第19話 怪物と幽霊船
呪術師の島より南に何があるのかは、キッドたちにも予想がつかないことだった。
しけったビスケットにはうじ虫がわき、積荷のチーズも腐臭がひどく、呪術師の島から持ってきた新鮮な果物もとうになくなっている。
塩漬けの肉と乾燥豆を少しずつ食べながら、船の上での会話は、南の夢の島で何をするかというものから、海賊島に帰ったら何をしたいかというものになり、しまいには「帰ったら」が「帰れたら」という言葉になっていた。
「南多島海っていうぐらいだ。島はたくさんあるんだろうな」
カイのつぶやきに答えたゲンの言葉が一層みんなの不安を煽る。
「戻ってきた連中の話ではそうだが、何しろ、そのほとんどが頭がいかれちまっていたって話だ。どこまであてになるんだか……」
「とにかく、行ってみればわかるさ。事実は自分の目を通して見なければわからない」リクは朗らかに言った。
しかし、この直後、目の前の現実の荒唐無稽さをその目で知ることとなる。
それは、ヒラクがぼんやりと海を眺めているときのことだった。
女か子どもか区別がつかないが、切れ切れに高い声がどこからか聞こえてきた。
それは美しい歌声だった。
海面上のあちこちに岩の先端が飛び出している。
岩場の上には長い髪の若い娘たちが座っていた。歌声は彼女たちのものだ。
船は岩礁地帯に突っ込んでいく。
それでもヒラクは気にしなかった。
昨日カイが言っていたことを思い出したからだ。
『南の魔の海域には、美しい女の姿をした悪魔がいて、歌声で船を誘い、転覆させるって話だ。この際、悪魔でも何でもいいから、どれだけいい女かってのをこの目で拝んでみたいもんだぜ』
おそらく、同じように思ってきた者たちがこれまでにもいたはずだ。
かつて南へ向かった船に乗っていた者が同じ思いを抱いていたならば、彼らが想像したものが水に焼きついて記録されていても不思議はない。
ヒラクは岩場の女たちの姿は自分にしか見えない幻と思った。
ところがそうではなかった。
「どこからか美しい調べが聞こえてくるでげす」
そう言いながら蛇腹屋が手風琴を鳴らし始めた。
「おい、何だ、あの岩は」
「針路を変えろ!」
船の上は騒然となった。
カイは舳先に立ち、女の姿を確かめて叫ぶ。
「女だ! すげーいい女! いや、危ねーぞ、このままじゃ船を沈められちまう」
さきがけ号は岩場から逃れようとする。
するととんでもないことが起こった。
突然、女たちが腰をおろしている岩の先端が海面から隆起したかと思うと、空に向かって勢いよくそそり立ち、その姿を現した。
それは何体もの頭のとがった爬虫類のような巨大な怪物で、海上に岩肌の上半身を出して船を取り囲んでいた。
怪物の頭の先端にいた女たちは歌うのをやめ、次々と海に飛び込んだ。
怪物の体で太陽の光は遮られ、さきがけ号は暗い影の中で波に翻弄されていた。
「一体何が起きてるんだ」
マストにしがみつきながらキッドが叫んだ。
「何だよ、あの怪物は!」
「キッド、あれが見えるの? どうして?」
目の前の怪物より何よりヒラクには不思議なことだ。
「何言ってるんだよ。ここにいる全員が見えるに決まってんだろ」
キッドは涙目で言った。
それでも恐怖を悟られまいとするように甲板上の若者たちに向かって叫ぶ。
「とにかくここから脱出だ。大丈夫、あいつらでかいだけで、どんくさいに決まってる」
果たしてその言葉通りとなった。
怪物たちは愚鈍な動きで互いの顔を見るだけで、下を見ようとはしていない。
さきがけ号はただ怪物たちにぶつからないように気をつけるだけで急場を脱することができた。
再び太陽が船に照りつける。
怪物たちはまた海に沈んでしまったのか、岩場の影さえもう見えない。
「一体、何だったんだ、今のは……」
率先して策具を操り脱出に一役買ったハンスはやっと一息ついて汗をぬぐった。
「見たこともない化け物に遭遇した。それが事実だ」
そう言いながらも、リクは信じられない思いだ。
舵取りでくたくたになったクウもゲンの仲間たちと交代して甲板上に上がってきていた。
「カイが女なら何でもいいって思ってるからこんなことになるんだよ」
「何だと、俺のせいだっていうのか」
クウの言葉にカイは憤るが、ケンカをする気力もなく、振り上げたこぶしをひっこめて、げんなりとした。
「まあ、それにしても何でここが悪魔の海域と呼ばれているのかがわかったってもんだぜ。この先何があってももう驚かねぇぞ」
「幽霊船とか出たりしてな」
キッドが言うと、急に空に暗雲が立ち込め、海上は嵐となった。
雷鳴とどろく中、全員総動員で帆がたたまれようとしていた。
ジークの制止を振り切って、自らも縄ばしごを上っていったヒラクは、雷光の中に浮かび上がる一隻の船を見た。
「船だ! 船が見える!」
帆桁にしがみつく若者たちも同じものを目でとらえていた。
「何だ、あれ。誰か乗っているのか?」
「幽霊船だ!」
ぼろぼろの帆をマストにぶらさげた船は、船首からのびる円材も折れ、ところどころ破損しているようだった。
その船は、甲板上に人の気配はないのに、まっすぐにさきがけ号に迫ってくる。
船が接舷すると、無人と思われた船から次々に人が飛び移ってきた。
その姿に若者たちは震え上がった。
さきがけ号に乗り込んできた男たちの肉は腐りかけ、骨がむきだしになっていた。
ヒラクは縄ばしごを上ってきた腐臭ただよう男に足をつかまれた。
下を見下ろすと、帆綱を斧で断ち切ろうとしている亡者たちとそれを阻止しようとするキッドの姿が見える。
足をつかんだ腐臭の男はヒラクにおぶさった。
ヒラクは一か八かで向きを変え、においに耐えながら男にしがみつき、キッドを取り囲む亡者たちめがけて落下した。
「キッド、よけて!」
キッドがよけるのと、ヒラクが亡者たちを腐臭の男の下敷きにするのはほとんど同時だった。
「無茶するなよ」
「大丈夫だって」
ヒラクは笑うが、すぐさま危険が後ろに迫っていた。
骨だけの手に短剣を持った男が襲い掛かってくる。
ヒラクは揺れる甲板の上で足をよろめかせる。
「ヒラク、後ろ!」
キッドの声でヒラクは振り返った。
一瞬の雷光を受けて剣が目の前を走った。
それはジークの剣だった。
骨だけの男は甲板にうつぶせに倒れて動かなくなった。
キッドは倒れた男が持っていた短くて刀身の幅が広い剣を手に取ってジークに渡した。
「これ使えよ。そんなでかい剣振り回してちゃ、船の上では闘えないぜ」
ジークは不服そうだったが、おとなしく短剣を受け取った。
そのとき、足元で倒れていた男がむくりと起き上がり、ジークの手から短剣を取り戻そうと襲い掛かってきた。
ジークはすぐさま応戦する。
けれども何度倒しても男は起き上がってきた。
それが死人であることの証明であるかのようで、ジークはおぞましさに顔をしかめる。
いつまでも終わりのない戦いに、生者である若者たちは身も心も消耗していくばかりだ。
「きりがない、船から落とそう」
ヒラクはキッドと一緒に倒れた直後のがい骨を運んで海に投げ込んだ。
二人に襲いかかる亡者たちを次々とジークとゲンが倒していく。
剣の達人であり好戦的な蛇腹屋も負けてはいなかった。
手風琴を胸の前にぶらさげたまま、両手に持った短剣で剣舞でも舞うように嬉々として軽やかに亡者たちを倒していく。
キッドの指示で、若者たちは、濡れた甲板で足を滑らせながら、倒された亡者たちを海に投げ込んでいった。戦闘員としては役に立たない若者たちは、腐臭と視覚的不快さに耐えながら、せめてもの働きをしようと必死だ。
しかし接舷した幽霊船からは絶えず亡者が乗り移ってくる。
ヒラクたちの体力も限界だった。
そのとき、甲板上にユピが姿を現した。
「ユピ、危ないよ、下に隠れてないと」
ヒラクはユピに駆け寄った。
「大丈夫だよ。僕は闘う気がないから」
平然とした顔でユピは言った。
「何言ってるんだ。こいつらにそんなの通用するもんか」
言っている間にも一人、二人と亡者がヒラクに襲い掛かる。
ジークはヒラクのそばを離れず、かばうようにして闘い続けた。
「ほら、言わんこっちゃない」
ヒラクは言うが、ユピはまったく動じていない。
「彼らは僕を襲ったんじゃない。君を襲ったんだ。それは君が襲いかかるのを望んでいたからだ」
「そんなわけないだろう」
ヒラクはわけがわからず混乱した。
そんなヒラクの様子を見てユピはくすりと笑う。
「望んでいたって言い方では伝わらないか。予期していると言った方がいいかもしれない。襲うはずがないと思ってごらん。そのようになるから」
「そんなこと言われても……」ヒラクは戸惑った。
「僕の言うことが聞けないの? だから君の勾玉は光らないんだ。勾玉の光さえあれば、この悪夢からもすぐに抜け出せるというのに」
ユピは責めるように言うと、うつむくヒラクのあご先を指で上向けて、じっと目を見て微笑んだ。
「君の勾玉は光るよ。僕がそれを望むから。君の望みは僕の望みだ。そのように心で思ってごらん」
「おれの望みはユピの望み……」ヒラクは言葉を繰り返した。
「そうだよ。そうすれば勾玉は光を取り戻す。僕の望みに応じてね」
「勾玉が光ればこの状況から抜け出せる?」ヒラクはユピに尋ねる。
「抜け出せるよ。僕の言葉を君が信じることができるなら」
ユピはぞっとするほど美しい妖艶な笑みを湛えてヒラクに言う。
「おれの望みはユピの……」
「ヒラク!」
キッドがユピとヒラクの間に割って入った。
「こんなところでぼうっとしてんなよ。やられたいのか!」
「やられないよ。やられるって思わなきゃいいんだ」ヒラクは言った。
「何だ、それ?」キッドは訝しげにヒラクを見る。
「だって、ユピがそう言うから……」
「ユピが言えばそうなるのかよ!」
キッドは大声でヒラクを怒鳴りつけた。
「いい加減にしろ。目の前の現実から目をそむけるな。臆病風にでも吹かれたんじゃないのか」
その言葉にヒラクはムッとした。
「そんなんじゃないよ。何が目の前の現実だ。おれはもうずっと前からこんなものは目にしてきたんだ。目で見えてるものだけが確かにそこにあるっていうわけじゃないんだ」
ヒラクは大声で叫んだ。
すると急に接舷する幽霊船の姿が雷雨にかすんで見えなくなった。
同時に足元の亡者たちが姿を消していく。
嵐は嘘のように晴れ、若者たちは照りつける太陽を浴びながら、しばらく放心状態だった。
「もう嫌だ……帰りたい」
「次は一体何が起こるんだ?」
若者たちの泣き言を聞いてヒラクは思った。
(何か起こるって思ってるから次々と色々なことが起こるのかな……)
ヒラクはすっかりユピの言葉に影響されていた。
「何も起こらないよ。危険もない。おれたちは無事だ。それでいいじゃないか」
ヒラクは不安を吹き飛ばすように言った。
「でも、これまで起きてきた出来事はどう説明するんだ?」カイはヒラクに言った。
「なかったことになんてできない。全員が同じ体験をした。それが事実だ」
リクの言葉に若者たちはうなずく。
なかったことにできないのはヒラクもよくわかる。
何より、自分だけが見てきた水の記録とどう関係するのかが気になる。
「それは、おれだって、なぜあんなことが起こったのか知りたいところだけど……」
それを誰が教えてくれるというのか……ユピならすべてわかるのか……。
ヒラクの中で芽生え始めた依頼心が、自分以外の誰かなら疑問を明らかにしてくれるだろうという思いを生んでしまう。
そのとき突然、見張り台にいた若者が叫んだ。
「おい! 前方にまた何か見えてきたぞ」
若者たちは舳先から身を乗り出し、その先にあるものを確かめようとする。
それは海面を漂う流木の一群に見えた。
よく見ればそれは一つ一つが小船の上に作られた小屋であることがわかる。
小屋の窓から姿を見せた人々が船に向かって手を振っている。
屋根に上がって、果物やら野菜を掲げて示す者たちの姿も見えた。
「おい、あれは何かの罠か?」
カイは岩場の美女たちをみつけたときよりも慎重になっていた。
「罠なら罠でいいでげす。奴らの食糧を奪ってやるだけでげす」
蛇腹屋は両手の剣を研ぎ合わすようにして言った。
「罠じゃない。彼らは攻撃をしかけてなんかこない」ヒラクはきっぱりと言った。
「なんでそう思うんだよ」キッドはヒラクに言った。
ヒラクは甲板上の全員を見渡した。
誰もがへとへとに疲れきっている。
「……みんながそれを望んでないからだよ」
キッドや他の者たちはヒラクの言っていることの意味がわからず不可解な顔をしたが、ユピだけが一人、ヒラクの言葉を聞いて満足そうに微笑んだ。
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【登場人物】
ヒラク……緑の髪、琥珀色の瞳をした少女。偽神を払い真の神を導くとされる勾玉主。水に記録されたものを読み取る能力や水を媒介として他人の記憶に入り込むことができる能力がある。最初の勾玉主である黄金王が手に入れたという神の証とされる鏡を求めて、勾玉の光が示す南を目指すが、赤い勾玉主である神王は剣を求めていたことを知り混乱する。
ユピ……青い瞳に銀髪の美少年。神帝国の皇子。ヒラクと共にアノイの村で育つ。ヒラクが目指す鏡は神帝国では神託の鏡と呼ばれていることを知っているがヒラクには告げない。言葉でヒラクを支配し依存させようとしている。
ジーク……勾玉主を迎えるために幼いころから訓練された希求兵。ヒラクに忠誠を誓うが、ユピに対して強い警戒心を抱いている。海賊に奴隷売買されていた歴史のあるネコナータ人であることから、海賊を嫌っている。
ハンス……ジークと同じ希求兵の一人。成り行きでヒラクの旅に同行しているが、頼りになる存在。ジークに匹敵する戦闘能力をもつ。
キッド……海賊島の女統領グレイシャの一人息子。三年前呪術師の島に来た時から髪が四季のように変色し最後には抜け落ちるようになった。
リク……三兄弟の長男。バンダナの色は黄色。温厚で面倒見がよい。
カイ……三兄弟の次男。バンダナの色は赤。気が荒くけんかっ早い。
クウ……三兄弟の三男。バンダナの色は青。クールで人のことに興味がない。
ゲン……刀傷で片目が塞がった白髪交じりの初老の海賊。他の海賊たちからの信望も厚く、グレイシャにも頼りにされている。
蛇腹屋……誰とも群れない謎の海賊。手風琴を演奏する音楽家だが剣士でもあり腕が立つ。
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