破壊衝動
虹鳥
破壊衝動
例えば、負の感情を抱くのは簡単だ。怒り、嫉妬、失望、虚無感、あるいは殺意とか。例えばそれを、この目の前に座る初老の男にぶちまける。左手に握った、この小洒落たソースの付いた銀色の小さな凶器を振り下ろしたりなんかして。いやいや、こんなハゲ隠しのキノコ頭をした、横文字羅列爺を一人殺ったくらいで、豚箱にぶち込まれる方が屈辱的だ。
そんなことより、ここのワインくそ不味いんだけど。女の思考が唐突に引き戻される。
「だから、その使えない部下に言ってやったんだよ、そんなんじゃプロジェクトにアサインされないよ、ってね。あいつの為を思っての助言だというのに、最近の若者は価値観まで貧弱だから困るよ。その点君みたいな聡明な人は話がすぐ伝わるから、って君、聞いてる?」
やべ、怒らせたか。危機感から、女は咄嗟に笑顔を浮かべた。
「いやいや、私なんてそんな。タダヒコさんの部下を思う気持ち、私は尊敬してますよ」
歯の浮くようなセリフを、腹の底で舌打ちをしつつ二枚舌で紡ぐ。ほら、そんな馬鹿みたいな合いの手にも、あっという間にだらしなくニヤけちゃって。気色悪。女の空想の中では、テーブルクロスの下で足を伸ばし、鋭利なヒールの先でこの男の脛を蹴り上げる。
とはいえこの男は、食事だけでも20万は固いので、無下に扱うわけにもいかない。
「それよりね、君。今日この後何か予定はあるかい? 今日は君の誕生日だろ? ここのスイートルームから見る夜景が綺麗なんだ。実は今日、苦労して予約してあるんだけど」
紳士的な態度と裏腹に、下心の透ける下卑た目つき。苦労して、とわざわざ強調するのがわざとらしい。女は聞こえなかったかのように笑ってグラスを傾ける。あー、はいはい。こいつもここまでか。余裕っぽく笑いながら、その脳内は素早く回転して計算を繰り出す。ここまで来たら、太客だろうがなんだろうが縁の切り時だ。代わりは掃いて捨てるほど居る。あと誕生日、本当は再来月なんだけど。
「えー、嬉しい。でもごめんなさい。今日は母親と姉と一緒に、オールで映画観る約束してるから帰らなくちゃ。心配されちゃう。見たかったなぁ、夜景」
だから早く帰れ、キノコ頭。女の笑顔の奥では、いつも異なる言葉が同時に放たれていく。よくもまぁ、家族構成やら全てにおいて嘘をこれだけつけるものだ。女は我ながら自身の二枚舌っぷりに感心する。
「だからごめんなさいね。そうだ、せっかくなら奥様とお過ごしになったら? そんなに素敵な夜景が見えるなら、きっと喜んでくれますよ」
明らかに失望する対面のキノコ男に、タテマエの皮肉をぶつけてそそくさと席を立つ。
「ごちそうさまでした、今日はありがとう」
傍らのハンドバッグを掴み、優雅に微笑んで背を向けた。何か言いかけたキノコに、腹の底で唾を吐く。さよーなら、金づる。
女はヒールのかかとを鳴らしつつ自動ドアをくぐった。夜風が膝にしみる。こんな脚出して来るんじゃなかった、と天を仰ぐ。
「あーあ、くそ」
ハンドバッグから取り出した財布の中身を確認した。諭吉が20枚。
「はぁ、だっるい」
丁寧に巻き下ろした長い髪が夜風にふわりとなびく。つい先程までの笑顔の余韻一つ無い女は、気怠そうに呟き、駅へと歩いて行った。攻撃的なヒールの音が、地面を突き刺す。
「自分、何でこんなことしてんだっけな」
電光掲示板が、電車の遅延を知らせた。信号点検の影響で、ダイヤが大幅に乱れているという。無事に目的地に到着できた女にとってはなんら不便は無かったが、手元の端末に向けて舌打ちをした。
「今日会えますか?」「元気? 会いたい」「なんで連絡くれないの」。狭い液晶を埋め尽くす通知の数々。そのどれもが煩わしく、女は改札階へと向かうエスカレーターの表面を、鋭利なヒールで苛立ちと共に叩きつけた。強請り倒して手に入れた白のショートブーツ。ヒール部分が折れたらまた誰かに強請れば良い、と女はあっけらかんと考える。大体、良い鴨にされる事をわかっていて向こう達も皆接触して来ているので、互いの需要と供給になんら問題は無い。
手元の端末を片手で操作しつつ、カツカツと近寄りがたい音を立てながらエスカレーターを降りて改札機へと歩いて行く女。この人は金が太いので丁寧に返信、この人はケチだから既読スルー、こいつは面倒臭いから適当にお愛想振り撒いておこう。女の指先が忙しなく自在に画面上を滑る。
画面に夢中になっていたせいで、改札機の一歩手前で人とぶつかった。
「あ、すみませ」
女が顔を上げ、軽い謝罪を口にするより早く、一瞬のすれ違いざまにぶつかった人物の手が、女の胸元に触れた。それは明らかに意図的で性的なものだった。
「は?」
女が正確に状況を把握した時には、既にその人物とはすれ違い終えていた。女は素早く振り返る。グレーの酷く薄汚れたリュックサックが目に入った。
鳴り止まない通知の煩わしさと一連の出来事への苛立ちで、気づけば頭で考えるより先に声を上げていた。
「お前っ!!」
怒鳴り声に気がついた人物が微かに振り返り、瞬時にホーム階へと駆け出す。何の特徴も無い、おまけに金も持っていなさそうな風貌の中年の男だった。反射的に追う女。しかし相手は煤けたスニーカー。対して女の靴は運悪くヒールが高い。圧倒的に追いつく事は不可能だった。
それでも苛立ちが収まらない女は、全てのストレスを爆発させて投げつける様に、執念深く男に追いすがる。
「待て!! 止まれ、痴漢野郎!!」
ホーム階へと向かうエスカレーターを駆け上がる痴漢男。女の剣幕にすれ違う何人もが振り返るも、面倒事はごめんだとばかりに顔を背けてしまう為、痴漢男の導線を妨げてくれるような者は居なかった。
痴漢男がホームに降り立つ。タイミング良く、また女にとっては運が悪くもたった今電車が滑り込んで来た。人波が大きく動く。発車音とドアが閉まります、のアナウンス。女が息を切らしてホームに上がりきった時には痴漢男は電車に乗り込んでいた。
「待てぇっ!!」
逃げられる、と女が最後の気力を振り絞って叫び、諦めかけたその瞬間だった。
ドアが閉まるギリギリのところで何者かの腕が素早く車内に伸び、痴漢男のリュックを掴んで、ホームに引き摺り下ろした。瞬く間にドアが閉まり、電車がホームを後にする。あまりにも一瞬の出来事に戸惑いつつ、女は急いで痴漢男の方へ駆けつけた。
「てめぇ!! ふざけんなよ、この」
怒声と共にハンドバッグを振り上げる女の方へ顔を上げ、痴漢男を引き摺り下ろした人物が言った。
「お姉さん、止まって?! 大丈夫?」
痴漢男を引き摺り下ろした際に自身も転けたのか、ホームの冷たい地面にへたり込んでいるのは、綺麗な目をした青年だった。驚く程に華奢な体躯と柔らかそうな明るい髪。艶々とした大きな黒目をさらに見開いて女を心配そうに見つめるその瞳は、あまりにも澄んでいて吸い込まれそうだった。何より、ふわりとその美貌の青年から香る甘い香りがどこか危うく、毒を含んでいるかのようで女の鼻孔を妖しく魅了する。
我に返った女は、小さく息を吸い込み、何とか言葉を放った。
「あ、はぁ」
良かった、と安堵したように微笑む美貌の青年。どこか強気な眼差しがふっと緩んで柔らかく三日月形になった。綺麗だ、と女はドキリとする。
痴漢男を抱きすくめるようにしている美青年は、まるで赤子を抱える聖母マリアのように慈愛に満ちた手付きで、その背をあやすように触れていて、それは諭すようにもたしなめるようにも見えた。その両腕の中で痴漢男は、青年の美貌と危険な甘い香りに骨抜きにされたかのように、抵抗もなくただ呆けてそこに居る。
一連の騒ぎでいつの間にか駅員が数名現れ、痴漢男はあれだけ派手に逃走を目論んだにも関わらずやけに大人しく、あっさりと連れて行かれた。
軽い現場検証と駆け付けた警官による事情聴取を終える頃には、帰宅ラッシュ時をとっくに過ぎていた。
「お疲れ様でした」
駅舎を出て思い切り首を回す女に、静かに声をかける美青年。女が時間を拘束されている間、今の今まで傍に付き添っていてくれていたのだった。
「あ、ども」
ぎこちなく頭を下げる女は、「なんか、巻き込んですいませんでした」と付け加えた。苦労して巻いた前髪がだらしなく目にかかって煩わしい。
「いや、大変だったのはお姉さんの方でしょ」
どこまでも穏やかな声。マジで聖母じゃん、と思わず言いかけた女は慌てて顔を上げた。黒目の煌めく大きな瞳と目が合う。ふふ、と美青年が笑った。女の心臓がどきりと音を立てる。さっきから感じている、この浮世離れした美しさは何だろう、と女は不思議だった。人波の行き交う排気ガス臭い都会の喧騒においても、まるで彼の周りだけそれがするりと抜け落ちているかのように、汚れのない瞳をしているのだった。今ならここで『実は自分は今朝、人間界に降りてきたばかりの天界の住人なんです』と言われても何一つ疑問に思わず納得してしまうだろう。そんな自身の馬鹿げた考えを振り払う女だったが、ふとはらりと落ちてきた前髪を何気なく払ったその美青年の手元が目に入った。
しなやかに動く女性的な細い指。その左の薬指にある指輪がやけに存在感を放つ。銀色に輝くそれは印象的で、穢れを纏わないかのような彼の雰囲気に合わず、女の脳裏に残像となって静止画のように留まった。
なぁんだ、やることやってんじゃん。
無意識に上気した顔が瞬く間に冷えて行き、そして女をなぜか激しく失望させた。一方の美青年はそんな女をよそに、裾の長い上着のポケットから端末を取り出し、時刻を確認する。天界の天使が現代文明の利器を使っている、と、失望と裏腹にちぐはぐな女の思考が現実逃避をするかのようだった。次の瞬間、液晶画面に向けられた美青年の瞳が僅かに陰った。
「あぁ」
掠れた声。端末から外された視線が微かに彷徨う。それはどこか憂鬱そうで、始終柔らかだった雰囲気とは相反する昏さだった。女の視線に、美青年は直ぐに我に返ったように微笑む。まるでその一部始終を無かった事にするようで多少強引なのに、それが不自然では無いのが女を一瞬ゾッとさせた。
「じゃあ、これで」
艶やかに黒目を煌めかせ、淡々と言って会釈をする美青年。女が頷くと「お姉さん、夜道は気をつけて」と優しく笑って振り返った。どこか儚げな彼の体躯に、それはこっちのセリフなんだけど、と言いたいのを堪えて女はその細い背を見送る。
遠ざかって行くその後ろ姿に、何かを忘れているような気がしてならなかったが、女はふと思い出した。
「ひとづまさん!! 助けてくれてありがと!!」
美青年が再び振り返る。その真っ直ぐな瞳はどこか不思議そうだったが、ふふっと笑って頭を下げて去って行く。ひとづま。他の夫と書いてひとづま。どうでもいい豆知識だが、彼の雰囲気によく似合う言葉だと思う。ふと、ぼんやりと青年の後ろ姿を見て、その首の後ろに貼られた白い湿布の存在に気がついた。寝違えたのだろうか。天使が寝違える。その言葉の響きに、女は妙な可笑しさを覚えてつい口元を緩める。
女の鼻の奥には、まだ微かに甘い香りが留まっていた。
にへへ、という自分の声で女は目を覚ました。寝起きから情けなく緩んだ口元からは盛大に涎が流れ落ち、胸元のタオルケットを湿らせている。うわ、やっべ。と身を起こし、慌てて口元を拭う女は、ふと手元の端末に目を向けた。
再びおびただしい数の通知。先程まで夢うつつだった意識が一気に現実へと引き戻され、女は起き抜けにも関わらずはっきりと舌打ちをする。
「しつっこいな。めんどくせぇんだよ」
叩きつけるように画面を伏せて置くと女は立ち上がった。フローリングに散乱した衣類に足を取られないようにシンクまで行き、蛇口をひねる。ぼんやりとシンクに流れ落ちる水を眺めながら、昨夜見た夢を思い出そうと試みるもうまく行かない。はっきりとは覚えていないが、なんだかひどくしあわせな夢だった気がしていた。
「ウケる」
女は自嘲して呟く。手のひらで流水を掬い、勢いよく顔に浴びせた。
無音も侘びしさに拍車をかける。適当に点けた報道番組を室内に流していると、娯楽のコーナーから丁度切り替わるところだった。若い女性が逮捕されたという事件。容疑者は女と同い年だ。
「まじか」
淡々と原稿を読み上げるアナウンサーの声に、女は思わずヘアアイロンを持つ手を止めてテレビ画面に集中する。それは、SNS上で知り合った男性を刺した、という実に簡潔な内容だった。画面には容疑者の女性のフェイスブックから持ってきたであろう数枚の写真が映し出されている。どの写真に映る姿も、綺麗に髪を巻き、ブランドものを纏って程よく加工がなされていた。なお、被害者は女性とは親子ほども年の離れた五十代の男とのことだ。こちらは特に印象のない五十親爺といった風貌だった。
「へぇ。同業じゃん、これ」
画面を凝視していた女は、すぐに関心を逸した。鏡を向き、再び慎重に髪をアイロンに挟む。薄く茶色い髪は何度もブリーチを繰り返しただけあって髪質が傷んできている。
「何があったか知んないけどさぁ、そんな冴えないおっさん殺ってブタバコ放られるなんてね。まぁわかる、わかるけどさ」
画面を横目に女の独り言が室内に落ちた。アイロンの電源を切り、ケープを振りかけて巻き髪を整える。つーか普通逆じゃね殺されんの、と呟きつつ、度の入ってないカラコンの容器に手を伸ばした。
「確かにこんな稼業してたらさ、そりゃ嫌んなっちゃう事もあるって。でもさ、少なくともあんたは、その写真見る限りあたしみたいな、なんの生き甲斐もなくなんとなく生きてるような擦れたヤツじゃなさそうだったよ。ま、そこまではわかんないけど」
アナウンサーがさっさと次の報道に移る。鏡に向かって瞼を指で持ち上げ、色の付いた薄いレンズを放り込む。ピンク色の縁ありのカラコン。瞬きをしつつ女は独り言を繰り返す。
「どーせ殺るならさ、もっと」
ここで女は我に返って口ごもる。唐突に昨夜の記憶が蘇った。甘い香り。煌めく黒目。細長い指に輝く銀色の指輪。
女の手が刹那的に止まった。
あたし、何で。女の呟きが細かく震える。
片手で引っ張り上げていた瞼が限界を迎えて痛んだ。指を離してキツく目を閉じ、首を振る。鼻孔を惑わせる甘美な香りと脳裏にこびりつく黒目の煌めき。
やがて女はゆっくりと目を開いた。
「そうだな、どうせ殺るなら、死に顔の美しいひとが良い」
死んだら負け。これが女の人生においてのポリシーだ。だから、どんなにこの世界に未練が無くなっても、自分で自分は殺さない。これまでそれだけは貫いて来た。けれど、そろそろ潮時かもしれない。だとすれば、女が社会に見切りをつけるなら、これしかない。
「美しいひとづまさん。道連れ候補だね」
女はニヤリと笑った。
来た。
女は胸の内で呟く。駅前通りから一本入った裏路地。街灯も少ないこの場所は、身を潜めるのに最適だった。ハンドルに乗せていた腕を下ろし、電源を切ってからスマホをハンドバッグに放り込む。
改札から吐き出される人波から少し後に、目的の人物が姿を現した。人波が途切れたこのタイミングは、女にとって最適だった。
「あー、そこそこ田舎の最寄りで良かった」
女は呟く。目的の人物が、少しでも強い風に吹かれればふわふわと宙を舞ってしまうような足取りで裏路地に入ってくる。女は強くハンドルを握った。じんわりと手汗が滲む中、束の間目を閉じて逡巡する。やがてゆっくりと目を開くと、運転席側の窓を下ろして声をかけた。
「あのっ、すいません!! 助けて下さい!!」
「えっ?!」
女の声に、我に返ったように駆け寄ってくる人物。寂れた街灯の下でもどこから光を集めているのか、黒目が変わらず艶やかに煌めいていた。
「すいません、なんかエンジンがかからなくなっちゃって。友達と急ぎの待ち合わせがあるから早くしないとなんですけど」
女の事は覚えていないのか、それは大変、と快く運転席側に近づいてくる。ふわりと前髪が揺れ、再びあの甘い香りが車内に溢れた。
「ちょっと見てほしくて」
指で示した瞬間、女は素早くその細い首元に両腕を巻き付けて固定し、カッターナイフを突きつけた。数ミリ程度の刃渡りだったが、相手を怯ませるのには最適だった。ひっ、という短い息。
「大人しくして。ちょっとでも抵抗したら、あんたの首にこれを刺すよ」
低い声で言うと、怯えたように小さく頷くので、そのまま瞬時に車外に出て後部座席に放り込んだ。座席に叩きつけれた細い体が崩れ倒れ、小さく咳き込んでいる。乱暴にドアを閉めると女は運転席に乗り込み、エンジンをかけた。
カッターナイフを助手席のハンドバックに片手で戻し、女は勢いよく車を発進させた。後部座席から、動揺と困惑、狼狽の声が漏れる。
「助け求めたら殺すから!!」
女はミラー越しに怒鳴った。
一目惚れなんてガラじゃない。ずっと、そんなロマンチックな恋愛が出来る世界線では生きて来なかったから。ただ間が悪かっただけだと女は思っている。丁度人生に飽きて来た頃で、かと言って死んだら負けな気がするのは変わらなくて、そんな煩わしい自尊心だけは根を張っていて、とにかく自暴自棄になっていたのだった。
言ってみれば良い鴨。女の最後の悪足掻きに利用できそうだと思っただけだ。もっと言うなれば、自分とは縁の無いような気高い美しさを引きずり下ろしてドロドロに汚してみたいような、女の歪んだ劣等感もあったのかもしれない。
だから、女はか弱いフリをした。相手はいとも容易く救いの手を差し伸べてくれた。聖母のようなその慈悲深さに刃を向けるのは、さすがの廃れた女でも躊躇をしたが、相手は数ミリ程度の刃渡りであっけなく言う事を聞いてしまった。後部座席にその細い身体を放り込んでから車を発進させるまで、女は高嶺の花を容易く手折ってしまった感覚だった。
しばらく走っている間も、後部座席に転がる相手は大人しく黙っていた。漠然とした行き先を思い浮かべながら女も無言でハンドルを握る。やがて後部座席から微かに衣擦れの音がした。
「ねぇ」
ここで初めて、相手が言葉を発した。ミラー越しに目が合う。こんな不可解な状況に巻き込まれているのにも関わらず、その目は笑っていた。車内のライトに照らされて、やはり艶やかに煌めく瞳。
「何」
視線を逸して前方を睨みつつ、女は内心の動揺を押し隠すようにしてぶっきらぼうに返す。ミラー越しに女を真っ直ぐ見つめたまま、相手はふわふわと言った。
「体勢がキツいから、体起こして良い? 腰に来る」
言い分が妙にその年齢を感じさせて、相手の外界離れした雰囲気にそぐわず曖昧だった。女は黙って頷く。よいしょ、と微かな声。薄手のロングコートの裾を丁寧に払い、広い後部座席の隅に行儀よく腰掛けた。乱れた前髪を慣れた手付きで梳き直す。その一部始終をミラー越しに見ていた女は、おっさんなんだか生娘なんだかどっちかにしろよ、と胸の内で呟いた。
「満足?」
女が聞くと、相手はにっこりと笑ってこくん、と頷いた。女児かよ、と女は再び胸の内で呟いて小さく舌打ちをする。
「ふぅ、腰痛持ちにはあの体勢キツイよ」
聞き流しながら右手でハンドルを握りつつ、女は煙草に火をつけた。口元に咥え、ミラー越しに目で許可を取る。良いけど、窓開けて良い? 気管支弱いんだよね、と微笑みつつ勝手に細く窓を下ろされた。別に良いけど、と呟く女。その唇から白い煙が流れ出る。
「いけないんだ」
ミラーに映る煌めく瞳が細められ、ふふっと笑われた。
「まさか未成年だと思ってんの」
「違うの?」
うるっとした目で、こくんと首を傾げるその仕草があざとい。しかしそれが妙に様になっていてその雰囲気に合っている。女は眉間にシワを寄せた。とっくに二十歳超えてんだけど、と言うと、そうなんだ。十九歳くらいだと思った、と淡々と返って来る。
「じゃあ聞くけど、あんたこそいくつよ」
「いくつに見える?」
まさかの質問返し。女は思わず何も無い所でハンドルを切りそうになった。なめてんのか。すんでの所で喉元に留まる罵声。当の本人は、そんな女の反応を楽しむように微笑んでいる。
「もういい、めんどい」
女の言葉に、ふふっごめんね、と笑う。苛立ちを抑えるのに必死な女が無視を決め込んでいると、でも、と言葉が続いた。
「君が思うよりは年いってると思って」
「あっそ。興味無いけど」
再び車内に下りる沈黙。女の煙を吐く音だけが微かに響く。ゴソゴソと後部座席で衣擦れがするので視線をやると、ロングコートのポケットからスマホを取り出し、何を思ったのか指でスライドさせて電源を切っていた。
「あんた阿呆なの?電源切ったらあんたの助けが」
「誘拐犯のお嬢さん。それでどこに連れて行かれるの?」
女の言葉が聞こえなかったかのように、ふわりと言葉で被せられた。拐かされた側の被害者だというのに漂う余裕の雰囲気と微笑み。相変わらず何を考えているのかわからない不気味さに女は視線を逸らす。
「……その誘拐犯のお嬢さん、って呼ぶのだけは止めてくんないかな」
「じゃあなんて呼ぶ?」
「別にあんたの好きに呼べば。わざわざ本名明かす犯罪者も居なくない?」
女が言うと、しばらくじっと見つめられた。真っ直ぐな瞳が煌めく。やがてポツリと呟きが落ちた。
「ユリちゃん」
「は」
「うん、ユリちゃん。ユリちゃんにしよう。女性に人気の洗礼名ユリアから。可愛いでしょ」
車内に間延びする沈黙。女は短く息を吐いた。
「なんでもいいけどさ。あんたは?」
「え、そこ普通誘拐犯に本名教える展開なんてある?」
「はぁ?」
「俺そこまで馬鹿じゃないってば」
何が悪いの? と言わんばかりの無垢な瞳。
女は面白くなさそうに煙草を灰皿に押し付けると、やはり無言でハンドルを握る。結局手のひらで転がされているような気がする。
「何か欲しいもんある?」
パーキングエリアが見えてきた所で、不意に女は尋ねた。
「言えば、そこのコンビニでなんか買ってくるけど」
黙って後部座席に腰掛け、窓枠に肘を掛けてぼんやりと外を眺めていた顔が、ふいっと女の方に向いた。どことなく余裕そうな佇まいが、やはり女を苛立たせる。
「良いけど、もし君が買い物行ってる間に通報とかしちゃうリスクは?」
「それ、誘拐犯目の前に言うか、普通」
「うふふ、嘘嘘。じゃあ珈琲お願いしちゃおうかな。あ、ブラックでね。一番苦いやつだよー」
いってらっしゃーい、とさながら遊園地の乗り物スタッフのように軽快に送り出され、女は先程から肩透かしを食らっているような感覚に陥る。しかし、人通りの多いこのエリアで万が一の事があってはと、手早く用事を済ませることにした。
女が車に戻って来ても、後部座席に腰掛けたままだった。
おかえり、早かったね。急いだ?
悪戯っぽく言って細められる瞳。
「……なんで逃げないんだよ。いくらでも隙はあったけど」
「ふふふ、おもしろい子」
誘拐した側だというのに、女は呆れて言った。運転席に乗り込み、後部座席に買ってきたばかりの品物を差し出す。ありがとー、と軽快に受け取るその指で光る指輪。毒とか変なクスリは入れて無いから、と女が念を押すと、なぜか余裕そうに笑って、そんなことわかってるよ、なんて微笑まれる。艶めく黒目。女の胸の内で得体のしれない何かが跳ねる。
なんだ、この男。
女はすっかり迷宮に迷い込んだようだった。買ってきたキャラメルラテは僅かに口をつけて傍らに置く。一口飲んだだけなのに、気怠い甘さが舌の上に残る。女は仏頂面のまま再びハンドルを握った。
なんかもう、疲れた。
女は勢い良くダブルベッドにうつ伏せで倒れこんだ。出発当初の闘志は跡形もなく消え去り、今は気詰まりと多大な疲労感で、いつでも気絶しそうだった。こんな風になるとは思わなかった、と元凶のように睨みつけると、離れたソファーに余裕そうに腰掛けているのと目が合う。
「やだ、怖い目してるよユリちゃん」
「あんたのせいだよ、この」
「疲れてるなら睡眠とった方がいいよー。そのベッド全部使って良いから」
「腰痛持ちのくせに、良いカッコしようとすんなよ」
平気平気、と笑うその姿がどうも気に入らない。段々と苛立ってきた女は、「そもそもあんたが、車中泊やだぁ、とかぬかすから、こんな変な時間に適当な宿探す羽目になって、おまけに空室無くてダブルベッドの部屋しか無くて、あーーーもう」と、憤りのせいで支離滅裂になった思考をそのまま捲し立てる。
「と・に・か・く。あんたは所詮あたしに拐かされた側なの、もう少し殊勝でいてくれる? あたしにもね、いちおう何、誘拐犯のメンツ、ってもんがあるの」
ダブルベッドの上で仁王立ちをして腕を組み、女は余裕そうに微笑むひとづまを見下ろす。ヒールを脱いだ足元はやけに虚しくスプリングの反動を吸収した。傾く上体をなんとか立て直して、女は指を突きつけた。
「わかってんの?!」
「はーい」
女の剣幕を根本から削ぐような、軽快な返事。ずっこけそうになりながらも、ひとしきりぶちまけて凪いだ女は、へたりとベッドの上に座り込んだ。
頭を抱え、その間からちらりとソファーに視線をやる。ロングコートを脱いで傍らに掛け、薄手のロングシャツ姿になってもなお、その姿は高貴な美しさを纏っていた。線は細いのに、肩幅がやけに男を感じて女を掻き乱す。結局の所、部屋に入ってきてから感じるその曖昧な色香が、女を異常に苛立たせると共に惑わせるのだった。
女はため息を吐く。静かな室内に、情けなく突風が吹いた。
「幸せが逃げちゃうよ、ユリちゃん」
「別に良いし。幸せって何」
「それは人それぞれだよ、ユリちゃん」
女が顔を上げると、やはり柔らかく微笑んでいる。わざとなのだろうか、先程からやけに名前を呼ばれる。睨みあげるような女の視線をふわりと受け止め、ふふっ、とその唇から小さく笑いが漏れた。毒気のある甘い香り。女の舌の上に残るキャラメルラテの味が不意に蘇って妙に疼いた。
「正面から睨まれるの怖いよー、こっちくれば?」
何の思惑も無さそうに、ソファーの表面を細い手がポフポフと叩く。美人さんの怖い顔って苦手なんだよねー、とのたまう軽口が、嫌に女の挑発を刺激した。
睨みつけたまま両腕を頑なに組んで、どすんと座る女。人一人分空けてもなお、毒気のある甘い香りが、強烈に鼻腔を魅了してくる。苛立ちを抑えるべく、女は無意識に髪を掻きむしった。
ちらりと女が横目で隣を伺うと、ソファーの肘掛けにもたれて遠くにその視線をぼんやりと投げている。辺りの光を全て吸収して反射する、色素の薄い瞳。
「カラコン入れてんの?」
何の気なしに正面を向いたまま女が呟くと、「裸眼」とだけ返ってきた。
「ふぅん。視力良いんだ、あんた」
「そう」
どことなく素っ気ない単調な言葉が室内に落ちる。つくづくペースが掴めず、女が何度目かわからない曖昧さを感じていると、「ユリちゃんはそれ、カラコン入れてるよね」と静かに言われた。
「なんでわかんの」
「わかるよ。わかりやすいもん」
不意に、すん、と大きな黒目が女の方を向いた。気を抜けば吸い込まれてしまいそうな煌めく瞳が、覗き込むように女を見つめている。
「それはピンクなの?」
「そ、そうだけど」
「すごいねー、今の若い子のファッション文化って」
「発言、ジジイかよ」
「ちょっと見せて、よく見たい」
え、と女が短く息を吸った。妖しく甘い香りが近づき、大きな黒目が迫ってくる。微かに色づいた唇が妙に艶めかしい。薄暗い天井が眼前に広がった次の瞬間には、視界いっぱいに、微かに笑った煌めく黒目が映り、ソファーの肘掛けに女の後頭部が緩やかに当たった。
「え、は? はぁ?」
はらりと落ちてきた柔らかな前髪が、女の額を軽やかに撫でた。凪のような瞳が、どんなに動揺しようとも目を逸らせない程に真っ直ぐ見据えてくる。艶めく唇が、あと少しで触れ合えそうだった。
「目、開けてしたいタイプ?」
女が息を呑む目の前で蠢く唇。ふふっと細められる大きな瞳が、柔らかくも色っぽく三日月型になった。
「嘘嘘、冗談だよ」
女が何か言いかける前に、ふわりと唇を離される。瞬く間に、これまでの遠い距離に戻された。ソファーに引っくり返ったままの女は、息をするのも忘れてただそこに居る。一方で何事もなかったかのように立ち上がって振り返られた。
「とりあえず寝ときなね。俺ちょっと夜風に当たってくるから。若者じゃないから寝入るのに時間かかるんだよー。あっ、通報とかしないから安心してね」
ぱちりと星屑が飛ぶようなウインクを落とされ、ドアが開いて閉まる音。乾いた音が、女の耳に残る。
「くそ、なんだよ、なんだよあいつ」
我に返ったように身を起こした女は、取り残された部屋で独り呟いた。声が掠れて上手く出ない。それでも女は、泣き出しそうで苛立たしげな目でドアの方を睨みつけながら呟き続ける。
「既婚者のくせに、ひとづまのくせに、他人の女のモンのくせに!!」
女の咆哮が、虚しく響き渡った。
※
ねぇ、せっかくだから行きたいとこあるんだ。
謎多き既婚者がふと呟いた。あれからどのくらいの日数が経ったのか。もしかしたらそれは女の感覚のみで、実際は数十時間も経っていないのかもしれない。社会から隔離された中で、ただ甘ったるい香りを含んだ時間だけがゆるゆると流れて行く。
「どこ」
既婚者は微笑みつつ、とある地名を言った。古くから教会があるらしい。かつては隠れキリシタンの集落があったという。女は知らなかった。
「ふぅん。あんたクリスチャン?」
「違うよ」
女はハンドルに手をかけたまま、バックミラー越しに後部座席を伺う。既婚者の首元で華奢なチェーンの先に光る十字架。
「じゃあそれは何」
「償いかな」
目を伏せ、夢幻のように笑う既婚者。白い百合が刹那に散るような儚い表情が、女を妙な気にさせると同時に良心で胸の奥が痛んだ。
「教会って、いわば永遠の愛を誓う場所じゃん」
「そう、だね」
「なんでよりによってこの場所を選んだの?」
だってユリちゃん、俺の事殺すつもりでしょ。
女の目を見つめて、既婚者は静かに言った。どきりとして顔を伺うと、微かに唇を緩め、煌めく瞳が穏やかに真っ直ぐ女を見据えていた。凪のようだ、と女は思う。
「な、なんで」
「どうせなら、誰もわからない遠いところが良かったから。それで、ここ」
誘導したみたいになってごめんね? と、仮にも自分を誘拐した女の前で可憐に言ってのける、その見上げた根性が眩しい。
「べ、別にそういうつもりじゃあ」
「違うの?」
艶やかな黒目がどこまでも女を捉えて離さなかった。甘い香りと間延びした空気。そんな見透かした目で見ないでくれ。女の切実な叫びが喉の奥で震える。やがて苛立ちと共に自分の長い髪を掴んだ女は乱暴に掻き回しつつ天を仰いだ。
「あー、そうだよ。だってあんた恵まれてるじゃん。ひと目でわかったよ、あの時。別に良いじゃん、生活全部が自傷行為のあたしみたいな女が一人豚箱にぶちこまれたって。生きてる意味が見出だせないんだよ。この社会の中で。生き甲斐が一つでも無いと置いて行かれるイカれたこの世界で。結局ヤケでおべっか使って色ボケ爺どもから大金巻き上げてみたりしたけど、何も楽しくないんだよ。もう良いじゃん、こんな人生。自分で死ぬよりゃマシでしょ。その対象がたまたま、あんただったってだけだよ」
捲し立てるように言葉を投げつける女の様子を、既婚者はただ静かに聞いていた。肩で息をする女に、ゾクリとするような冷え切った声が降り掛かった。
「恵まれてる? 俺が?」
背筋に冷たい汗が流れ落ちる。女が恐る恐る顔を上げると、既婚者はその細い指を唇に当ててくすくすと笑っている。ステンドグラスに切り取られた光がその姿を浮かび上がらせた。ひとしきり品良く笑い転げてから、既婚者の目が再び女を見据えた。
「へぇ、ちゃんとそう見えてたんだぁ。良かったぁ」
真っ直ぐに煌めく大きな黒目には、これまでのような穏やかさも柔らかさも宿っていない。迷う子羊を誘惑するように妖しく光り、じりじりと女を壁際に追い込む。一歩動く度に、神聖な光の満ちた室内に毒気を含んだ甘ったるい香りが振りまかれる。
「まぁ確かに、人より生活水準は高い方かもね。でも目に見えるものだけが真実とは限らないんだよ。ユリちゃん。なんで既婚の男が行きずりのお嬢さんに大人しく拐かされたか、わかる?」
得体の知れない感情に呼吸ができない女の顔の横に、そっと右手をつく既婚者。妖艶に光る目で見つめたまま、もう片方の手で女の上唇に細い指先を触れさせた。ぞくりと背筋を震わせる女だったが、固定されたように目の前の既婚者から視線が外せない。
「ふふ、偉いねぇ、ユリちゃん。これまで指一本俺に触れて来ないんだから」
「そ、それは、当たり前でしょ」
しどろもどろに答える女はせわしなく視線を散らす。
「あ、あんたみたいな奇麗な人に、あたしみたいなんが容易く触れられるわけないじゃん。触れた瞬間に消えちゃいそうで」
ユリちゃん、と既婚者の唇が動く度に、鼓膜をなぞるような感覚に襲われる。可憐な容姿に妖艶な瞳、低い声と甘いトーン。その全てが不可逆的で曖昧で、奇妙な色香が漂う。
静かに女の口元から指先を離した既婚者は、真っ直ぐ見据えたまま、その手で右の袖口に手をかけた。薄い生地のロングシャツが、するすると捲り上げられて行く。
「これでも恵まれてるって言える?」
女が視線をずらして息をのむ。滑らかな肌の表面には、無数の赤黒い痣が刻まれていた。それは明らかに外傷と言えるもので、自身の不注意で出来た代物では無い。
「え……」
まさか、と女が掠れた声で呟く。
「あんた、奥さんから」
「両腕合わせて八ヶ所、首の後ろに一ヶ所、胴体はどうだったかな。とにかくたくさん。痣が多いけど、やけども少しあるよ。見たいなら見せるけど」
「い、いやいいし」
何でも無いようなトーンで滑り落ちるあまりに残酷な現状に、女はただ息を吐くことしか出来なかった。
そんな女の反応に、満足そうに微笑んでから既婚者は静かに袖口を戻して密着していた体を離した。
「わかった?」
こくん、と首を傾げるいつもの幼女のような仕草。こんな惨たらしい目に遭わされているのにも関わらず、なぜこの人はこんなに澄んだ美しい瞳ができるのだろう、と女は不思議でならない。その異常な浮世離れは、一体どこから醸し出されるのだろう。女は、一抹の恐怖すら抱けてくる。
「その、あんたはさ、誰かに助けを求めたりとかしなかったわけ?」
「そんな資格無いんだよなぁ」
天を仰ぎ、既婚者はのほほんと言ってのける。つられて女も天井を見上げる。そこには十字架に張り付けにされたイエスの像が居て、罪深い男女を静かに見下ろしていた。既婚者の目は、そのイエスに許しを乞うようにも見える。
「これね、娘なの」
女の方を向き、既婚者は首から下げられたロザリオのペンダントを見せた。ステンドグラスの光を反射してきらりと光る。
「娘さん」
「の、遺骨ね」
絶句する女をよそに、静かに落ちていく言葉。
「もしあの時自分が異変に気づいていれば、娘は死ぬ事も無かったし璃子も自分を責めずに済んだんだよ」
「……嫁?」
「如月璃子って検索したら出てくる」
「……もしかして、あの読モの、」
「元、だよ。若い頃ね」
自分の事では無いのに、自嘲するように既婚者は笑った。あたしそのモデルが一番好きだったんだよ、なんて言えるような雰囲気では無かった。開きかけて、女はそっと口をつぐむ。目の前の既婚者があの如月璃子の配偶者という事実。それよりも、かつて好きだった読者モデルが、彼女の家庭で暴力を振るっている事の衝撃が大きい。人間ってわかんねぇな、と胸の内で呟く女。
既婚者によると、妻の如月璃子は、心労による不注意で、目を離した隙に当時三歳だった一人娘が横断歩道で車にはねられたという。以降目の前で娘が命を落とした瞬間の衝撃に加え、その自責の念にかられて既婚者への暴力が始まったというのだ。
「赤の他人は治せても、自分の身内の事は些細な異変すら感じ取れない、ってね。こういうのなんだっけ、医者の不養生?」
「それを言うなら灯台下暗し、じゃない?」
「あぁ、そうか。まぁどうでも良いけど」
虚空を見つめて笑い、自らの髪をかきあげる既婚者。そのうだるような色香と露わになる滑らかな横顔に、女は慌てて目を逸した。
「ってか何、あんた。医者なの」
「え? そうだよ、精神科医。言ってなかったっけ」
自分がこんなんだからさ、この前も患者さんを一人亡くしちゃったし、とポツリとこぼす。
「その患者さん、いつも恋人に浮気される度にカッターで自傷して、両腕に包帯巻いて通院して来るんだけど、あの時腕の痣と俺が首元に湿布貼ってんの気づいてね」
せんせぇ、せんせぇこそ自分の事大事にしてくださいね。俺、せんせぇに出会えて良かった。俺の事はもう大丈夫ですから。
その患者は既婚者の両手を労るように握ってひとしきり同情するように泣いた後、そっと微笑んで診察室を後にしたという。次に再会した時には、もう既に。
「もうねぇ、駄目なんだぁ、俺。でもどこまでもクズだから、誰か第三者が終わりにしてくれないかなぁなんて思って。他力本願も良いところだけどね」
でも、ユリちゃんに期待したのは間違いだったかな。
既婚者の呟きに、女は黙っていた。やがて耐えきれずに顔を上げる。
「ごめん、嘘ついた」
突然頭を下げる女に、既婚者はゆるりと顔を向けて首を傾げる。
「誰でも良いなんて嘘。あんたを欲しかったから連れ出した。ただそれだけ」
既婚者の静かな呼吸音だけが室内の日差しと共に溶けていく。
「あたしだって、底辺みたいな人生送ってるよ。でも、あの時、あの時、駅であんたを見た時に、ほんとに、すげぇ綺麗だって思ったんだよ」
訴えかけるように既婚者の細い両肩を掴み、怯まず真っ直ぐその黒目を見据える。それは反射でいっそう艶やかに煌めいていて吸い込まれそうだった。水晶を溶かして流し込んだような瞳は、やはり美しいものしか見てこなかったかのように澄んでいる。
「まぁそれはあたしが日頃、爺どもの濁った目ン玉しか見てきてないのもあるかもしれないけど、あの瞬間あんたが、ほんとに綺麗で、なんだか救いのマリア様みたいに見えた」
あたし、あんたが好きだ。
女の指が微かに細い肩に食い込む。力の入ったその言葉は、真っ直ぐ相手に届くかのように見えた。
「それは君のエゴだよ」
切なげに笑って、既婚者はそっと、しかし強い意志で女の手をほどいた。
「ねぇ」
その背に女が投げる言葉を遮るように、「海、見てくる。ちょっとひとりにして」と既婚者は部屋を出て行く。感情の無い平坦な声。素っ気ないその態度に、強く引き止める事も出来ずに女はその場にへたり込んだ。
それは君のエゴだよ。残酷で冷淡な言葉が、女の胸の内を深く切り刻んで行く。
馬鹿。女の独り言が室内に落ちた。
「馬鹿、あの馬鹿。恋愛なんて……惚れた腫れたなんて、そんなん、みんなエゴじゃん」
ステンドグラスを反射させる床に溢れる水滴。色が落ちてきた長い髪が情けなく肩にかかり、女をより惨めにさせた。乱暴に目元を拭って顔を上げ、天井を睨む。
イエスの像は変わらず静かに女を見下ろしていて、「結局、お前はどうしたい?」と問うているようだった。
わかんないってば、もう。
女がゆるりと立ち上がった時、階下で微かに悲鳴が聞こえた。寂れて打ち捨てられているような海沿いの教会に、似つかわしくないような声。女の血の気が引いていく。何かが起きた。きっとこれまで一番警戒していた、もっとも良くない事が。
女は濡れた頬を拳で拭うと、部屋を飛び出した。蜘蛛の巣の張った軋んだ階段を駆け下りて裏手にまわり、教会の外に出る。
それはすぐそこで起きていた。
海を一望出来る中庭に立つ、一人の女性の後ろ姿。色素の薄いセミロングの髪。
女性がゆっくりと振り返る。陽の光を反射するグレーがかった瞳はカラコンだろうか。しかし女の脳裏に真っ先に飛び込んできたのは、初めて目の前で見る如月璃子の美貌や、その白い頬や纏うワンピースに飛び散った返り血よりも、その背後で血を流して倒れ込んでいる既婚者の姿だった。
「ちょっと!!」
血相を変えた女だが行く手を阻むのは、如月璃子の手に握られた刃物の切先だった。ゆっくりと女の目の先に突きつけられるその刃先からは、まだ真新しい血液が滴り落ちている。
「あああああああああああ?!」
女は絶叫する。遅かった。だったらこの手で、もっと早くに。睨みつける女に、如月璃子が真っ赤な薄い唇を開く。
見ぃ、つけ、た。薄ら笑う如月璃子の不気味さに、女は怯む。
「あんた、なんでここが」
言いかけて女は、こんな人間の事だから携帯以外にもGPSでも仕込めるだろうとおおよそ理解する。それに気づいていたからこそ、既婚者は車内で早々に携帯の電源を落としたのだった。しかし既婚者本人も盲点だったのは、相手が異常なまでに執念深かった所だろうか。
息をのんで立ちすくむ女に、容赦なく振りかざされる刃。
「やめて!!」
意識の外から放たれる既婚者の声。束の間動きの乱れた如月璃子の脛をヒールで蹴って突き飛ばし、女は既婚者の元へ駆け寄る。
「馬鹿!! 何刺されてんだよ!!」
朦朧とした意識の中で、それでも既婚者は微かに口元を緩めていた。女を見上げるその視線は、これまでのどの瞬間よりも弱々しい。
「ユリちゃん、ごめんね、俺」
好きになってもいい?
チェーンの切れたロザリオが、血溜まりの中に落ちた。
※
『続いてのニュースです。都内在住の元「Mint」専属読者モデル如月璃子容疑者が暴行及び殺人未遂罪で逮捕されました。如月容疑者は半年以上前から夫にDVをしていたとみられ、その容疑を認めて___』
テレビが消え、急に落ちる静寂。機械音と不規則に液体の落ちる音だけが真っ白な室内にやけに響く。
「なんか、あっけね」
「そうだね、そっちからしたら欲しかったものが容易く手に入っちゃったもんね」
「は? 言い方」
「っていうか感謝してよ、あの時警官に「この人を連れて行かないで」ってうまく言ってなければそっちは今頃刑務所で朝礼してたよ」
「わ、わかってるし。ってかこっちが元看護学生じゃなければそっちも死んでたから」
「お互い強情だねぇ、ユリちゃん」
「……雛乃だよ。ひなの」
「へぇ、普通に可愛いじゃん」
「あたしこそ、あんたの名前知らないよ」
「夢咲」
「それ名字、名前」
「名字だよ」
「名字じゃなくて、名前は」
「……いおり。依存の依に織姫の織」
「なんだそれ。その顔だから許される名前しやがって。まぁ、あんたがあたしより年下とかなら許してたけど」
「ふふ、ごめんね? どうせ君よりうんと年上だよ、雛乃ちゃん」
「拗ねんなよ、あーもう嘘だって」
やっぱあんたは、奇麗な人だよ。
一輪挿しの百合が静かに揺れた。
完
破壊衝動 虹鳥 @kotori87
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます