着いたんか」

 と、男の声が、背中越しに聞こえた。

 悲鳴を、その言葉に驚いたおかげで、喉の奥に飲み込み、千代はゆっくり――そう、時間を掛けて――振返った。

「京子やない?おやおや、探偵団の、別嬪さんか。そういえば、腰のあたりの肉付きが、全然違うてるワ」

(ふん、どうせ、わたしはデッチリ腰よ)と、この緊迫した場面で、考えることではないことなのに、京子のスタイルの良さと比べられたことに腹を立てて、千代は心の中で呟いていた。

 懐中電灯の光を向けると、カンテラを手にした男――大道芸人の団長――が立っている。

「こんな所で何してる?ってのは、おかしいか?どうやら、秘密とやらに辿りついたんかな?どこまで、知ってる?話してくれたら、こっちも、少しは教えてあげられるかもしれんよ」

「ま、まず、こ、これは何?」

 と、千代は背中の方に指をさし――顔は向けないまま――祭壇に飾られている物体のことを尋ねた。

「なんや?何かあるんか?」

 と、団長はカンテラを動かす。アセチレンの匂いが、千代の鼻孔をくすぐった。

「これは……?そうか、殺された三人の首、ここにあったんか。ここを首塚にして、お宝に近づけんようにしたってわけか……」

 祭壇の上に置かれていたのは、生首である。もちろん、人間の……。ひとつ――右端の物――は半ば白骨化しており、後の二つは、まだ、生々しい状態である。

「ピエロは、赤鼻を点けたままやな」

 と、団長が言った。

 真ん中の首はピエロの首らしい。ピエロの扮装の赤い付け鼻が顔にそのまま、残っているらしい。

「死んでるもんの首や。噛みつきはせん。化けて出るなら、あんたやのうて、殺したもんや。怖がらんと、よう見てみい。探偵やろう?」

(探偵でも、怖がりは居るんや。気色悪いし、縁起も悪いわ……)と、心の中で呟きながらも、千代はゆっくり、団長の言葉に従って、顔を祭壇に向けた。

「右端の、骨になってきてるのが、去年殺された、芳文さんね。真ん中が、ピエロ、多分、芳房さん。左が片腕の男、慎作さんね?」

「ほほう、エライ詳しいやないか。ほいたら、ワシは誰か知ってるか?」

 団長が、千代の推測に感心した口調で尋ねてきた。千代の恐怖心はかなり薄れてきたのである。それは、強盗団の一味、小頭の「金時」と呼ばれている男にしては、団長の態度が紳士的だったからである。

「あなたは、関西方面で活動してた、強盗団の一員で、小頭の『金時』って、呼ばれていた男。警察が、指紋を照合したそうよ」

「指紋と照合?何の、いや、何処についてた指紋や、それ……?」

「頭の『酒呑の鬼吉』からの指令書に残っていた指紋よ。小頭、四天王の指紋が残っていたって奴」

「ははは、そうか、あの指紋か……。それで、それだけか?」

「確証はないけど、あなたは、その『金時』であり、もうひとつ『酒呑の鬼吉』って呼ばれている人物やないの?」

「ほほう、これは驚いた。『金時』と『酒呑の鬼吉』が同一人物と見たか?」

 今回は、本当に驚いてくれた。今まで小馬鹿にしていた口調とは明らかに違う。と千代は感じていた。

「当たってる?」

「ああ、当たってるワ。よう、気づいたもんや」

「誰も『酒呑の鬼吉』の顔を知らん。それから、一斉検挙の際に、捕まらなかったのが、金時と鬼吉。そう考えると……」

「流石、顔回の生れ変りや」

(えっ?何故、その顔回のこと、団長が知ってるの?)

「おもろいオナゴやな。どうや、ゆっくり話さんか?そこに、腰掛ける、丁度の石がある。ここは以前、何かの宗教的な儀式をしてたとこらしい。その石もその時の名残や」

 広間の中央付近に平べったい石が埋まっており、丁度、腰を掛けられるようになっていた。

「宗教って、まさか、隠れキリシタン?」

 と、腰を降ろした後で、千代が尋ねた。

「ははは、土佐には居らんろう、もっと、邪悪なもんや。宗教というより、呪詛に近い。悪魔崇拝に近いもんやろうな……」

「どうして、そんなことにまで詳しいの?土地の人間やないんでしょう?」

「まあ、種明かしは後からや。まずは、姐さんから話してみぃ。今度の事件、何処までわかってるんや?」

「証拠はないから、仮説の段階よ。証拠集めは、今頼んでいる処」

 そう前置きして、千代は事件の真相についての仮説を話しだした。

(何故?敵かもしれん、少なくとも、味方やない男に推理を聞かさんとイカンがやろう?)と、思いながら、千代は話を続けた。

 ひとつは、この団長が、殺人事件には関与していないと思われることがあった。この男は「盗賊」であり、お宝を狙っているだけなのだ。それと、この男から、まだ、千代の知らない秘密が聴けそうだと感じたからである。こちらが話せば、相手も話してくれる。そんな期待、いや、予感がしたのである。根拠のない予感であったが……。

「まず、片腕の男――慎作――と、ピエロ殺しよ。毒殺は後でね」

 と、千代が話し始める。

 団長は時折、うん、うんと肯きながら、耳を傾ける。そして、毒殺の真相を語り終えた時、

「いやいや、こりゃあ、タマゲた。おまん、名探偵や。けど、色々、違うちゅうとこもあるぜぇ」

(えっ?何、今の言葉、土佐弁やいか……)

「あんた、土佐の人間?」

       *

「し、しもうた、地が出てしもうた……」

「ま、まさか、あんた、芳房さん?」

「えっ!ど、どういて、そこまでわかるがな?おまん、読心術でも心得ちゅうがか?」

「えっ、えっ、えっ?そ、そしたら、死んだピエロは誰?『金時』って、あの指紋は……何?」

「な、なんや、出まかせやったんか?」

「ううん、正体不明の土佐人、ゆうたら、芳房さんしか思いつかん。けど、芳房さんが、盗賊団の小頭な訳ないよね?去年の暮まで、フィリピンに居ったがやも……。そ、そうか、あの指紋が、嘘やったんや。ピエロの方が、『金時』。団長が、芳房。あんたらぁ、元々知り合いやったんや」

「さ、流石、顔回の……。おっと、禁句か?ああ、このことは、佐代子から訊いたがよ。佐代子を芳和兄ィのスパイやと思うちゅうろうけんど、あれは、芳文に頼まれて、スパイの役しよったがよ。芳文とは、手紙で連絡をつけよった。死ぬ前に出した手紙で、佐代子を味方にしたことも知らせてくれた。佐代子が嫁に来た時、ワシも逢おちゅうし、まあ、こうゆうたらなんやけど、ワシは女に、もてるがよ。けど、女は抱けん。戦時中、上官の命令で、無理やり、中国の戦地で土地の若い娘を犯した。その娘が首をつって、死んでるとこを見てから、役に立たんなった……。いまだ独身。じゃき、あんたみたいな別嬪さんにも、よう手を出さん。人殺しもできん。戦場でこじゃんと人が死ぬとこを見てきたき……」

(そうか、この人は悪人ではないんだ。だから、こんな洞窟の中で、カンテラの灯り一つでも、話が出来ゆうがや……)

「佐代子の話はエイワな?それより、大山、それに、慎作のことを話してあげるワ」

「えっ?慎作も知り合いなが?」

「そうよ、ワシを入れて三人は、同じ陸軍の部隊に居ったがよ。戦地は中国東北部。

 まず、慎作のことから話そうか……」

 慎作は薬屋の次男坊、実家は、江戸時代、薬種問屋をしていたという老舗(しにせ)である。慎作はその所為か、薬物、特に、毒物には詳しかった。薬学の専門学校に行って、化学の方にも造詣が深かった。その知識を買われたのか、ある日、部隊の異動を命じられ、特殊機関へ配属となった。それが、七三一部隊である。

「七三一部隊とゆうのは、毒薬や、毒ガス、それに細菌兵器を開発、実験したりしてたらしい。戦後、その資料を見たGHQが情報を秘匿して、幻の部隊と言われちゅう」

 帝銀事件に使われた毒薬は、その七三一部隊が開発したものとの疑惑がある。だが、GHQの壁があり、それ以上の追及が出来なかったのである。

「今回、住職の殺害に使われた毒は慎作が七三一部隊から持ち出したものに違いない。その毒の特徴は、二種類の薬物を混ぜないと、毒性が生じないところにある。Aだけでは無害。Bだけでも無害。だが、合わさると、遅向性ながら、猛毒になる。青酸性の毒と間違われるらしい。

 それともうひとつ、芳次郎が脳卒中で全身マヒになったろう?あれも、七三一部隊で開発した薬の所為や。慎作が飲ました、って、ことになってる。

 おい、変な顔するなよ。ワシが芳次郎を呼び捨てにする理由を教えちゃる。芳次郎はワシらぁの本当の父親やない。ワシらぁの父は芳之助。芳次郎の兄貴よ」

 芳之助は「奇形児」と言われているが、頭脳は明晰、足が悪いのと、背中が大きく曲がっているが、常人と同じ能力があった。顔も男前であったらしい。

 安興寺家の跡取りとして、嫁を貰い、子を成した。妻は芳房を産んですぐ亡くなってしまった。後妻を娶り、三人の子を育てたが、終戦の翌年、病で亡くなった。

 後妻との間に子はなく、後妻をその頃まで独身だった芳次郎が妻として迎え、安興寺家の当主となった。

 戸籍上は、叔父の芳次郎が父親になったのである。

 父が死ぬ前に、芳房は枕元に呼ばれた。兵役から帰って来たばかりのことである。兄の芳和も、芳文も、戦地から帰っていなかった。

 父は、自分の命が、もう少ないことを告げ、三菱の隠し財産について、一部を語ったのである。今、側にいる跡取りは、三男の芳房だけだったからである。その二日後、父は息を引き取り、臨終に、芳次郎にも、隠し資産の内容を伝えた。

 芳次郎は女癖が悪く、近所の娘に悪戯をしては、絹が尻拭いをするという、悪たれで、嫁のきてがない。そこで、芳之助の後家をそのまま妻にした。が、一年持たず、後家は逃げ出して行った。慎作が、芳次郎に薬を盛ったのはその時である。逃げ出した後家が恨みつらみを慎作に話し――どうも、後家と慎作は出来ていたらしい――復讐の意味も兼ねて、薬を盛ったのであろう。

「ちょっと待って」

 と、千代が話を止めた。

「警察が戸籍を調べたら、芳之助さんは独身だったって言ってたわよ」

「ははは、戸籍なんか、金出せば、変えられる時代があったんよ。親父――芳之助――は障害者、子供三人は、まあ、正常やった。けど、遺伝子が残ってるかもしれんろう?嫁を貰う時の弊害になる、と考えて、戸籍上は芳次郎の子供にしたんよ」

「それって、絹ばあさんの策略ね?」

「まあ、そうゆうことや。

 話を続けるでぇ。慎作のことで、まだ秘密がある」

 慎作は、七三一部隊に所属していた。良子の夫とは、縁もゆかりもない。その彼が、何故、戦友と偽証して、良子の元に来たのか?

「慎作は、三菱の廻しもんや。ゆうなれば、三菱に雇われたスパイや。隠し資産がどうなっちゅうか、探ること、そして秘密を守ることを命じられてきた。後家の良子をたぶらかし、婿に入る。多分、三菱のお膳立てがあったんやろうな。

 その良子が首括って、死んだ事件やが、あれは自殺やのうて、慎作が殺ったことよ。慎作の正体に気づいたのと、芳次郎の後家と関係を知ったのと、芳次郎に薬を盛ったこと、良子は知り過ぎたんよ。あの下着泥棒は、その後家がやったことよ。アリバイ作り、良子が死んだ時、慎作は、下着泥棒していたことになってる。立派なアリバイがある。下着泥棒なら、初犯やし、大した罪にならん。いや、金積んで、不起訴にしたんや」

 つまり、良子は夫が下着泥棒をしたことを恥じて、自殺したのではなく、夫の秘密を知り過ぎたため、殺され、夫はその犯罪を隠すために、下着泥棒の罪を認めたのである。

 その、良子の事件の後、すぐ、芳房はフィリピンに渡っている。途中の台湾への寄港の時に、偶然芳文に逢い、お宝の話を打ち明け、今後協力することになったのである。

「それと、さっきのおまんの推理で間違うていたことがある。芳文の事件のことや。芳文は、そこの白骨化した首の男やが、殺されたんと違う。あれは本当に事故――崖崩れと土石流に捲きこまれた――やったんや。但し、首を切って、ここに飾ったもんが居る。それは、ワシにはわからんことや」

 芳房が芳文のことを話す。

 台湾で、兄弟の対面を果たした後、芳文は日本へ――井ノ口村へ――帰って来たのである。但し、秘密裏に、戦犯であるため、家族の一部――おそらく、絹と芳和のみ――しか知らないように……。

 芳文は、芳次郎の枕元の手提げ金庫から、黒革の手帳を盗みだした。中身はほとんど、意味不明であった。ただ、星神社辺りが怪しいと探索していた時、刑事らしい男に気がついた。てっきり、戦犯の自分を捕まえに来たと勘違いして、慌てて荷物を纏め、台湾へ逃げ帰った。その時、手帳を本棚に忘れてきたのである。

 台湾に帰った芳文は、フィリピンの芳房に手紙を書く。渡航資金を送ってもらい、そして、去年の夏の終わりに、再び、井ノ口村へ帰るのである。

 芳文は家には帰らず、星神社の裏の防空壕跡の洞窟で二,三日過し、佐代子の世話にもなったらしい。そのことを、芳房あてに手紙を書いた翌日、あの台風に巻き込まれたのである。

 台風の最中、防空壕にいた方が良かったのかもしれないが、山が振動しているように思えて、危険を察知し、山を降りた。運悪く、その途中で、落石に遭い、動けなくなった所へ、土石流が発生し、命を落とすことになった。

「待って、事故だとしたら、慎作の行動はどうなるの?慎作がその台風の最中に姿を隠した理由がなくなるんじゃない?」

「ああ、確かに、慎作のその後の行動が、不審に思えるわな。これからの話の情報源は秘密やが、慎作がその情報源の人物に語っている」

 慎作は丁度、その土石流が発生した、すぐ近くにいたのである。そして、芳文が、巻き込まれたのもわかった。慎作は、泥や石の間からのぞいていた、芳文の首を、持っていた鉈で切り落とした。理由はいくつかある。ひとつは、戦犯の芳文が此処にいることが知れたら、戦犯を匿ったとして、安興寺だけでなく、村人が罪に問われる。そして、そのことより、芳文が危険を冒してまで、こんなところにいる理由――三菱の隠し資産の秘密――を探られる可能性があることがあった。もうひとつは、首がなければ、この死体は、自分――慎作のもの――と間違われる筈である。慎作は、飽きていたのである。唯見張るだけの刺激のない田舎暮らしが嫌になっていた。これはチャンスや、と思ったのである。

 ただ、誤算もあった。首を始末する時に、左手に大きな傷を負ってしまったのである。応急手当をして、村を離れたが、その傷の所為で、左腕を切断する手術を受けることになった。

「その慎作が、村を出て、頼った先が、金時――大山――のとこや。ここで、大山が事件に係わって来る」

 左腕に怪我をした、慎作を、闇の外科医の処で、手術をし、養生のため、しばらく匿っていた大山が、慎作から三菱の隠し資産のことを聴きだすのに、それ程の手間はかからなかった。

 その頃、大山は盗賊団のほうで、でかいヤマの計画があり、高知の外れまで、不確かな情報をもとに出かける気持ちにはなれなかったのである。また、大山は慎作を信用してなかった。同じ部隊にいた頃の慎作と、七三一部隊を経て、帰国した慎作は、性格が一変していたのである。

 部隊では、人体実験を繰り返し、人の命が、紙切れのように扱われたらしい。死体を刻む、焼く、そんな処分を任された慎作は、人が死ぬことに、ほとんどマヒ状態だったのである。

 その年の暮れに行う筈だった、大きなヤマは、誰かの密告により、警察の知るところとなった。計画は中止された。金時と名乗っていた大山も、身を隠すこととなり、慎作とはそこで別れた。

 芳房がフィリピンから帰国したのは、丁度その頃である。だから、芳房は慎作とは会っていない。が、慎作は芳房が大山と逢っていることを知っていたようである。

 年が明けて、警察の捜査が進展し、盗賊団の一斉摘発が始まった。大山の周辺にも、刑事の姿が見え隠れしてきた。そこで、芳房が自分の指紋を付けた指令書を小頭達、四天王に送り、その四天王を逮捕するよう画策したのである。

 金時と疑われた大山であったが、指紋が違っており、また、芳房による偽のアリバイを用意していたこともあって、すぐに解放された。

 ふたりはほとぼりが冷めるまで、別行動を取り、連絡だけは密にしていた。大山がサーカス団のピエロとして紛れこんだことを知り、芳房もサーカス関係の仕事に就いた。大山はジャグリングが得意だったのである。

 春になって、大下サーカス団が高知公演をすることを知った二人は、別々の紹介状を持って、臨時雇いの団員となった。そのとき、芳房は大山の名を借りることにしたのである。どうせ、大山哲夫という名も偽名であったのだから……。

 京子と出会ったのは、本当に偶然である。京子はおそらく、自分の夫――内縁関係であるが――と容貌の良く似た大山と名乗る男に魅かれるものがあったのだろう。親しく話すようになり、コンビを組む。そして、公演が終わった時、安芸に行くことを告げたのである。

 その時初めて、京子が兄の妻であることを、芳房は知ったのであった。

「ここでもう一人、登場する奴が居るんや」

 と、(お前にわかるか?)を口にせず、芳房が、にやりと笑った。カンテラの灯りが、その顔を鬼のような雰囲気に見せていた。

「住職さんでしょう?」

「な、何でわかるがな?おまん、本当に、顔……、いや、怖いオナゴや……」

「わかるよ。三人を連れてきたのは住職さんやもん。何か取引があったんと違う?お互い、持ちつ持たれつ、みたいな……」

「さっき、事件の真相話した時は、住職の話はせんかったくせに……」

「そこは省略よ。犯人のトリックを話しただけだから……」

「ちぇ、喰えねえオナゴや。まあ、エイ。話を続けよう。どうや、住職が殺される動機がわかるか?」

「想像だけならできるよ。裏切りよね。おそらく住職さん、秘密を守る側でなく、狙う方に変貌したのよ。お寺の経営、苦しくなってたみたいやし……」

「流石や、そのとおり。ワシらと手を取り合って、お宝掠め取る話を持って来たのよ。実は、芳文が住職に謀って、去年から話がついちょったがよ。そのことを話したら、乗って来た」

「けど、住職さんも神主さんも隠し場所までは知らないんでしょ?ただ、見張り役を命じられていただけで……」

「そうや、けど、一緒になって捜せば、見つかる可能性は高いろう?ここやって、結局わかったがやき」

「そいたら、あの石棺の中にお宝があるの?」

「残念やが、入ってなかった。おまんが真ん中の穴へ入った時、ワシはこっちへ来て、先に調べたがよ。カラッポや。ここはダミーやったのかもしれんな。こんな大きな穴やと、誰でも、ここや、と思うもんな」

「そうか、ダミー、偽装の場所やったがか……。けど、それにしたら、大がかりな工事をしたもんやな。自然の穴を、大きゅうして、補強工事もしてるのに、唯の見せかけとは、本当の隠し場所は、どんだけ手が込んでるのやろう?」

「さてと、話はここまでや。最後に、住職の毒殺事件やが、あんたの仮説、間違いや。毒はゆうたとおり、慎作が持っていたもんや。犯人は慎作。わかったか?」

「ほいたら、あとの二人の殺しは仮説どおり?」

「ああ、中々の名推理や」

「あんた、正直もんやね。嘘つくんが下手や」

「な、なんで、この期に及んで、ワシが嘘つかなあかんのや?」

「それは、あんたがわたしを殺す気がないこと。殺さなければ、いずれ、真相がわかることになる。それで、嘘をつくんや。家族のためか?」

「う、うるさい。今は殺さん。けど、しばらく、動けんようにはしとくで……」

 芳房は腰のポケットから、小型のピストルを取出し、銃口を千代に向ける。

「後ろに手をまわして、むこう向け。手と足を縛るだけや。明日にはおまんの仲間が助けに来るろう。ワシはその間におさらばよ。金は手に入れたし、また、フィリピンで農園が出来る。台風の被害がなかったら、こんなとこへは戻る気はなかったがやき……」

 千代は大人しく、細い紐で後ろ手に縛られ、足首も同じように縛られた。

 カンテラを提げて、芳文が元の道へ続く穴の中に吸い込まれると、辺りは真っ暗になってしまった。

「ああぁ、明日の昼ごろまで、生首三つとこんなとこで、居らなイカンがやろうか?」

       *

 千代が諦めかけたその時、穴の向うに光が見えた。

「あら、帰って来たがやろうか?忘れもんかな?」

 光はカンテラではない。小型の懐中電灯の光であった。その光の陰に、小柄な人物のシルエットが浮かんでいた。

 千代が、身を捩って、微かな音を立てる。

「誰?誰かいるの?」

「京子さん?わたし、探偵団の千代よ。足元にころがされているの。団長の所為でね」

 懐中電灯の光が千代の身体を捉える。

「ああ、千代さんゆうひとか、大丈夫?怪我はない?」

 と、京子は千代の背中に手を回し、紐をほどいてくれた。

「京子さん、何処に居ったの?」

 と、千代は自由になった両手で、足首の紐をほどきながら尋ねた。

「そこの、三つの穴の左の穴に入って行ったら、迷路のようになっていて、ぐるぐる回っていたみたい。やっと、出たと思ったら、元の場所だったの。それで、次は真ん中。そこは行き止まり。最後にここへ辿り着いたってわけよ」

「じゃあ、団長には逢わなかったのね?」

「団長?大山?そうか、あいつ、お宝奪って逃げたのね?」

 そう言うなり、京子は懐中電灯を手に、慌てて元の道へと帰って行った。辺りはまた真っ暗闇になった。今度は手探りで、自分の懐中電灯を捜しあて、スイッチを入れた。

 立ち上がると、すぐさま、京子の後を追って行った。

 出口の階段の前の、防空壕として使っていた広間まで、一気に走って来た、千代の持つ懐中電灯の光の中に、京子の倒れている姿が浮かんだ。階段の下に、頭から血を流して、うめき声を立てていたのである。

「京子さん大丈夫?」

 と、千代が京子の上半身を持ち上げる。京子は無言で、扉を指さす。扉は元通りに閉められていた。石段を駆け上がり、扉を押してみるが、びくともしない。南京錠の鍵まで、掛かっているようだ。

「ちえ、芳房の奴、縛るだけやのうて、鍵までして行ったがか!」

 と、毒づいてみたが、京子のことが心配になり、石段を引き返した。

 京子は、頭から首を鈍器のようなもので殴られ、その勢いで、階段から転げ落ち、頭や腰を強打したらしい。ほとんど気を失っている状態であった。傍に豆球が切れた、懐中電灯が転がっていた。

 千代は自分の懐中電灯の光で、辺りを照らしてみる。社務所で借りた、蓑笠一式が置いてあった。広間の奥に、大きな焼物の壺のようなものがある。近づいて行って、封印されている蓋を取ると、強い酒の匂いがした。密造した、焼酎が封印したまま残っていたのである。

 消毒に使えそうやな、と、懐に手を入れた時、

「あっ、小六が居った」

 と、声に出してしまった。

 小六と共に、日本手ぬぐいを取出し、焼酎を手ぬぐいに染み込ませ、京子の額の傷口を拭ってあげた。傷に染みたのか、京子が、「うっ」と声にならない声を上げ、眼を開く。

「京子さん、大丈夫よ。怪我はしてるけど、命には別条ない。すぐに助けが来るから。探偵団の小政さんか才蔵さんが、この場所知っているから、安心して……」

 千代はポケットから手帳と鉛筆を取出し、「助けて、千代」段を変えて、「星神社裏、防空壕」と書いた。

「あっ、でも、鍵の番号がわからん」

 と、呟いた時、京子が千代の腕にすがるように、右手で、千代の袖を引いた。

「何?何か言いたいの?」

 と、千代が京子の口元に、耳を近づける。

「パ、イ」

 と、微かに聞こえた。

「パイ?オッパイ?違うわね?食べ物のパイ?アップル・パイとか?違う?麻雀のパイ?違うよね?」

 京子が両手の親指と人差し指で、輪を作って見せた。声が出ないのである。

「輪?ああ、そうか、円周率のπ(ぱい)ね?」

 その言葉に肯いた京子は、そのまま気を失ってしまった。

 懐中電灯の光が、小さくなっていく。電池が切れる寸前なのだ。

 千代は、手帳の切れはしの、「千代」の文字の後に、素早く「π」と書き、その紙を小さく丸めて、小六の足に付いている、通信筒に押し込んだ。

「あっ、いけない、蓋が転がって行っちゃった」

 筒の蓋が、転がって、光の届かないところに行ってしまった。

(しかたない、手ぬぐいを破って、蓋の代わりに詰めておこう。それより早く、小六をあの空気抗から、外へ飛び出させなければ……。それまで、懐中電灯の電池が持つかな?)

 千代は慌てて、洞窟の中に入って行く。三つに分かれた穴の真ん中へ入って行き、空気抗に向かって、小六を放り投げた。

 小六が穴を通り抜け、視界から消えた処で、電池が切れた。千代の顔に、冷たい雫が掛かって来た。

「雨が降り出しているんや。小六、才蔵さんとこへ、辿りつけるやろうか?」


       19

 千代は知らなかったが、外は大雨になっていた。土佐沖に、低気圧が発生し、梅雨前線を刺激しただけでなく、小型台風並みの風が吹き荒れたのである。

 その雨の中、小六は飛んで行った。だが、千代の期待していた、才蔵の元ではなく、なんと、高知の菜々子の元へ飛んで行ったのである。

 その時、菜々子はパジャマに着替えていた。夜の九時になろうという頃であった。

「サイゾー、サイゾー、エエ、オトコ」

 刻屋の離れの二階、一階の屋根の上に、張り出した縁(縁側)の手摺に、黒い物体が止まり、金属音のような声をあげた。

「小六、どうしたの?こんな大雨の中……。才蔵から緊急連絡?電話があるでしょう?」

 小六に理解できるわけがないのに、菜々子は雨に濡れた小六を、両手で包み込むように抱えながら、呟いた。

「あれ?通信筒の蓋が取れてる。布が詰められてるのね?びしょびしょになってる」

 これも、小六には伝わらない。ほとんど、独り言である。

 小六の足首から、筒を外し、濡れた布――千代が詰めた手ぬぐいの切れ端――を取出した。

「これは蓋の代わりか……」

 何も書いていない、布を検め、もう一度、筒の中を確認する。

「ああぁ、雨で、濡れてしまって、紙が解けかけてるやないの。文字が読めるかなぁ」

 千代の書いた、手帳の鉛筆の文字は、殆ど消えかけていた。しかも、最後の部分は紙が解けて、文字どころか、紙の形もなかった。

 菜々子でなかったら、「助けて、千代」の文字は判読できなかったであろう。菜々子の特殊な能力、人には見えないが、そこに書かれてある、或いは、写っているものが見える力が、ここで発揮されたのである。

「た、大変や、千代姐さんが、危ない……。でも、何処に居るんか?続きは、わたしにも見えん。最後に、何やこの文字?英語?「T」?いや、縦が二本や。神社のマークやと、横線が足りんし、そうか、数学の「π」か……。けど、何で、ここに数式が出てくるんや?

 イカン、取敢えず、お寅さんに報告、それから、顔役さんにも……」

       *

「ほ、ほんまに、千代が助けて、って書いてきてるんかね?」

 いつも朝が早いため、もう寝間着に着換えていたお寅さんが、濡れた手帳の切れ端を、菜々子から奪い取るようにして確認の言葉を発する。

「間違いありません。この雨の中、わざわざ、小六を使っての通信ですから、電話もできん状況ながです」

「そうやけど、それやったら、ウチやのうて、才蔵さんとこへ、届けるろうがね」

「小六が間違うたんです。安芸から飛ばしたから、高知へ届けるもんと……。今まで、そうしてたから、わたしに届けるもんと思ったがですよ」

「そしたら、大分、時間が経っちゅうってことやいか。オオゴトぞね。ヘンシモ(=急いで)、顔役さんに連絡して、助けて貰おう」

 顔役さんこと、山本長吾郎の行動は迅速であった。

 まず、県警の本部長の自宅へ電話をし、緊急事態、直ちに、安芸署の署員を動員し、千代の捜索に当たれ、と命令――懇願ではない――したのである。

 次に、大政に組員――会社の職員だろう?――を集めさせ、幌付きのトラックを用意し、第一便として、安芸へ向かわせたのである。総勢、十五人が、半時間で集まった。

「小政に連絡や。安興寺に居る筈や」

 と、手帳に控えてあった、安芸の安興寺家の電話番号を回す。

 何とか、使用人の和江に電話が繋がり、千代が危ない、と小政に伝えるように頼んだ。台風並みの風雨の所為で、電話が聞取り辛く、途中で切れてしまったのである。

「ええい、ワシも行く。もう一台、トラックや!」

「そりゃあ、アテも行きたいですが、運転手は?」

 と、お寅さんが言った。

「僕も行くよ!ジョンを連れて行かんと……」

 と、S氏が言った。

「わたしも行きます!講義なんて、ほっときます!単位なんて来年、取り返します!」

「そ、そやから、行くんはエイけんど、運転手は?」

 興奮気味のメンバーをお寅さんがたしなめる。

「へい、トラックの運転なら、任しといてください」

 惣菜を売り始めた、店の方の戸口から声が掛かった。雨合羽に身を包んだ男が、そこから入って来て、合羽のフードを外した。

「マッちゃんやないの……」

「女将さん、アッシも探偵団の一員でしょう?お役に立たせてくださいよ」

「あんた、床屋やろう?トラックなんか運転できるんかいな?」

「お寅さん、人を見くびっちゃあ、いけやぁせんぜぇ」

(どうしてこんな場面で、江戸っ子になるんや?一心太助かぶれか?)と、S氏は吹き出しそうになった。

「アッシが軍隊にいたのは、ご存じでしょう?」

「ああ、あの『私は貝になりたい』のモデルは自分や、ゆう、テンゴウ噺やろう?」

「ま、まあ、モデルのほうは、冗談ですがね、陸軍にいたのは本当でさぁ。しかも、奥地まで物資を届ける、輸送部隊に所属してやしたからね、トラックどころか、装甲車でも走らせますよ。それも、道なき道を掻き分けて……ってやつですよ」

「噺半分でもエイきに。顔役さん、マッちゃんに頼みましょう。トラック、もう一台お願いします。あんた、早よう、ジョン連れといで!」

       *

 それより少し前のこと、小政と才蔵は、千代の帰りが遅すぎることに気づいていた。

「何かあったら、小六が知らせに来ますよ」

 と、言ったものの、才蔵も不安になっていたのである。

「小六も出られないかもしれんろう?」

「そ、そうですね、あの洞窟に閉じ込められていたら……」

「行こう」

「はい、行きましょう。でも、フル装備ですよ。懐中電灯も何本か。ロープにツルハシ。ダイナマイトも持って行きましょう」

 雨風はひどい状況である。雨合羽でも、染み込んでくる。

「車は無理です。馬を借りましょう」

「馬?才蔵君、馬に乗れるんか?わたしは無理かも……」

「大丈夫ですよ。農耕用の背の低い馬ですし、大人しいですから、並足程度で行けば、転けたりしませんから……」

 友造はいなかったが、和江に断って、二頭の馬に鞍を付け、革の袋に荷物を入れ、ふたりは安興寺を後にした。牡の馬に、才蔵、牝馬に小政が跨った。

 長吾郎からの電話は、その後だったのである。

 ふたりが星神社の登り口に差しかかった時、眼の前の景色が一変していた。大量の土砂が道路をふさいでいた。土、泥、岩、それに倒木が辺りに散乱していたのである。しかも、まだ、地鳴りがして、今にも山肌が滑り落ちてきそうである。

「山津波が起きたんか?」

 と、懐中電灯の光を回しながら、小政が言った。

「落石、土石流、倒木。雷も落ちたみたいですね?」

「馬では行けん。いや、歩いても、この雨と、暗闇では、危険すぎるな」

「はい、無理です。小政さんは引き返してください。警察に連絡して、少しでも早く、捜索できるよう、手配をお願いします」

「おい、まさか、才蔵君、行くんやないろうな?」

「行きますよ。千代姐さんの命が掛かっているんですもの」

「そしたら、わたしも行く」

「無理です。常人には……。小政さん、わたしは忍者ですよ。こういう、訓練を受けています。自衛隊やレンジャー部隊でも無理な状況でも、わたしならできます。残念ながら、小政さんは足手まといです。わたしを信じてください。きっと、千代姐さんを助け出します。わたしの命に換えても……」

「なんで、そこまで?千代さんと君はまだ、知り合ったばかりやないか。しかも、他人同士や」

「わたしも、小政さんと同じなんです。千代さんが好きなんです。命がけで守ってあげたい……。

 行ってきます!」

「お、おい、才蔵君、ダメやぞ、千代さんは、幸雄さんという大事な人が居るんや。わたしはただ、傍に居るだけで……」

「はい、わたしも同じです。ただ、小政さんの気持は、千代さんに通じている。でも、わたしの気持は……、全くですよね?」

       *

 小政は才蔵の背中を見送るしかなかった。才蔵は忍びの道具を背中にしょって、土砂崩れの山道を登って行った。

(止めるべきやったか?)と、小政は自問した。

 が、何時までも迷ってはいられない。才蔵の乗り捨てた馬の手綱を手にし、小政は安芸署のある、市内へと馬を走らせたのである。

 その途中で、パトカーと出会った。

「あっ、小政さんやないですか?」

 パトカーの後部座席のウインドウが開いて、勇次が声を掛けた。

「おう、勇さん、今、警察へ行こうとしてたところや」

「どうしたがです?馬に乗って?しかもカラ馬まで用意ですか?」

「いや、千代さんが行方不明ながよ。それで……」

 小政が簡潔に才蔵と捜索に向かったこと、崖崩れで、才蔵一人が山に登ったことを告げた。

「そうでしたか。実は県警の本部長から、緊急命令がきて、刻屋の若女将が安芸署管内で行方がわからんなっちゅう、直ちに、署員総出で、捜索を開始せよ、って言われたがです」

「県警の本部長?そりゃあ、一番のエライテさんやいか。何で千代さんが行方不明って知っちゅうがやろう?」

「わかりません。僕らぁ命令に従うだけですき……。

 それと、大道芸の団長と綱渡りの京子ゆう女も姿を消しちゅうがです。今朝から、裏木戸付近から、江の川沿いを一斉捜索した所為で、そっちの監視が疎かになってしもうて、非常線を張っていますが、見つかっていません」

「団長が、千代さんに何か仕掛けたがか?」

「それはわかりませんが……。

 まあ、でも僕らも捜索を開始します。小政さんは危険ですから、安興寺さんか、佐代子さん処で、待っててください。才蔵さんが千代さんを無事救出して帰って来るかもしれんでしょう?」

 小政は無言でパトカーを見送った。

(今のわたしは無力や。愛する人を助けにも行けん……。いや、千代さんは強い人や。太夫さんのお札に守られちゅうき、命に別条がある訳がない。明日になれば、雨も止む。きっと無事や。あの笑顔に明日には会える。わたしは待つだけや……)

 小政は馬の手綱を引き、安興寺へ帰って行った。

 厩に二頭の馬を繋いで、和江に声を掛ける。友造はまだ帰っていないらしい。

「馬を洗うちゃらんとイカンねえ」

 と、小政が言うと、

「はい、明日、向うの井戸端で、洗うちゃります」

 と、和江が答えた。

(向うの井戸?)

「車井戸はなぜ軋む」の謎が解けた……。


       20

 才蔵は苦戦していた。星神社のある山は、それほど高い山ではない。標高、四百メートルほどであろうか。だが、車が通れる道は、ほぼ、土砂と倒木が塞いでいた。山の至る所で、山肌が崩れたり、崩れかけたりしているのが、時々光る雷の稲光で確認できた。

 才蔵は夜目が利く。また、鋭い聴覚、野生の勘も持ち合わせている。危険な場所を避け、大きく、う回路を取りながら、山頂近くの神社を目指していた。

 警察の捜索は、さらに、難渋を極めており、ほぼ、山裾で待機の状況である。

 そこへ、大型の幌を付けたトラックが到着した。大政を乗せた、長吾郎一家の面々である。

 警官が、非常灯を振り、トラックを停止させる。

「坂本刑事は居るか?」

 助手席から降りてきた。初老の、引き締まった体の男が、雨音に負けないように大声で呼びかけた。

「ああ、大政さん、山長の皆さんが来てくれたんですか?」

 雨合羽に、ヘルメット姿の大政が、長吾郎からの指令を手短に伝える。

 そこへ、急ブレーキの音を高らかに軋ませて、少し小型のトラックが突っ込んできた。マッちゃんの運転する、第二陣である。出発は半時間ほど遅かったはずなのに、到着時間は五分ほどの差。いったい、何キロの速度で走って来たのであろう?スピード違反は、まあ、この際、目を瞑ってもらおう。

 助手席から降りてきたのは、長吾郎である。ほとんど、車酔いか、もしくは、座席の天井に頭をぶっつけた所為か、ふらふらとした、頼りない足取りであった。

 坂本刑事が手を貸して、警察官が待機している、テントの下に連れて行った。そこで状況を伝える。

「小政さんの話ですと、千代さんは『星神社に行く』と言って、午後、出かけています。わたしもその時、逢っておりますから、間違いありません。星神社の社務所に電話したのですが、千代さんはそこで、懐中電灯と蓑笠を借りて行ったそうです。それを返しには来てない、と、そこで、電話が不通になりました。星神社の周りも、土砂崩れが発生してるみたいです。山の状況を、今、把握しているところですが、至る所で、土砂崩れが発生しており、二次災害の危険性もあり、明け方まで、待機の命令が出ています」

「そいたら、千代は……?」

 トラックから這うように降りてきた、お寅さんが、折りたたみのイスに腰を掛けながら、喘ぐような声で尋ねた。よほど、トラックの運転が、荒かったことは、顔役さんとお寅さんの様子で、勇次にも察することが出来た。

「大丈夫です。おそらく、防空壕の中にいるはずですから、却って安全だと思います。雨も小降りになってきましたし、昼までには救出できますよ。お寅さん、それまで、休んでいてください。お寅さんや、顔役さんに倒れられたら、そっちが大変ですき」

「ジョン、を連れてきたき、使こうて」

 と、比較的元気な、S氏が言った。

「わたしも行くからね」

 と、弱弱しい声で言ったのは、菜々子である。

「誰です?」

 勇次は、菜々子とは初対面だったのである。

 そしてもう一人、弱弱しい足取りで、テントに辿りついた男が言った。

「アッシのことも忘れんと……」

       *

 その頃、千代は眠っていた。

 懐中電灯の電池が切れた後、

「そうや、京子さんの懐中電灯は、豆球が衝撃で切れただけ。ウチのは、電池切れ、球を入れ変えたら、点くかもしれん」

 と、気づいたのである。

 二つの懐中電灯は、大きさが違い、使用する乾電池が、単一と単二と違っていたが、豆球は同じものであった。

 懐に入れていた、革の小袋から、マッチ箱を取出し、塵紙をこより状にして、火を点す。その僅かな光の中で、豆球の交換を終え、京子の懐中電灯のスイッチを入れた。暗闇が、小さな光で、安堵感を産んでくれた。

 懐中電灯で、防空壕として使われていた、広間を点検する。先ほどの焼酎の壺の脇に、筵で作った袋が、二つ乱雑に置かれているのが見えた。それを拾って、京子の側に帰って来る。袋は、少し、異臭がしたが、腐ってはいない、比較的新しいものである。

 その袋を、床に敷き、京子をその上に寝かせる。荒い息をしているが、先ほど焼酎で傷口を消毒したのと、傷口へ、手ぬぐいを捲いて、出血が止まったのが良かったのか、容態は安定していた。

 蓑を身体の上に掛けてやり、千代はその横で添い寝をすることにしたのである。

 時々、雷の音、風による、木々の倒れる音が、扉越しに聞こえてくる。暗闇の中、微睡んでいた千代の、胸の辺りを何かが触った。

(えっ、何?)と、覚醒して、胸に手を当てると、隣に寝ていた、京子の右手が、千代の胸のふくらみを触っていたのである。

「きょ、京子さん、何すんの?」

 と、言って、千代は気づいた。

 京子は眠ったままである。人肌のぬくもりを求めて、無意識に手が伸びてきたのであろう。今度は、顔を胸に埋めるように、寝返りをうって来た。

「そうや、子供の頃、両親と死に別れて、他人さんの世話になって、やっと、芳文さんと所帯持ったのに、その芳文さんが、殺されたんや。心細かったはずや。日本人ゆうても、住んだことのない、異国と同じとこに居るんやもん……」

 千代は、傷に触らないように、注意しながらも、京子の身体を、強く両手で抱きしめてあげた。京子の顔が、やたらと、乳首を刺激するのを我慢しながら……。

       *

 才蔵は、雨が小降りになった頃、やっと、星神社の社務所にたどり着いた。

道でない、山の斜面の比較的、樹木の根が張って、地質の硬い場所を選んで、足元は、忍びの「クナイ」で足場を作り、鈎縄を、丈夫な木に巻きつけ、ロープを伝いながら、少しづつ、登って来たのである。身体は、雨で、完全に濡れていた。

 社務所の電灯は消えていたが、カンテラか、ランプかの灯りが灯っていた。

 社務所までの参道には、倒木があり、先日、慎作の首なし死体が埋まっていた斜面は、その上の山が大きくえぐられて、土砂で埋もれていた。雷が落ちたのか、焦げくさい臭いもした。神社の敷地内だけが、被害を免れているかのようであった。

「警察の救助隊かえ?」

 と、才蔵の姿に、禰宜は喜びの声をあげた。

「いや、警察はまだ来れないでしょう。わたしは探偵団の者です。千代さんという女性が、ここへ来たはずなんですが……」

 濡れた衣装を、一旦脱いで、力いっぱい、絞って、水分を飛ばす。才蔵の着物は、特殊な布――アメリカの軍隊で開発された物らしい――で織られており、絞るだけで、ほぼ、水分が除ける、撥水性の強い繊維である。

「ああ、あの、別嬪さんか。少し前に、刑事さんからも電話で訊いて来たが、途中で電話が不通になった。状況がわからんき、寝ずの番よ。その別嬪さんやったら、ここで、懐中電灯と蓑笠を借りて行ったままやき、おそらく、防空壕へ行ったがやろう。けど、鍵が開けれたがやろうか?」

「鍵?鍵はここにないんですか?誰が管理しているのです?」

「ああ、鍵は番号式のもんやき、神主さんと安興寺のもんが知っちゅうだけや。ワシは知らん。三つの数字の組み合わせで開く鍵よね」

「神主さんは?」

「家で、酒飲んで寝ゆうろう?最近、深酒が過ぎて、死んだように眠っちゅうろうき、行っても無駄やで、それと、防空壕の扉の前あたり、崖崩れが起きちゅうき、近づけんでぇ。朝までは無理やろうき、あんたもここで待ちより」

「他に入り口はないのですか?洞穴のようでしたから、奥に続いた穴の出口とか……」

「ないなぁ。奥は行き止まりやそうや。ただ、空気抜きの穴があいてるそうやが、小さいもんで、猫ぐらいしか通れん」

「空気抜きの穴?それはどこにあるんです?」

「まあ、山の反対側の斜面や。扉からゆうと、右に曲がった山の頂上付近。大きな銀杏の木がある処や。けど、崖が崩れちゅうろうき、行けんで」

「行きます。ここへも来れんはずでしたけど、来れましたから……」

「ま、まあそうや。どうやってここまで来たんや?あんた、空飛んで来たんか?天狗さんか、あんた……」

       *

 千代は、微睡んでいた。京子を抱いている所為で、お互いの体温が温め合い、眠気を誘う温度になっていたのである。

「嫌や、京子さん、オッパイはかまんけど、キッスまではせんといてよ。わたし、そっちの気はないんやから……」

 そう口に出して、千代はハッと目が覚めた。

 京子は、顔を千代の胸に当てたまま眠っている。唇に触れられる状態ではない。周りに誰もいない。

「夢やったんやろうか?けど、リアルな夢やな、まだ、唇が、濡れている……」


       21

 夜明けとともに、捜索活動が始まった。雨も小止みになっている。

 警察の要請で、建設会社から、重機類が集められている。まず、道路上にある、倒木を取り除き、山道を通行できるようにする計画である。

 重機を扱える、山長一家の従業員が、数名、さっそく、ユンボやショベルカーを動かし、倒木や、倒壊した岩を除いて行く。

 同時に、山の斜面を登って行くルートの確保にも、警察官に混じって、山長一家が、その腕をふるっていた。

 丈夫な木に、ロープを張って、そのロープを伝って、斜面を登るのである。急な斜面で、木のない処は、登山用のハーケンを岩盤に打ちつける。

 幾つかのルートが出来、それぞれ、数人の隊を作って、星神社を目指すことになった。

 年寄のお寅さん、顔役さん、それと子供のS氏、女性の菜々子は待機命令が下されていた。ジョンは勝手に山道を駆け上がって行き、姿が見えなくなっていた。

「一番のりは、ジョンかな?才蔵さんはもう着いたかもしれんけど……」

 と、テントの中で、温かいコーヒーとビスケットを食べながら、S氏は独り言のように呟いた。

「ああぁ、わたしは行けたと思うけどなぁ。体力には自信あるよ。陸上部やし、田舎育ちで、山道も得意やし……」

 と、菜々子がぼやく。

「マッちゃんはどうしたぞね?」

 と、お寅さんが訊く。

「ああ、張り切り過ぎて、腰傷めて、救護班を煩わしゆう」

 と、S氏が答える。

「あの男らしいわ。けど、トラックの運転は確かやったな。乗り心地は、最低やったけど……」

 顔役さんもコーヒーを飲みながら、しみじみと言う。

「ばあちゃんと、顔役さんは運転席の隣やったけど、僕と菜々子さんは荷台やでぇ。身体は揺れて、飛び出しそうになるし、寿命が縮まったワ」

「そうよね、ジョンも吠えてたもん、危険やったよ」

「まあ、とにかく、無事ここまで来れた。あとは、千代さんの無事な姿を拝むだけや」

「顔役さんも、お寅さんも、結構、悠然と構えてますねぇ。心配ないがですか?山、こんな状況ですよ、土砂崩れとか、落石とかに巻き込まれちゅうかもしれんのに……」

「菜々子ちゃん、あんた、時々、土佐弁になるねぇ。はや、馴染んできたがやねぇ。うれしいちや。

 千代なら大丈夫よね。あの子は守ってくれる人が居るき」

「守ってくれる人?小政さんのこと?」

「ええ?わたしの噂ですか?」

 と、突然、テントの日よけカバーを捲って、小政が入って来た。目が充血している。一睡もしていないのであろう。不精髭が疎らに生えている。

「おう、小政、無事やったか。おまんのことやき、あの嵐の中でも、無理やり、千代さんを捜しに行ったかと思いよったぞ」

「社長、本当やったら、そうしたかったがです。わたしの命なんか、たいしたもんやない。泣くもんもそうは居らんやろうけど、千代さんは、そうはイカン存在ですき……」

「何、言いゆう!」

「そうですよ、小政さんが居らんなったら、ウチの姉ちゃん、ムッちゃんが大泣きしますよ。わたしも泣きます」

「菜々子ちゃん、ありがとう、冗談でも嬉しいワ」

「冗談やありませんよ。わたし、歳の差があるから、ボンも小政さんも恋愛対象外やけど、ふたりとも、大好きですき」

「おお、小政、おまん、やっぱり、オナゴにモテルのう。こんな別嬪さんで若い娘に好かれて、羨ましい、千代さんは諦めて、睦実さんで、手を打ちや」

       *

「おや、犬の声がしますね」

 そう言ったのは、星神社の社務所で熱いお茶をごちそうになっている、才蔵であった。才蔵は、明るくなる前に、ここに帰って来て、警察の捜索隊が到着するのを待っているのである。

「ほう、そうかえ?ワシには聞こえんが……」

「いや、はっきり聞こえました。警察犬かもしれません。様子を見に行ってきます」

「警察犬?まだ早いろう。ラジオのニュースで、朝、重機類が入って、捜索隊が出発する、ゆうたばっかりやき」

 禰宜の言葉を無視して、才蔵は表に出て行った。確かに、昨晩の災害の様子であれば、この星神社にたどり着くまでは、早くて、二時間はかかるであろう。それも、才蔵のように道なき道を選んでの話である。元の道を、人間が通れるようにするには、その三倍は時間を要するであろう。

 警察犬は、担当の警察官に引かれてやって来る筈であり、単独行動はありえない。しかし、先ほどの犬の声は、単独行動の犬のようであった。人の気配が感じられないのだ。

 才蔵は耳を澄まし、犬の声の方向を確認した。

「参道横の斜面。この前、死体を見つけた辺りか?」

 参道は、比較的、被害が少ない。少し下って行って、斜面の方に、足を運ぶ。その辺りは、山の山頂部分の土砂が崩れ落ちてきており、惨憺たる情景であった。

 倒木の上に、一匹の大きな洋犬――セントバーナードを少し細くしたような――が、地面を覗き込むように、首を垂れて、唸り声をあげていた。

 背中に背負っていた、荷物から、鈎縄を取出すと、その犬の側の、倒木にめがけ、鈎を絡みつかせる。その綱を頼りに、ぬかるむ土砂の上を、犬の傍まで近づいて行った。

「おう、ジョン君か!」

 去年の花火大会の時、才蔵はジョンに遭遇しているのである。

 ジョンも、才蔵を覚えていたらしく、しっぽを振る。

 才蔵は倒木の上を、器用に渡って、ジョンの側にたどり着いた。

「こ、これは、人間の死体や」

 ジョンの鼻先の土砂の中に、人間の手が覘いていた。身体の大部分は、土砂の下。生体反応はなさそうである。

「まさか、首のない死体やないやろうな?また、第一発見者になってしもうたか……」

 掘り出す手段がない。また、事件、事故の両方の可能性があり、警察の到着を待つことにした。

「ジョン、行くで」

 と、才蔵は、倒木の上を、飛び石のように選んで、義経の「八艘飛び」のごとく跳躍を続け、元の参道へ辿り着いた。

「おや、ジョン君、君は思ったより、身軽やね?もう、到着したか……」

 才蔵にわずかに遅れて、ジョンも、参道にたどり着いたのである。

「ワン」と、一回、ジョンが高らかに吠えた。

       *

 二時間弱後、警察の捜索隊の第一陣が到着した。長吾郎一家のうち、元林業に携わっていた連中、三人が先導してきた組である。樹木に、ロープを張って、それを伝って、最短コースを上って来たらしい。

「県警の野上です。才蔵さんですね?」

 と、若い刑事が尋ねた。野上刑事は金田一耕助姿の才蔵にしか会ってないのである。服装も違うし、長い髪も、顔も泥だらけで、別人のようでもあったのだ。

「はい、ご苦労様です。随分早かったですね。もう少しかかるものと思ってましたよ」

「いや、この方たちのお陰です。山長商会の方々で、元は林業に携わっていたとか、山のことは詳しいようで、危険性のない、木々がしっかり根を張っている場所を、選んで登ってきました。道はなくても、その方が速かったようですね」

「では、まだ本隊とゆうか、作業が出来る人数は揃ってないのですね?」

「作業とゆうと?」

「この上の、元は防空壕だった場所に、女性が閉じ込められています。その扉の前は、ほとんど、山肌が崩れていて、補強、或いは、大木でも倒して、道を作らないといけない状況です。それには、かなりの人数が……。それと、鍵が掛かっていて、番号式の鍵らしく、その番号がわからないのです。神主さん、家に居らんのですよ」

「ああ、番号ですね?それは、刻屋のボンから聴いていますよ。三一四だそうです」

「三一四?どうして、ボンが知っているのです?」

「なんでも、九官鳥からの伝達で、千代さんが知らせてきたらしいんですが……」

「九官鳥?そうか、小六の奴、菜々子お嬢さんの方へ飛んで行ったのか……。

 いえ、独り言です。それに番号が書いてあったのですね?」

「それが、暗号だったらしくて、最後に、ただ、数学の『π』の文字があっただけだそうです。それが鍵の番号だとは知らなかったらしくて、『誰かに、番号を尋ねられたら、三一四と答えてあげて』って、わたしと、坂本刑事に言ったのですが……」

(なんて親子だ。唯、一文字、「π」だけで、鍵の番号を伝え、それを解読するなんて。睦実お嬢さんが、石川の跡取りにしたがるわけや。こりゃあ、大変なライバルや……)と、才蔵が心の中で呟いていると、野上刑事が付けくわえた。

「それと、ボンが、もうひとつ、三一四は『ミツ・ヒ・シ』。つまり、三菱に通じているそうです」と……

       *

 後続の警察隊が、到着する間に、長吾郎一家の三人は山を登り、防空壕の扉が見える地点まできていた。

「あの、向うの木に、ロープを張って、それを伝って行くか?」

 と、三人の中で一番若い男が言った。

「いや、行くだけやない。怪我人が居るかもしれんし、オナゴやそうやから、ロープでは無理がある。あの木を倒して、橋にしよう。それが倒れたら、別の木をその横につなぐ。二本の木なら、オナゴを担いでも渡れるろう?」

「そいたら、チェーンソーがいるぜよ」

「ああ、トラックに積んじゅう。無線で連絡して持ってこさそう」

「神社にあるかもしれんき、訊いてみるか」

 三人は、こうして、作業の計画をし、一旦、社務所に帰って来た。

 禰宜さんに尋ねると、チェーンソーはあるらしい、燃料もあるとのことで、さっそく借りることとなり、三人は道具を背負って、再び、山を登った。今度は、才蔵も同行したのである。

「兄さん、身が軽いのう。山に居ったがかえ?」

 才蔵の健脚ぶりを見て、年嵩の男が尋ねた。

「はい、山奥育ちです」

 と、答えておいた。

 足場の良い処で、荷物を解き、チェーンソーのエンジンを掛ける。目標の木を、思いどおりの位置へ倒すのは、かなりの熟練がいるのである。

 まず、邪魔な木を倒して、隙間を作る。それから、倒すべき木に登り、邪魔になる枝を伐採するのである。

 それが終わってから、チェーンソーで伐り出すのであった。

 才蔵は、その工程を眺め、チェーンソーが木の根元を切り始めると、ひとり、姿を消した。防空壕に近い、木に登り、そこから、鈎縄を取出して、防空壕の上に生えている。雑木めがけて、それを放った。

 ロープの先の爪が絡んで、ロープが一直線になった。雑木は、揺れてはいるが、折れる心配はないようである。

 才蔵はロープを握りしめ、木の枝から、空中へ飛び出した。ロープが振り子のように弧を描いて、才蔵の身体を、防空壕の前に運んで行った。

 タイミングを見計らって、手を離す。上手く、扉の前のわずかな地面に着地できた。

「あいつ、無茶をするなぁ」

 と、長吾郎一家の若い男が、それを目撃して言った。

「ありゃあ、忍者かもしれんな。鈎縄なんぞ、持っちゅうところをみると……」

 と、年嵩の男がズバリ、推測し、的中させていた。

 才蔵は、鍵の番号を「三一四」に合わせてみた。カチッと音がして、南京錠が外れた。

「よしっ」と、心で叫んで、扉を力いっぱい開いた。

「千代さん、助けに来ましたよ!」

 才蔵は、市川雷蔵ではなく、中村錦之助になっていた。

「才蔵さん、待ちよったよ。エライ遅かったねェ。小六はちゃんと着いた?」

「それが、小六は、高知の、菜々子さんところへ飛んで行ったようです」

「まあ、来てくれたがやも、感謝するワ。それより、京子さんが怪我しているのよ。命は別条ないろうけんど、早う、病院へ連れて行かんと……」

「そ、それが、外は崖崩れで、すぐには出られません。今、長吾郎一家の方が、木を切って、橋を作っています」

「崖崩れ?何かあったが?」

「台風並みの雨風で、周りはひどい状況です」

 千代が慌てて階段を駆け上がり、扉の外を眺めた。

「何、これ……?」

「あっ、千代さん下がってください、木が倒れてきます」

 才蔵が、千代の腕を引く。チェーンソーで切られた、大木が、眼の前に倒れてきたのである。

 大木は狙い通りに、扉の先の狭い場所に倒れてきた。木の先はまだその向こうまで、届いている。

「おおい、兄ィさん、大丈夫か?木が動かんように、その扉に括りつけてくれるか?ロープ放るきに」

 木の根元に居る、年嵩の男が、千代をしっかり抱いている、才蔵に向かって言った。

 若い男が、ロープを抱えて、倒木の途中まで、渡って来て、ロープの束を才蔵に投げかけた。その次に、革のケースに入った、鉈が渡された。

「要らん枝を切りよってよ」

 と、若い男が言った。

 才蔵は、預けられたロープを倒木に巻きつけ、防空壕の扉に固定する。余ったロープで、先の部分を、頑丈な岩や樹木に巻きつけて、倒木の橋を作って行った。

 長吾郎一家の三人は枝を払い、丸太の橋を完成させる。

「千代さん、待っててください、先に京子さんを運びます」

「うん、お願い、わたしは元気やから。才蔵さんの顔見たら、勇気百倍や」

「ち、千代さん……」

 才蔵の千代を呼ぶ呼び方が、「千代姐さん」から、「千代さん」に変わっていることに気がついた。数年前の小政同様に……。

「あっ、冗談やからね」

「そ、そうですよね。小政さんなら、勇気百倍でしょうけど……」

「何、言いゆう。そこは同じよ。才蔵さんも小政さんも、大事な弟やもん」

「はい、それも冗談ですよね?冗談でも、うれしいです。坂本刑事の気持が良くわかりました」

「えっ?勇さんと同じ気持ち?嫌やワ、そいたら、才蔵さん、わたしに惚れてるってことやないの……?」

「はい、惚れてます。好きやなかったら、こんな状況の中、助けに来ませんよ。おっと、これも冗談です。お返しです」

 では、と才蔵は京子を抱え――お姫様だっこのように――不安定な丸太の橋を身軽に渡って行った。

「兄ィさん、まだ、補強が済んでないぞ」

 もう一本、木を倒して、繋ぎ、強度を確保しようとしていた、長吾郎一家の年嵩の男が呆れて言った。

「大丈夫でしたよ。充分渡れる強度でした」

「いや、グラグラで、不安定やろうが?」

「こうして渡ってこれたんですから。この人を早く、病院へお願いします。もうひとり、女性が居りますから、迎えに行きます」

 才蔵は、若い男に京子の身体を預け、ふたたび、丸太の橋を渡って行った。

「千代さん、行きましょう。おんぶにしますか?だっこにしますか?」

「ううん……。お姫様だっこ……」


       22

 警察の本隊が到着したのは、それからさらに四時間後。その中に、憔悴気味の小政の姿があった。

 最初は無理をして、別動隊の斜面を這い上がる方にいたのだが、徹夜の身体、頭脳派の彼には、やはり無理があった。道路の通行可能な状況を待って、四輪駆動のジープに便乗してきたのである。

「ち、千代さん……」

 社務所の中で寛いでいる、千代の顔をみて、小政は涙目で、そう言った後、千代に抱きついて来た。

「こ、小政さん、人が見ゆうよ。嬉しいけんど、恥かしいき……」

 そんな二人の様子を見て、才蔵は社務所を出て行った。

(やっぱり、小政さんには勝てんか……)と、陽が差してきた空を仰ぐ。

「ワン」と、足元で犬の声がした。

「おお、ジョン君、どうした?えっ?あっち?あっ、イカン、死体が埋まってたんやった」

 ジョンがしきりに、参道横の斜面の方に向かって首を向ける仕草に、土砂に埋もれていた、死体のことを思い出したのである。

 すぐに、坂本刑事に知らせる。

 驚いた勇次は、警察官を数人連れ、現場へと急いだ。

 土砂を取り除く前に、倒木で、橋を作り、死体の傍まで近づく。

「男の死体のようですね?」

 と、勇次は傍にいる才蔵に問いかけた。

「そのようです。土砂崩れの、事故なのか、はたまた、首なしの死体なのか……」

「嫌ですよ、連続殺人は……。

 よし、まず、写真、撮っとけ。それから、土砂を除けて、掘り出すんや」

 周りの警官に命じて、勇次は一旦現場を離れる。作業の邪魔にならないように配慮したのである。

「一体誰の死体でしょうね?」

 と、参道まで帰って来たところで、勇次が才蔵に尋ねた。

「千代さんの話では、防空壕跡に閉じ込められたのは、大道芸人の団長、大山と名乗る男の所為だと言ってましたから、或いは、大山かと……」

「そうですよね。いったい、この事件、どうなってるんやろう?僕にはさっぱりわからんがです。金田一の才蔵さんはわかりますか?」

「いやぁ……」

 と、才蔵が、泥に汚れた長髪を掻きまわす。フケでなく、泥が飛んでくる。

「わたしにもさっぱりです。坂本刑事より、探偵には向いてないことがわかりました」

「才蔵君、それは、勇さんが、探偵失格、言いゆうのと同じやぞ」

 振返ると、小政が千代の手を引いて、参道を降りて来ていた。

「あっ、小政さん、千代さん、どうしたがですか?」

「山を降りるのよ。くたびれたし、下で、お母さんや顔役さんが、待ちゆうらしいき。ドラ息子もね……」

「才蔵君はどうする?警察のジープで積んで行ってくれるらしいぞ。死体と、首が出たき、また、応援部隊が上がって来るらしい。この辺りを掘り返すことになるがやろうね」

「わたしは残ります。探偵として、死体の確認がありますから」

「へえぇ、やる気十分やね。そいたら、わたしらぁは先に降りるよ。勇さん、後で、報告してよ。わたしも勇さんに知らせることがあるき」

「そ、それって、事件解決、ってことですか?」

「うん、今までの事件はね、ほぼ、解明できたよ。裏付け調査を頼むと思うし、実験もしてみたい……」

「実験?何ですそれ?」

「お椀の話よ……」

       *

 千代は、翌日の朝まで、佐代子の家の日本間で、身体を休めていた。

 昨日、山から下りると、お寅さん、顔役さん、菜々子に、息子が笑顔で迎えてくれた。

 京子は、いち早く、市内の病院に運ばれて、手当てを受けている。何者かに、丸太のようなもので、後ろから殴られ、首を打ったらしく、声が出なくなっていたのである。幸い、骨折はなく、数か所の打撲で、二、三日の療養で済むらしい。

 団長の行方はわかっていない。無線で、山裾に待機していた、山尾警部補に連絡し、非常線を張ってもらっているが、見つかっていないようである。

 顔役さんたち、井口探偵団――マッちゃんも含めて――は、安興寺家に泊ることになった。小型のトラックを、小政が運転し――マッちゃんは腰痛で運転できない状態――小松家の前で別れた。

 昼前に、佐代子夫婦が、農作業――一昨晩からの風雨の被害も多少あったため――から、昼食に帰って来た。佐代子の夫は、鼠色の作業着姿である。その胸に、農協のマーク、「協」の字を遍の「十」の下から、旁の左の「力」の下まで、時計回りの丸で囲み、「十」の上に、稲穂の模様を散らした「ロゴマーク」が刺しゅうされている。

「その作業服、農協の?」

 と、千代が尋ねる。

「そうや。農協の組員に、一着はくれるけんど、あとは、購入するんよ。安うに手に入るき……」

 と、佐代子が答える。

「そしたら、この辺の農家さんは、皆、持ってるんやね?」

「うん、全員持ってると思うで、どうかしたが?」

「佐代子さん、確認したいことがあるのよ。ちょっと、内緒の話……」

「ワシ、先に飯食うて、また、田んぼへ行っとく」

 と、亭主は気を利かせて、台所へ消えて行った。

 千代と佐代子は、反対側の、座敷の前の縁側に腰を降ろす。

「何?内緒の話って?」

「佐代子さん、去年、台風の前に、安興寺の次男、芳文さんが帰ってきてたの、知ってたでしょう?駄目よ、正直にゆうて、ちゃんと、裏は取ってるのよ。わたしは、探偵の真似ごとはしてるけど、警察やないし、逮捕権なんて持ってない。ましてや、従妹のあんたを、罪人にはしとうない。わかっていることやけど、あんたの口から、正直に話してもらいたいんよ。そしたら、悪い人間だけ、裁けるはずやから……」

「千代さん、あんた、本当に『顔回の生まれ変わり』やったがやね?」

「違う、顔回やない。唯の旅館の若女将よ。けど、悪いことをしたら、その罪は、償わんとイカンと思っている。悪どい輩が得をして、正直もんが損をするような世間は嫌いながよ」

「うん、わたしも嫌いや。正直にゆうわ。確かに、去年、芳文さんが帰ってきて、ウチとこに寄って、『星神社の防空壕跡に潜んでいる。食事を運んでくれ』って頼まれた。お金もくれたき、皆には黙って、世話をした」

「あの台風の後、姿が見えんなって、おかしいと思わんかった?」

「台風の後、防空壕へ行ったら、置き手紙があって、『用が済んだ、一旦、帰る』ってあったから、台風が酷うなる前に、村を離れたがやと思うちょった。千代さんらぁの話を盗み聞きしてたら、去年の死体は、芳文さんらしい、ってゆうてたから、まさか?って、思ったんよ。ご免ね、盗み聞きして。安興寺の絹さんと芳和さんの両方から、頼まれてしもうて、お金くれるし……」

「いいのよ。別に、秘密の話はしてないしね。安興寺は依頼人さんやから。でも、そういえば、探偵料はもろうてないなあ、タダ働きか?

 まあ、それより、確認したいことがもうひとつ。あなた、着替とかも差し入れた?」

「うん、ウチの亭主のもんを……」

「じゃあ、さっきの農協の作業服は?」

「うん、新しいのあげたよ。それが?」

「去年の死体が、慎作と間違われたのは、その作業服の所為よ。慎作もあの日、同じ作業服着てたのよ。だから、土砂に埋もれてた死体は、服装からも、行方不明の『慎作』ってことになったのよ。土砂に埋まった死体の、首は切れても、服までは替えれんもんね」

「首を切る?あれは、土石流の所為で、首が飛んだんと、ちゃうの?」

「違うわ、首は、洞窟の奥の祭壇に飾られてたから……」

       *

「ち、千代さん、た、大変です」

 警察のジープを走らせて、小松家のニワトリを驚かせながら、駈け込んで来たのは、勇次である。佐代子が農作業に出て行った後である。

「どうしたの?そんなに慌てて?また、首なし死体でも出た?」

「く、首は付いてましたけど、死体がもうひとつ……」

「才蔵さんが見つけた、参道脇の死体やないが?」

「それともう一つ出たんです。つまりふたつ、いや、ふたりと言わんと、死んだ人に失礼か……?」

「ええっ?ふたつ?誰と誰よ?」

「最初に見つかった、参道脇の死体は……」

「団長やった?」

「いえ、外れました。友造さんです。けど、ふたり目は、団長だと思います。いや、首はあるんですが、ちょっと、人相が、違っているようで……」

(人相が違うのは、多分、変装していたからや。その変装が、解けたんや……)と、千代はすぐに察していた。

「友造さん?何で友造さんが、星神社に……?いや、あり得るか、これで、辻褄が合う。わたしの仮説は、間違ごうてなかった……」

「えっ?友造さんが、星神社に行く、理由があったがですか?」

「うん、首を防空壕の奥の祭壇に運んだのは、友造さんやったがよ」

「えっ?えっ?えっ?じゃあ、友造が、やっぱり、殺人犯やったがですね?よし、署長に報告や!」

「勇さん、違うでェ。ああぁ、行ってしもうた。誤解してるわ。友造さんは、首を運んで飾っただけやのに……。切ったんは、ひとつだけや……」

 勇次には、千代の言葉が届かなかった。ジープは矢のように、安芸署に向かって行ったのである。

「勇次さん、報告に来たんですね?」

 と、音も無く、千代の背後に才蔵が現れた。

「ああ、びっくりした。才蔵さん、わたしの前には、忍びのままでこんといてよ」

「あっ、御免なさい。習慣でして。それより、勇次さんから訊いたでしょうが、友造さんと、大山という男が、土砂の中から発見されました。もちろん、死体で……」

「どんな状況?殺されたの?それとも事故?」

「まだ確定はしていませんが、事故だと思います。ただ……」

「唯、何?」

「これは、わたしの勘、いや、感覚ですが、二人は争っていたんではないかと……」

「争っていた?どっかに、傷でもあったの?」

「いえ、特に、目立った傷はありません。ただ、死に顔が、土砂による、窒息死ではなく、争いの中での、事故の発生、そんな感じがするんです。これは、わたしだけが感じることです」

「えっ?つまり、菜々子ちゃんが、見えないもんが見えるみたいに、才蔵さんは、死に顔から、死因が読めるの?」

「まあ、近いと言えば、近いのでしょうが、死因、というより、死の直前の状況……。感覚の問題ですから、正しいとは……」

「過去にもあった?そうゆう経験……」

「はい、脳卒中で死んだとされていた老人が、実は、毒を飲まされていた、とわかったことがあります」

「そうやったら、確かよ。隠れた才能よ。石川家には、そういう遺伝子があるのよ。特殊能力の……」

「そうでしょうか?菜々子お嬢さんが、特別なだけと思いますが……」

「まあ、それは置いとこう。それで、団長、大山の死体は、何処で、どんな状態で、見つかったの?」

 千代は、大山と名乗る男が、芳房だと名乗ったことを、誰にも話していない。本当に芳房だったのか、確定ではないのだ。騙されている可能性もある。やっぱり、「金時」であった可能性も捨てきれないのだ。但し、千代は九十パーセント以上は、芳房と思っている。あの「土佐弁」は、とっさに出たものだった。金時が、土佐人だった可能性もあるにはあるが、それは、低いと思われる。

「大山の死体は、友造さんの死体のもう少し、上の方に、同じく、土砂に埋もれて、完全に埋もれて、いました。同じ時に起こった、土砂崩れに巻き込まれたのは、間違いありません。落雷もあったようですし、土砂が同じ、山の頂上付近から、一気に崩れてきた跡が残っていましたから……」

「ふたりが、争っていたところへ、上から土砂が崩れ落ちて来て、逃げれなかった、そうゆう状況ながやね?」

「はい、そう感じました。わたしは両方の死体が掘り出されるところを見てますから、死体の倒れ方とか、ふたりは、それほど離れていなかったと思います。見つかった時間帯が、離れていたので、別々に考えられてしまいそうですが……」

「そうよ、例の首なし死体も、発見時間がかなり離れてしまったから、別々の、時間帯に殺人が行われたと思われている。ほとんど、同時刻に起きてるはずなのにね」

「えっ?慎作とピエロのことですか?あれは、時間帯が、離れているんじゃあないんですか?」

「才蔵さん、じゃあ、慎作はいつで、ピエロはいつ?」

「ええと……、慎作はあの、大雨の中ですよね、通夜の晩の。ピエロはその前でしょう?多分、お通夜が始まる前。でないと、友造さんには殺せませんよ」

「才蔵さん、友造は、殺人犯ではないのよ。首を切ってはいるけどね、ひとつだけ……。それと、慎作が殺された時刻、間違ってるよ。その時刻には、とっくに殺されていたはずだから……」

「えっ?でも、お通夜の晩に、友造さんと争っていたでしょう?その後で殺されたはずですよね?」

「才蔵さん、今夜、皆をここへ呼んで。警察関係は、駄目よ。探偵団の連中だけ。息子も、しゃあないか……」


       23

 その夜――と言っても、七時過ぎ――小松家の座敷に井口探偵団が集まっていた。座敷に、長テーブル――座卓――が置かれ、その周りを囲んで座っている。テーブルの上には、何もない。お茶もないのである。

「千代さん」

 と、佐代子が廊下から声をかけた。佐代子はメンバーから外されている。

「警察のひと、ゆうてるけど、ヤクザやと思う。千代さんに会いたいって……」

「ヤクザ?ヤクザに知り合いは居らんけど、どんな人?」

「見るからにヤクザよ。高そうな服着て、サングラス。髪も坊主に近いし……」

 佐代子は、声を落として、気味悪そうに言った。

「おい、おい、ヤクザやない、警察官や、言いゆうろうが。非番やき、手帳は見せとうなかったがよ。私用やし……」

 と、足音を響かせて、男が廊下を渡って来た。

「あっ、杉下さん」

 バーバリーの夏仕様のスーツ、レイヴァンのサングラス――夜は外せよ、と突っ込みたいくらいの――お馴染の格好で、元、県警、○暴係、今は、室戸署の刑事課課長、杉下警部の登場である。

「その髪型は?」

 と、千代が尋ねたのも無理はない。杉下警部の頭は、ほぼ、スキンヘッド、お坊さん頭であった。

「ああ、これかえ?」

 と、右手でサングラスを外しながら、左手で、頭を撫でる。

「室戸は風が強うて、しかも、潮気が凄うて、髪が傷むがよ。ほやき、傷む前に、切ったがやけんど、中途半端は嫌いやき、ここまで、やってしもうた。どうや、若女将、似合うちゅうかえ?」

 似合い過ぎて、怖い……。

「えっ!ええ、よう、似合ってますよ。貫禄ありますし……」

「そうかえ?若女将にそうゆわれたら、自信がつくワ!」

 いや、変な自信、つけんといて欲しい……。

「ところで、どういたがです?非番や、私用や、ゆうてましたけど……」

「そうよ、今日は私用よ。若女将が、大変やったと訊いて、居ても立っても居れんかったがよ。まあ、無事やったと訊いて、安心したけんど、一回顔を見んとイカンと思うて、今日の午後から、明日は非番やき、来てみたがよ」

「まあ、わたしを見舞に?それはありがとうございます。けど、その『若女将』は辞めてください。千代でエイですき」

「いや、それがイカン。若女将を名前で呼ぶと、どうも、女房に悪い気がして……。その、決して、浮気やないんやが……、うん、イカン、イカンがよ……」

(あらあら、ここにも、千代姐さんのファンが居るんや……)と、菜々子は呆れていた。

「けど、困ったなぁ、警察関係者はお断りの席なんやけど……」

「いや、若女将、今日のワシは、警察官やない。探偵団のオブザーバーや。ここで訊いたことは、絶対口外せん。これは約束する!」

「エイですよ。それに、杉下さんに、お頼みしたいことがありますき、入ってください。

 ほいたら、始めますよ。まずは、小政さんから、警察の見解について、報告があります。その後で、ちょっとした実験をして、わたしの考えを訊いてもらいます」

 では、小政さん、と小政に視線を向ける。

「はい、今さっきまで、安芸署に居りまして、警察の事件に対する結論を訊いてきました。警察は今回の連続殺人事件を、友造と、大道芸人の団長、大山哲夫の共同犯行と結論し、発表するそうです。大山が主犯格、友造が共犯という、図式です。つまり、毒殺は、友造、首のない死体は、大山の犯行ということです。動機は、もちろん、三菱の隠し資産を狙っての犯行という結論です」

「それって、勇次さんの報告を受けてのことやろうね?」

「ええ、勇さんが、友造が防空壕付近に居ったのは、三人の首を隠した本人が、見つけられることを恐れて、様子を覗っていたんやないかと。そしたら、山尾警部補が、慎作殺しは、友造にはできん、大山や、って言って、署長が、そうか、二人の共謀犯罪か、って結論が出たそうです」

「まあ、二人とも死んでるし、死人に口なし、犯人死亡で、捜査は楽やもんね。友造さんは、少しは犯罪に係わっているし、大山は……、偽名やし」

「けど、真相は違いますよね?友造は、慎作の首切って、死体――胴体部分――を星神社の斜面に埋めた。首を洞窟の奥に飾った、それだけですもんね」

「おや、小政さん、真相を突き止めたが?」

「いえ、『車井戸はなぜ軋る』の謎が解けただけです。それと、あの通夜の晩の、片腕の男の登場の仕方が、不自然やったことに気がついて。あれは、友造の一人芝居やったがやと、気付いたんです」

「流石、ホームズさんや」

「悔しいけど、千代さんからは、大分遅れての回答ですけどね。

 あの通夜の晩、『誰や』って声がして、争っている音がしたでしょう?その時、稲妻が走って、片腕の男の姿が見えた。けど、その争っていたはずの、友造さんは、そこから、かなり離れた、墓場の手前に倒れていたんですよ。瞬間移動でもせん限り、有り得ない、シチュエーションですよね?つまり、あれは、友造の一人二役。最初に片腕の男の扮装で、姿を現し、服を脱ぐ。殴られて気絶してた振りして、登場する」

「けど、何で友造が、そんな面倒くさいことする必要があるの?」

 と、菜々子が尋ねた。

「アリバイを作るためよ」

 と、千代が答えた。

「そうです。アリバイを作るため、片腕の男、慎作はその何時間か前に殺されていた。けれど、通夜のあの時間まで生きていた、と判断されれば、何人かの犯行は不可能とみなされるんです。

 まあ、謎解きは後ほど……。友造は夜中に死体を遺棄します。おそらく、安興寺家の馬を使ったのでしょう。そして真夜中に帰ってきて、馬を洗った。車井戸を軋ませて……」

       *

「さあ、ここで、実験開始よ」

 と、千代が言った。

 千代はまず、お寅さんを、テーブルの上座の一角に座らせる。そのテーブルのお寅さんから見て、右側の列――障子があり、縁側に面した側――に小政を座らせ、その正面に、坊主頭の杉下警部、その隣に、大政を座らせた。

(ははぁん、この前の、絹ばあさんの、祝宴の再現か?お寅さんが、絹ばあさん役、わたしが、芳和、杉下さんが、同じ坊主頭の住職、大政さんが神主役か……)と、勘の良い小政はすぐ理解できた。だが、他のメンバーはわかっていない。

「他の人は隣の座敷へ入って。順番に、わたしの指示に従って、ある行動をして欲しい。指示されたことを遂行するためには、どんなことをしてもいいわ。独自の判断でして頂戴」

 千代の指示で、四人以外は、隣の座敷に入る。千代は元の座敷で、舞台を整えていた。

「最初は、マッちゃん。廊下から出て、障子の、小政さんの前に居て、そこから、わたしの指示がスタートするから」

 千代に言われた通り、マッちゃんが、「ごめんなすって」と、右手を前に出しながら、腰をかがめて、廊下に出る。

「何が始まるのやろう?」

 と、菜々子が、隣にいる、S氏に尋ねた。

「知らん方が、先入観がのうて、エイがやけんど、こっそり教えてあげる」

 と、S氏は菜々子の耳元に唇を寄せて、これから行われるであろう、実験について、持論を語った。

「えっ?おわ……」

「しぃっ、内緒、内緒……」

 と、人差し指を、唇の前に立てて、S氏が菜々子の言葉を遮った。

 マッちゃんは、言われた通り、廊下から、障子を開けて、中に入り、小政の背中の後ろに腰を下ろす。小政の肩越しに、テーブルを見ると、大きな皿が四人の前に二つ、小さな皿、お酒の一合徳利が、それぞれの前に並べられていた。

 障子が静かに開いて、千代がお盆をマッちゃんに差し出す。盆の上には、二つ、漆塗りのお椀が乗せられている。あの日の――絹ばあさんの祝宴の日の――豪華なお椀ではない。一般家庭でも使われる程度の物である。見た目は同じ物のように見える。

「これを、杉下さんと、大政さんの席に配って。中身は入ってないけど、熱いお吸い物が入っていると思ってね」

 千代の差し出したお盆を、そのまま受け取って、マッちゃんは、お寅さんの後ろを廻り、杉下警部と、お寅さんの間に、お盆を降ろし、右側のお椀を、杉下警部の、右側に置いた。

 そして、お盆を持ち――残ったお椀をお盆の中央に寄せて――杉下警部と大政さんの間の隙間から、手を伸ばして、お椀を、大政さんの右側に置いた。

「はい、オッケイ。マッちゃん、ご苦労さん。大政さんと代わって。大政さんは、隣の部屋で、控えていてね。今のお芝居は、内緒よ」

 千代に言われた通り、マッちゃんと大政が入れ替わり、大政が隣の部屋に移る。

 千代は、テーブルに置かれた、お椀の蓋を取る。杉下警部の前――やや右側――に置かれたお椀の中には、「毒入り」と、赤い文字の書かれた、札が入っていた。大政――今はマッちゃん――の席のお椀には、「毒なし」と、黒い文字の札が入っていた。

「次は、顔役さん、お願いします」

 こうして、マッちゃんと同じ指示を、顔役さん、菜々子、才蔵、S氏、大政と順番に遂行させた。

「ワシもやるぞ、若女将」

 と、大政が終わった後、杉下警部が立ちあがった。

 千代は笑いながら、同じ指示を出し、杉下警部の動作を見守っていた。

 合計七人が指示通りのお椀をテーブルに運ぶという、任務を遂行した。但し、全員が、マッちゃんと同じ動作をしたわけではない。お盆を片手に持ったまま、片手で配った者。お盆を、二人の背後に置いて、お椀を配った者。両手を添える者、片手で差し出す者。それぞれ、微妙に手順は違っていた。

 だが、杉下警部の前には、「毒入り」、大政、マッちゃんが座っていた席には「毒なし」のお椀が、必ず、置かれていたのである。

「どうでした、お母さん?」

 と、みんなの動作を見ていたお寅さんに、感想を訊いてみた。

「アカンね。一番、作法に叶うちょったがが、孫とは、情けないきに!」

「いえ、別に、作法の審査をして欲しかったがやないですけど、お椀の位置、つまり、お吸い物は、お客様の右側に置く、また、上座のひとから配る、これは、みなさん出来ていたと思います」

 千代がそう言った時、開けたままの障子の外から、

「何しゆうが?おままごと?」

 と、可愛い声がした。佐代子の娘、俊子である。

「わたしにもさせて」

「いいわよ、やってみる?」

 と、千代は、俊子に同じ指示を与えた。

 俊子は、小政の横にちょこんと座り、お盆をテーブルに置くと、大きな皿――さわち料理の皿に見立てた――越しにお椀を配った。結果、見事、マッちゃんの前――正面――に「毒入り」のお椀が配られたのである。

「こら、お客様の邪魔したら、イカンろうがね」

 と、佐代子が、廊下から、慌てて、娘を叱りに来る。

「いいのよ、そうだ、佐代子さんもやってくれる?ちょっとした実験なんやけど……」

 千代の言葉に、怪訝そうな顔をして、

「難しいことは、ようせんよ」

 と、いいながら、佐代子は受諾の意を表した。

 千代が同じ、指示を出す。但し、小政の横に、菜々子を座らせ、俊子が行った、テーブル越しの配膳は出来難いように設定した。

 佐代子の顔色が変わった、と、千代以外にも、お寅さん、S氏は感じたらしい。もうひとり、杉下警部も、警察官としての勘が働いていた。

 千代からお盆を渡された佐代子は、ぎこちない動作で、杉下警部と、マッちゃんの背後に廻り、お盆を置く。少し迷ったように、間を取り、二人の間から、右側のお椀を、左側にいる、マッちゃんの前に、左側のお椀を、杉下警部の左前に置いた。

「おい、おい、ワザとやないかえ?」

 と、すぐそばに居る、杉下警部が佐代子に言った。

 佐代子の顔色が、さぁッと、青ざめるのがわかった。

「はい、結構。佐代子さんありがとう、もうエイきね」

 と、千代が、杉下警部の追及を、やんわりと外してあげた。

「ほら、俊子、邪魔したらイカン、部屋へ帰るよ」

 と、娘の手を引いて、佐代子はあわてて、部屋を出て行った。

「若女将……」

 と、杉下警部が咎めるように言った。

「杉下さん、今は、刑事さんやないはずですよね?佐代子さん、やましい処はあるけど、殺人犯やぁ、ありませんき。それに、逃げたりはしません。しばらくは、放っておいてあげてください。彼女は、知らんまに、利用されてただけですから。但し、お金目当てのキライはありますけどね……」

 千代はそこで一旦話を停め、お盆をテーブルのスペースに置く。そして、二つのお椀の蓋を取る。

「おわかりでしょうけど、実験の結果、最後のお二人以外は、毒入りが杉下さんが座っていた場所、つまり、住職さんの場所に置かれたのです。俊子ちゃんは、おままごと、と思って、子供らしく、手間のかからない方法を取りました。佐代子さんは、わざと、間違えました。あの日、住職さん、或いは、神主さんを毒殺しようと計画した人物は、どうでしょうか?お椀を配膳するのは、わたし。わたしが、曲がりなりにも、旅館の若女将、と知っていたら、必ず、毒入りの方が、住職さんに渡ると、わかっていたのではないでしょうか。つまり、確率は、二分の一ではなく、九割以上、いや、ほぼ、百パーセントと思っていたでしょうね?」

「そいたら、若女将、そのお盆を、若女将に渡したのは、佐代子やろうが、犯人はやっぱり、佐代子やろう?」

「だから、佐代子さんは知らんまに、利用されちょった、とゆうたがです。真犯人に、お盆を、そのまま、わたしに渡して、住職さんと神主さんに配るようにと、頼まれたがです。あのお椀が、二つだけ、豪華やったのは、他のもんと区別するためやったんです」

「そしたら、その、真犯人は……」

「はい、杉下さんの想像どおりのひとです」

「いや」

 と、反論したのは、最年少のS氏であった。

「母ちゃん、その人は、もう座敷に座っちょった。もうひとり、駒がいる。証拠がないき、そこは、もうひと押し、追及せんと、結論が出せんよ。母ちゃんのゆう人が、黒幕なんは、確定的やろうけどね?」

「流石、ボンや。そのとおりですよ、千代さん。お椀に毒が入っているのを知ってる人物が、もう一人居るはずです。佐代子さんに、依頼をした人物が……」

(あらあら、小政さん、ウチの子とコンビ組むと、俄然、ホームズ色が強うなるわ。そういえば、今までの事件も、ウチの子とのコンビばっかりやった。何か、前世にでも係わりがあるがやろうか?)と、千代は事件と関係のない、想像をしてしまった。

「佐代子おばちゃんに、訊いたらエイろう?誰から、お盆を受け取って、母ちゃんに渡すよう頼まれたか。僕が訊いたら、意外とあっさり答えてくれると思うで。おばちゃん、僕のこと、可愛がってくれてたし……」

「そうね、あんたになら、素直に喋るかもね。

 さて、ここから、三つの事件の真相よ。証拠はないから、状況判断、仮説の域は出てないけど、ほぼ間違いなし。杉下さんにお願いしたいのは、その、証拠固め。物的証拠は難しいにしても、証言や、状況証拠を集めて欲しいの……」

       

 その後、千代が事件の真相を語る訳であるが、読者の方々、その真相は後ほど、別の場面で披露される予定である。是非、ここで、その真相を、推理願いたい。但し、先に、千代が言った言葉を思い出して欲しい。この事件の証言には、嘘が多い、ということを……。犯人のフェイク――偽装――が散りばめられているということを……。

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