第13話 悪魔の青い火

 海賊島の周囲の澄んだ碧緑の海の色が次第に青を濃くしていき、群青色から藍色に、深く、重くなっていく。

 ヒラクは海の色は空の青を映しているのだと思っていたが、海の底には空より青いものが沈殿しているのだと思うようになった。

 海のうねりはその青いものを重たげに持ち上げようとしているかのようだ。


 船は絶えずうねりの中で上下する。

 うねりが海面に盛り上がる瞬間、その頂きは、海賊島の周りで見るような碧緑色に明るく輝く。

 そしてその碧緑の頂は、船の近くで真っ白な飛沫になって砕け散る。

 ヒラクはその白い飛沫は塩でできていると思い、だから海水はしょっぱいのだと納得した。


 ヒラクは海の水を不思議に思いながら、ほとんど一日中、甲板の上にいた。

 周りの景色はこれといって変わりなく、海賊島を離れてからは空と海が延々と続くだけだ。

 人の視界で見渡せる範囲というのは限られている。

 船を中心に半径二海里ほどの円盤上の海の上に常にいるような感じで、太陽の位置と雲の変化で移動しているのがわかるといった感覚だ。


 海賊島を出て一日目はあっというまに過ぎた。


 旅の始まりはすべてが新鮮で、疲労を忘れさせてくれる。

 前日の酔いを引きずることもなく、若者たちは酒を浴びるように飲み、夜を陽気に過ごしていた。


 その後も船は順調に風に乗り、南に向けて帆走した。

 しかし、航海そのものを楽しいと感じる時期は徐々に過ぎ、若者たちは疲労を紛らわせるために酒を飲むようになっていった。


 二週間が過ぎ、さきがけ号はついに南海域に入った。


 太陽が垂直に照りつけるようになり、甲板の若者たちはうつむきかげんにのらりくらりと働いた。

 クウは舵手として後部甲板の下で舵取りをしていたが、舵をあやつる必要はなくても持ち場を離れようとはせず、太陽の直射を避けていた。

 ヒラク以外の人間と関わろうとしないユピも、ほとんど甲板上に上がることはない。ユピは、一日の大半を薄暗い甲板下の隅で過ごし、船体がきしむ音をうるさく耳にしながら、男たちの汗や酒の臭いの入り混じる悪臭に耐えていた。

 ヒラクは船尾甲板で、航跡を追いかけるようについてくるイルカの群れを眺めたりしていたが、それ以外には特に目新しいものもなく、すでに海の眺めにも飽きていた。


「スコールがくるぞ」キッドが叫んだ。


 風上に黒い雲が見えてきた。

 ゲンは雲の方向を甲板下のクウに伝える。

 クウは、風上一杯に舵柄を向ける。

 カイはマストに登り、激しく暴れる馬を押さえる度胸と慎重さをもって帆をたたむ。

 クウは今までさぼっていたつけがまわってきたかのように舵柄を握って舵を切るのに必死だ。


 やがてどしゃぶりの雨が降り出した。

 甲板上の若者たちの中から歓声が沸き起こる。

 ヒラクもどこかで定期的にくるスコールを待っていた。

 荒っぽい雨のシャワーを全身に浴びながら、ヒラクは目をつぶって空を見上げ、口を大きく開けた。船に積んである生ぬるい水よりもずっと心地よい雨だった。


 やがてスコールは通り過ぎ、キッドの「針路をもとに戻せ」の掛け声で再び帆は張られ、先ほどと同じ光景がまた繰り返された。

 しかし照りつける太陽の暑さは先ほど以上で、濡れた衣服もすぐに乾いてしまった。


 しかし、うれしいスコールばかりでもない。


 出港から四週間ほど経ったある夜のこと、大雷雨が船を直撃した。


 その夜、風は次第に弱まって、そのうちまったくの無風状態になり、空には星一つなく、分厚い黒雲が全天をおおい隠した。

 不気味な静けさと生ぬるい空気、虚無を感じさせるほどの真っ暗闇の中、ヒラクはあるものを目に捉えた。


「キッド、上を見て!」


 その声で甲板上の全員が、マストの先端から立ち上る青白い火を見た。


「悪魔の青い火だ……」


 キッドはごくりと息を飲んだ。


 青白い火は帆桁の先端からも噴出している。

 甲板上の全員がこれに気を取られていたのも束の間、雨がぽつぽつと降り始めたと思うと、低い雷鳴が聞こえてきて、稲妻の光が迫ってきた。


 いっせいに帆が取り込まれた。


 やがて空を切り裂くような稲光と体の奥で反響するような雷鳴が同時に来襲した。

 頭上の黒雲が一気に雨水をぶちまける。

 甲板上で全員が呆然と立ちすくんでいる。

 絶え間ない閃光で昼間のように海上が照らし出される。

 そのたびに仲間たちの情けない顔がお互いの目に入る。

 いつもの虚勢や強がりもどこかにいってしまい、怖気をからかう気もおきない。


「ヒラク……」


 甲板上にユピが現れた。


 閃光の中、ユピはヒラクの姿を確かめ、よろめきながら近づいてきた。


「ユピ、どうしたの? 危ないよ」


「どうしてすぐ僕のところに来てくれないの?」


 ユピの悲しそうな顔が閃光に照らされて、ヒラクの目の中でちらつく。

 ずぶ濡れのユピは全身で泣いているかのように見える。

 そしてユピはすがるようにヒラクにしがみついた。


「ヒラク、約束してよ。僕を一人にしないって。この世の終わりのときには僕と二人きりでいてくれるって」


 まるで発作でも起こしたかのようなユピの激しさにヒラクは戸惑いながらも、このような状況ではしかたないと思った。


「はなせ! いいからはなせよ!」


 雷鳴が轟く中、切れ切れにキッドの声が聞こえてきた。


 ヒラクが見ると、キッドは縄ばしごを登り、マストの上に行こうとしていた。

 リクたちがそれを必死に止めていた。


「何考えてるんだよ、気でも狂ったか?」カイが言った。


「これは悪魔の嵐なんだ。だから悪魔に頼んで鎮めてやる」


 キッドはカイの手を払いのけて叫んだ。


「悪魔に頼むって何する気だ」


 リクは、すかさず縄を登ろうとしたキッドを引きずりおろした。

 それでもキッドはあきらめない。


「俺の髪を捧げるんだ。呪われた俺の髪だ。きっと効果絶大のはずだぜ」


 海賊たちの慣習で、嵐を鎮めるためにマストの先に登り、悪魔に体の一部を捧げるというものがある。

 昔は指や耳を切り落とすといったこともあったようだが、いつのまにか髪の毛でもかまわないとされるようになっていた。


「行かせろって。はなせって!」


 キッドはリクたちの手をふり払いながらわめく。


「キッド!」


 ヒラクはびしょぬれの甲板の上で足をすべらせながらキッドのそばに駆け寄った。


「何やってるんだよ、危ないじゃないか」


「いいからヒラク、ほっといてくれ。俺は船長なんだ。この船を守る義務があるんだ!」


 そう言って、キッドはナイフを取り出して、自分の赤い髪の一部を切り落とした。 

 そしてその髪を握る手を高々と上げ、空に向かって叫んだ。


「さあ、悪魔よ、俺の髪だ。持っていけ!」


 その声をあざ笑うかのように雷雨は一層激しくなる。


「ちきしょー、上まで登らないとやっぱりだめか」


 キッドは縄ばしごに足をかけた。

 そのとき、キッドの手をそっとつかんだのはユピだった。


「悪魔に願いを叶えてもらうには、それなりの代償を払わなければならないよ」


 キッドはつかまれた手から何か冷たいものが全身に走るのを感じてぞくっとした。


 ユピは目を細めて笑う。


「髪がダメなら、目か耳か……それとも命そのものか」


 そのとき、空が震えるほどの大音響で雷鳴が光った。


「勇気ある船長ならば、船のためにその命さえ投げ出せるものだ」


 その言葉はキッドの耳にだけ届いた。

 キッドは意を決したように下唇をきつくかみ、ユピの手を振り払うとそのまま勢いよく縄ばしごを上がっていった。

 三兄弟が止める間もなかった。

 後を追えばさらに激しく縄は揺れ、キッドを振り落としてしまう。

 嵐に翻弄される船の上ではちょっとしたことが命取りだ。


 兄弟が躊躇する中、ヒラクがキッドの後を追おうと縄ばしごに足をかけた。

 カイはいち早く気づき、ヒラクを止める。


「何やってるんだ、おまえまで。危ないだろう!」


「はなしてよ。キッド一人でなんて行かせない。約束したんだ。生死を共にするんだって!」


 その言葉にユピの心は凍りついた。

 人形のように無表情な白い顔が雷光に照らされる。


 ヒラクは駆けつけたジークに押さえつけられながら、じたばたともがいてキッドの名を叫んだ。


 高所に達したキッドは、まるで一身に嵐を受けているかのように感じていた。

 容赦ない雷雨にさらされて、落雷で悪魔が自分の命を奪ってしまうのではないかとすら思った。


 その時、雷光に照らし出された黒い島影が、キッドの目の中に飛び込んできた。


 キッドはするすると縄ばしごを降りてくると、甲板上の全員に向かって叫んだ。


「見えた! 島だ! 呪術師の島だ!」


 やがて雨は小降りになった。


「この嵐をやり過ごせば明日には到着だぜ!」


 意気揚々と語るキッドにヒラクが急に飛びかかった。

 ヒラクはキッドの背中を甲板に押し当てて馬乗りになると、上から顔を見下ろして叫んだ。


「死んじゃうかと思ったんだからな。何が生死を共にする覚悟だよ。隣にいなきゃ、落ちそうになっても、助けることなんてできないんだからな」


 ヒラクは泣きそうな怒ったような顔をしていた。

 本気で心配しているのが、キッドにも伝わってくる。


「いつも勝手に行動するおまえに言われたくねーよ」


 キッドは上体を起こすと、決まり悪そうにえりくびのあたりをかいた。


 その後も雷鳴は数時間続いた。


 だが、キッドはもうマストの上に登るとは言い出さなかった。


 大洋を震わす雷鳴の中、若者たちは怖気る心を鼓舞するように甲板下で酒を飲み交わしていた。

 ゲンたち年長者は船の状態を見回りつつ、嵐が過ぎるのを待っていた。


 甲板の上にいるのは、ヒラクとキッド、甲板下の喧騒を避けるユピ、そしてヒラクの護衛のジークとハンスぐらいのものだ。


「髪の毛を代償にしたぐらいじゃ、雨を止めるのが精一杯だったってことかな」


 キッドはヒラクに言った。


「なんで悪魔にお願いするの?」


 ヒラクは不思議そうに尋ねた。


「願いを叶えてくれるなら、神でも悪魔でも何でもいいんだ。ただ悪魔の方が交換条件で動いてくれるってそれだけさ」


「交換条件って、何かをあげたらお返しに何かしてくれるってことでしょう? それならそういう神さまもいっぱいいるよ。祈らなきゃ助けてくれない神さまだって同じだよね?」


「祈ると願うはちがうだろうよ。少なくとも単語はちがう」キッドは言った。


「でも祈りながら願ってるって人はいっぱいいるよ。悪魔の交換条件と何がちがうの? 生贄を望む神さまと悪魔は何がどうちがうの?」


 ヒラクはこれまで出会ってきた神と呼ばれた存在と信仰者たちのことを思い出していた。


 キッドは難しい顔をする。


「おまえって、ときどきへんなこと言うよな。俺、あんまりそういうのよくわかんねぇよ。神とかそんなのいるのかどうかなんて考えたこともねぇし」


 そのときキッドは突き刺さる視線を感じた。

 振り向くと、先ほどからずっとこちらの様子を見ているユピと目があった。

 雷光に浮かび上がるずぶ濡れのユピの姿には不吉さを感じさせるような美しさがある。まるでその全身から青白い悪魔の火が立ち上ってくるかのようだ。


「でも俺……悪魔はいると思う」キッドはユピを見て言った。


「何? 聞こえないよ」


 キッドのつぶやきは雷鳴にかきけされ、ヒラクの耳には届かなかった。


 さきがけ号は嵐の中をじわりじわりと進んでいく。


 キッドが呪いをかけられた呪術師の島はもうすぐ前に迫っていた。


・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・【登場人物】

ヒラク……緑の髪、琥珀色の瞳をした少女。偽神を払い真の神を導くとされる勾玉主。水に記録されたものを読み取る能力や水を媒介として他人の記憶に入り込むことができる能力がある。かつて黄金王が手に入れたという神の証とされる鏡を求めて、勾玉の光が示す南を目指す。


ユピ……青い瞳に銀髪の美少年。神帝国の皇子。ヒラクと共にアノイの村で育つ。ヒラクが目指す鏡は神帝国では神託の鏡と呼ばれていることを知っているがヒラクには告げない。目的は不明だが、ヒラクに対して強い執着がある。


ジーク……勾玉主を迎えるために幼いころから訓練された希求兵。ヒラクに忠誠を誓うが、ユピに対して強い警戒心を抱いている。誇り高い戦士であるため、野卑で粗野な海賊たちのことを快く思っていない。


ハンス……ジークと同じ希求兵の一人。成り行きでヒラクの旅に同行しているが、頼りになる存在。もともと港の人夫として神帝国に潜入していたことと調子の良さで海賊たちとは打ち解けやすい。


キッド……ヒラクと同じ緑の髪をした少年。海賊島の女統領グレイシャの一人息子。母親のことは苦手。四季のように変色し最後には抜け落ちる頭髪に悩み、かつて呪いをかけられた呪術師の島をめざす。


リク……三兄弟の長男。バンダナの色は黄色。温厚で面倒見がよい。


カイ……三兄弟の次男。バンダナの色は赤。気が荒くけんかっ早い。


クウ……三兄弟の三男。バンダナの色は青。クールで人のことに興味がない。


ゲン……刀傷で片目が塞がった白髪交じりの初老の海賊。他の海賊たちからの信望も厚く、グレイシャにも頼りにされている。


グレイシャ……海賊島の統領。ルミネスキ女王からも一目置かれた存在。かつて中海を支配した伝説の海賊であった夫との間に生まれたのがキッドである。

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