島先生のピアノ

ふじこ

 島先生が住んでいる場所を誰も知らない。

 こないだ大雨で帰れなかったね、なんて話していたらふとそんな話になった。この間の大雨の日も練習で、島先生はピアノを弾きにやってきていた。練習を中止にすれば良かったのに、今年の正指揮者は頑固で融通が利かない。みんな、練習が終わる頃には電車が止まっているだろうと分かっていたから、大学に泊まる用意をしてきていた。少し楽しんでいたのは内緒だ。みんな分かっているけど。

 その日の島先生はというと、外で大雨が降っているのをまったく感じさせない出で立ちだった。ゴールドのラメが入ったベージュのバレエシューズ、あじさい柄のたっぷりとしたシフォンスカート、半袖の白いサマーニット。島先生が練習室にやってきた時間でさえ雨はしっかりと降っていたはずなのに、スカートも靴もちっとも濡れていないように見えた。雨がやんだのだろうかと思った。島先生がたたんで持っていた蛍光イエローのビニール傘はぼとぼとに濡れていて、そんなことはないのだと分かった。

 せっかく雨だからと、だれかが高田三郎の「雨」を歌おうと言い出した。去年、客演の先生が指揮をして定期演奏会で歌ったところだから、みんな歌えるのだ。島先生は、みんなの呟きを拾って「弾けるかなあ」と少し不安げに、曲のはじめの和音を鳴らした。きれいな音だった。島先生のピアノの音はいつもきれいだ。ぽろん、と傘を小さな雨粒が叩くように、練習室にピアノの音色が響いた。

 降りしきれ雨よ、降りしきれ。誰も指揮をしない中、島先生のピアノに先導されるように、私たちは歌った。誰も楽譜を持っていない、記憶を頼りにしながらの合唱だった。互いの声を探りながら、互いの息の音を聞き合いながら、歌詞を間違えた誰かにみんなで穏やかに笑いながら、「雨」を歌った。曲の中の雨は静かに、音もなく降りしきる、細い糸のような姿をしているけれども、現実に練習室の外で降る雨は、私たちが歌う間にも勢いを増していた。大粒の雨が窓ガラスに叩きつけるのを見ながら、私も静かな「雨」を歌っていた。すべてをその者に、その者の手に。手に。内声によるリフレインを終えて、ピアノの後奏が続く。はじまりの和音と同じ和音をポロロロロロロンと弾き終えて、島先生はピアノの鍵盤から指を離した。どこからともなく小さな拍手が起こったのは、誰も楽譜がない中でやり遂げたことをお祝いするためだったのだろう。拍手がまだ続く中で、正指揮者が「じゃあ練習始めまーす」と叫んで、みんなで「はーい」と返事をして、バラバラに立っていたのが、パートごとにまとまって並び始めた。島先生は、ピアノの椅子に座ったまま、床に置いた淡いグレーのカバンから楽譜を取り出していた。たっぷりとしたシフォンスカートの生地に先生のおしりが埋もれていて、あじさいの花の中に座っているみたいだった。

 結局、練習が終わる頃には、予報どおりの土砂降り、土砂という言葉では足りないぐらいに雨が降っていた。岩礫降りとでも名付けようか。男声達は正指揮者に冗談まじりの文句を言って、女声はなまぬるいまなざしを彼らに向けていた。みんな分かっていたことなのだ。うきうきしながらお泊まりセットを用意してくるぐらいには。

 ただ、島先生がそうではないことに、私たちの誰もが気付かなかった。気付かなかったことに気が付いたのは、島先生が「じゃあ、私はこれで」と、淡いグレーのカバンを肩に掛けて、蛍光イエローのビニール傘を持って、いつものように練習室を出ようとしたときだった。せめて、島先生にだけでもお休みしてもらえば良かったのだ。

「でも、島先生、電車が」と言ったのは、まさか本当にこんなに降ると思わなかったと少し笑いながら男声の責めを受けていた正指揮者だった。彼が言いかけたとおり、大学の最寄り駅のある路線は、大雨で運休している。それも計画運休で、夕方から夜に掛けて徐々に本数を減らした末の運休だった。

「大丈夫。電車は使わないから」

「車ですか」

「ううん。運転免許は持ってないの」

「何使って帰るにしても、すごい雨ですよ。少しでも弱まるまでここに居たら」

「さっきニュースを見たら、これからどんどんひどくなるって言っていたよ」

 テノールとベースのパートリーダーにも悠々と言い返して、島先生は「いいなあ、部室にお泊まりかあ。青春だね」とにこにこしながら言った。毒気を抜かれる声だった。嫌みとかでもなく、島先生は、本当に「いいなあ」と思っているだけなのだ。そういう風に話せる島先生を、私たちはみんな好ましく思っている。だから、岩礫降りの大雨の中に出て行こうとする島先生を、誰彼なく引き留めたくなるのだろう。

 島先生はそういう私たちの思いを知ってか知らずか、にこりと笑ったままで「傘があるから大丈夫。それじゃあ、また次の練習で」と言い、練習室のドアを開けた。ドアの向こうは真っ暗闇で、少し間を置いて人感センサーで蛍光灯の明かりがついた。島先生は、あじさい柄のシフォンスカートをふわりとさせながら、ビニール傘を腕にかけたまま、少しだけこちらを振り返って片手をひらりと降った。蛍光イエローの傘の先端が、指揮棒みたいに揺れていた。

 急に、見知らぬ場所に取り残されたような、不気味な心細さを覚えて、体が震えた。みんなも同じだったのかは分からない。誰かが「雨」を歌い出したのは、練習が始まる前の島先生のピアノを思い出したかったからかもしれない。ドアの近くで所在なさげにしていた正指揮者が指揮をして、結局、みんなでもう一回「雨」を歌った。それから、めいめいが買ってきた夕飯を、時々交換しながら食べて、歯磨きやら洗顔やらを交代でしに行って、日付が変わるぐらいまで、ともかく雨が弱まるかをみんなで待った。島先生が言っていたとおり、雨はひどくなるばかりだったので、結局、当初の予定どおり、練習室の床に銀色のアルミシートや真新しいブルーシートを引いて、あるいは、パイプ椅子を並べて即席のベッドを作って、眠ることにした。翌朝、目覚めたときには雨はやんでいた。

 結局、あの日、島先生はどうやって帰ったんだろうね。私たちの疑問はそこから始まって、「島先生はどこに住んでいるんだろう」という別な疑問に発展して、その場に居たみんなで答えを探しても分からなくて、「誰も島先生が住んでいる場所を知らない」ということが分かった。

 ちょっと不思議な感じだった。私たちは、団員同士は、例えば打ち上げで酔い潰れて自力で帰れなくなってしまったときに家に無事送り届けるために、互いの住所をそれとなく知っている。顧問の先生は、なんでもかんでも明け透けに話す人なので、練習の合間に語られるプライベートの過ごし方で、なんとなく住んでいる場所は察せられる。でも、私たちの誰も、島先生の住んでいる場所を知らない。酔い潰れた島先生を家に送る必要もなければ、練習のときに島先生がプライヴェイトを語る隙もないからだ。それでも私たちと島先生は、一緒に活動していける。

「島先生、聞いたら教えてくれるんかな」

 どうだろう、と私たちは首をひねった。島先生はいつも穏やかだ。練習室に来てすぐに初見の曲の伴奏をお願いしたときでも「ええー。困ったなあ」なんて言いながら、ピアノの椅子の高さを調整して腰掛けると、さらりと弾いてくれる。ミスタッチが多かったときは「ごめんね、みんな。次までにもっと練習してくるね」と、大げさなほど謝ってくれる。ともかく、島先生は、いつだって声を荒げることなく、おおらかな人なので、直接尋ねても怒ることはないだろう。でも、教えてくれることもないような気がする。

 私がそう言うと、みんなも頷いた。それなのに、誰が聞いてみるか決めよう、なんて誰かが言ってじゃんけん大会が始まる。もう、全く、文脈なんか無視したその場のノリだ。それも、正指揮者が前に立ってのじゃんけん大会だ。正指揮者に勝った人が残っていく、その構図自体は、話の発端からしたら正しいと思う。気付いたら私以外はみんな椅子か床に座っていて、私だけ一人で、正指揮者に向けて間抜けに右腕を掲げている。

「なんで勝ち上がり?」

「分からない。今になってそれを聞くか」

「島先生のことは気になるけど、でも、それ聞いて嫌われたくはないじゃん」

 正指揮者は一瞬、言葉に詰まった。その反応がすべてだ。彼も同じように思っている。たぶん、彼以外の何人かもそうだ。島先生は、この合唱団にピアニストとしてずっと通ってくれている。けど、常に一線を引いている。プライベートを語らないのも、打ち上げの類に一回も参加したことがないのもそうだ。どうしてそうなのかという理由を尋ねることもためらわれる。はっきりと、言葉にして拒絶されたわけでもないのに、尋ねてはいけないと思うのは不思議だった。踏み込みすぎたら嫌われてしまうのではないかと不安に思っているのも、不思議と言えば不思議だ。ただの、ピアニストの先生なのに。

「じゃあ、負けた方が島先生に聞く。貧乏くじだ」

「分かった。恨みっこなしだよ」

 最初はグー、のかけ声と一緒に、頭の上から振り下ろした手を拳に握る。じゃんけんぽん、のかけ声と一緒に、ピースサインを作って正指揮者に向けて腕を掲げる。正指揮者も同じように腕を掲げていて、その手は拳を作っていた。チョキとグー。私の負けだ。正指揮者が小さくガッツポーズをしている。ピースサインを作ったままの腕を引っ込めて、胸の前で自分の手をまじまじと見てみる。爪を切るのをサボってしまった。手のひら側から見ても、指先から、伸びすぎた爪が白く見えている。

「島先生、怒らないかなあ」

「怒りはしないでしょ。小原の言うとおり、教えてくれそうな気もしないけど」

「怒らないけど教えてくれないって、どういう状況」

「さあ」

 同じパートの友達が、しゃがんだままで首を傾げる。他の子もしゃがんだままだったり、立ち上がったりしながら、私が島先生に住んでいる場所を聞いたらどうなるか、を予想し始める。はぐらかされる、話を逸らされる。まあそうなりそうな気がする。聞こえなかったふりをする。なるほど。質問し返してくる、それははぐらかされるのバリエーションではないか。ぱんぱんと、誰かが手を叩く音。正指揮者だ。

「はい、前座は終わり。練習するよ」

 はーい、あー、おう、みんながばらばらに好きな返事をして、辿り着く姿勢は同じ。立ち上がって、隣の人と腕がぶつからない程度の距離を取る。「じゃあ体操から」と、いつの間にか正指揮者の隣に居たテナーのパートリーダーが言って、腕を上げて頭の上で手を組み、空気を押し上げるような仕草で、背伸びをする。みんなでそれを真似する。五限分たっぷり授業を受けてきた体はがちがちに凝り固まっていて、こうして体を開かないと楽に歌えない。

 ただ、体操はいつも同じことをやるから、体を動かしながら頭の中は自由だ。島先生に、どうやって住んでいる場所を聞いてみようか、考える。島先生は、今日、水曜日の放課後と、土曜日の午前の練習に来てくれる。今日も、体操と発声が終わる頃には、練習室のドアを開けてやってくるだろう。話すのは大抵、指揮者とかパートリーダーとか、後は、席が近いソプラノのメンバー。私も、どちらかというと島先生と話す回数が多い側だ。名前を認識されているとまでは思わない。私たちには島先生は一人でも、島先生から見たら私たちはたくさんだ。

 脚を交差させて、前屈をする。脇腹がつりそうになるのを感じながら、呼吸を止めないことだけ心がける。前から聞こえてくる合図で一回、体を起こして、脚を組みかえて、もう一度前屈。地面に指先がつく。伸びた爪が目に入る。ああ、今朝切っておくんだった。ひとり暮らしって、自由できままだけど、こういうのを注意してくれる人が居ないということでもあって、油断するとどこまででも堕落していきそうになってしまう。

 立ち上がって、もう一度伸び。もう一度、もっと大きく伸び。「やめ」という声で、みんなが一斉に腕をおろす。弛緩した空気の中で、ゆっくり首を回しながら、引き続き島先生への尋ね方を考える。島先生は、今日はどんな服を着てくるだろう。

 ゆっくりと、気遣わしげに練習室のドアが開く。そろっと練習室に入ってきたのは、島先生だった。今日は、チャコールグレーのブラウスに、あじさい柄のシフォンスカート。大雨の日に着ていたのと同じスカートだ。

「ごめんなさい、ちょっと早かったね」

 早口にそう言って、島先生は、壁に背中をつけたまま、そろりそろりと歩く。壁際のパイプ椅子を引き寄せて腰掛ける。ピアノの方へ行かないのは、これから発声練習があるから、気を遣ってくれているのだろう。アルトのパートリーダーが、島先生の方を向いて会釈をしながら、ピアノの椅子に座り「じゃあ、発声しまーす」と、女子にしては本当に低い声で合図をした。

 ピアノが奏でる音階に合わせてハミング。はじめは声がうまく抜けなくてむずむずする。練習室のカワイのグランドピアノは、どれくらいの頻度で調律しているのか分からない。古い卒業生が寄付してくれたもので、調律もいつかの卒業生がしてくれているとは聞く。私は音感が鋭い方ではないから、いつもそんなに狂いを感じずに聞いている。

 音階のパターンが変わるので、次は口を開いて適当な母音で声を出す。島先生の方を見ると、膝の上に楽譜を開いて眺めている。あじさい柄のシフォンスカートの布地は今日もえらくたっぷりしていて、やっぱり島先生があじさいの花の中に座っているみたいに見えた。シルバーの靴の爪先が、音を立てずにリズムを刻んでいる、ように見える。今日練習する曲のどれかだろうか。

 島先生のピアノの音はいつもきれいだ。発声練習でパートリーダーが音階を鳴らすときの音とは全然違う、客演のピアノの先生が鳴らす音とも全然違う。小さな雨粒が傘を叩くときのような、金平糖を瓶から小皿にこぼしたときのような、慎ましやかでささやかで、合唱に寄り添ってくれるような音。島先生のピアノが好きだ。このサークルに入ったのは、新入生勧誘のコンサートで聞いた、島先生のピアノがきっかけだった。大学に入って合唱を続けるかも決めていなかったし、合唱を続けるとしてもどのサークルに入るかは本当に、全然、全く決めていなかった。コンサートで聞いた、木下牧子の「春に」。前奏のピアノの、あたたかさ。曲を聞くにつれ、このピアノと一緒に歌ってみたい、と思った。他のどのサークルよりも、一番、このサークルで歌いたいと思った。サークルに入る前に、島先生が普段からこのサークルでピアノを弾くかどうかを当時の部長に確認しにいったら、「君もか」と笑われた。当時の部長も、私と同じように、島先生のピアノで歌いたいと思ってこのサークルに入った人だった。この人の指揮で歌いたい、とか、この人と一緒に歌いたい、とか、じゃなくって、この人のピアノで歌いたい、って、たぶん珍しい動機だろう。島先生はうれしいんだろうか、という疑問も浮かんだけれど、あまり考えないようにした。それを判断するのは島先生だ。

 島先生が来る日は、発声練習の後、すぐにアンサンブルを始める。最近は副指揮者の曲ばかりだ。正指揮者が今年とりあげる曲は、ア・カペラばかりなもんだから。副指揮者が「SATBで並んでください」と声を張るのを聞きながら、楽譜と筆記用具と飲み物を持って、練習室の右端の方に移動する。舞台でいうと下手側。ささっと、一番端の前から二列目に陣取る。物言いたげなパートリーダーと目があったけれど、無視。今日は考え事もしなきゃいけないんだから、歌いやすい場所で歌わせてほしい。本当にお小言をもらう前に、楽譜を開く。上田真樹の「夢の意味」。島先生がピアノの椅子に座っている。副指揮者と笑顔で言葉を交わしながら、譜面台に楽譜を広げている。一曲目の前奏を、ペダルを踏みながら奏でる。ポロロンと、心地よい音が耳に残る。

 今年の副指揮者は、大学に入ってから合唱を始めたというベースの子だ。メロディーを歌うよりも、ハーモニーの土台になる音を鳴らす方が好きだと言っているのを、夏の合宿の小アンサンブル練習で聞いた。副指揮者になったばかりの頃は、緊張でがちがちになっているのがこちらから見ても分かって、そのぎこちなさがなんとなく歌声にも伝播していたような気がする。この春先頃から、前に立っていても、ようやく自然な笑顔が見えるようになった。そんな彼がこれを演奏したいと持ってきたのが、「夢の意味」。難しすぎないし、かといってとても簡単でもないし、そこそこ知名度もあるし。何より、ピアノ伴奏がついている。歌と掛け合うように、歌と寄り添うように、歌を先導するように、島先生のピアノは、私たちと一緒に歌ってくれる。でも島先生のピアノは私たちの歌の一部ではない。別の物だからこそ、掛け合い、寄り添ってくれる。もしかしたら、歌とピアノの距離感が、島先生が私たちに引いている一線なのだろうか。

 休憩に入ると練習室から出ていくのも、その距離感の中に含まれるのか。楽譜は置いて、カバンも置いて、たぶん携帯電話と財布だけを持って、島先生は練習室からいつの間にか居なくなっている。椅子から立ち上がるときにあじさい柄のスカートがふわりと揺れるのを、ちっとも見なかったのに、本当にいつの間に、島先生は練習室を出て行くのだろう。どうやって、島先生に住んでいる場所を尋ねよう。

「小原、二曲目のディビジョンしたとこの音、まだ間違ってる」

「え、うそ。ゴメン。考え事してたからそのせいかも」

「練習に集中しろー」

「だって、島先生にどうやって聞いたら教えてもらえるかって、めちゃくちゃ難しいじゃん」

「考え事ってそれかあ」

 一列目のアルトと隣の位置で歌っていたパートリーダーに結局お小言をもらいながら、言い返して、そうしたらパートリーダーもうーんと首をひねって、やっぱりはぐらかされて終わりそう、なんて何の実にもならないことを言う。島先生にあこがれてて、却下。あこがれてると言っても嘘じゃないけどそういうのに使うのはなんか嫌だ。ストレートに聞く、いやまあいいんだけど、下手な聞き方をするとストーカーだよね。こないだの大雨の話になって、島先生が帰れたかどうか心配で、採用。それでいこう。ソプラノの中で話がまとまった辺りで、副指揮者が「練習再開しまーす」と声を張り上げる。またいつの間にか、島先生は、ピアノの椅子に座っていた。

 五曲目をもう一度、最初からさらっていく。最後、ピアノの後奏は、一曲目の前奏と同じ旋律だ。最初と最後がつながる、自分で自分の尻尾を食べている蛇の図を連想する。アンサンブルを通しての振り返りを少しして、副指揮者の曲は終わり。副指揮者が前からのいて正指揮者が出てくる間に、楽譜を準備する。島先生も、ア・カペラの曲だけれど、ピアノの前に座ったままで、私たちと同じ楽譜を譜面台に立てている。ピース譜ばかり五冊を重ねて、どれから歌うのかと正指揮者の声を待っていたら「Ave Generosaからやりまーす」と聞こえて、顔をあげる。パートリーダーの方を見る。前へ行け、と首で合図される。ソリストをまだ決めていないから順繰りに歌っていて、今日が私の番だ。首を横に振るのが許されない雰囲気で、前の席の後輩の肩を叩いて、場所を変わってもらう。

 Ola GjeiloのAve Generosa。今年の正指揮者のステージは、Ola Gjeilo特集だ。Gjeiloって結局イェイロだっけヤイロだっけ。とりあえず、私はこの曲なら女声の方が好きだ。歌いやすい。混声の譜面は、少し低い。じゃあ嫌いなのか。それとこれとは別問題。ソロにさしかかったところで正指揮者がこちらに視線を寄越す。アンサンブルのハーモニーを聞きながら、指揮者の手の動きを見ながら、歌い出す。ヴォカリーズはまだいい。歌詞が入った部分が低い。下のチェンジに引っかかって声がひっくりかえりそうになるのを調整しながら歌いきる。数小節置いて、区切りのいいところからアンサンブルに合流する。ひと安心。最後のハーモニーを歌い終えたところで、正指揮者とソプラノのパートリーダーが同時に私を見る。「小原でいいんじゃないか」と正指揮者が言い「いいと思う」とパートリーダーが答える。ちゃんとオーディションをしろと抗議をすると、二人してハイハイと肩をすくめるが、私は忘れない、言質はとった。曲は嫌いじゃないけど、難しいのは一人でなんて歌いたくない。島先生がおかしそうに口元に左手をやっている。正指揮者が「もう一回始めから」と言うと、島先生の右手がはじめの和音を押さえた。G mol、ト短調。明るいけれどどこか陰りのある響き。またやってきたソロを歌いながら、島先生の方を見る。島先生は、心地よさそうに目を閉じて、左右に体を揺らしている。時折、ぴたりと体が止まるのは、多分、ハーモニーがどこかしっくり来ていないときだ。みんな気付いているのだろうか。一度目よりはスムーズにソロのパートを歌いきって、アンサンブルに合流する。演奏が終わって、正指揮者が「どうでした、島先生」と島先生に感想を尋ねる。島先生は「私が言うことは何もありません」と澄ました感じで答えて、少し笑う。それから「二十一小節からのフレーズだけれど」と言って、ピアノでその部分の全パートの音を弾く。音と音とがなめらかに繋がっている。正指揮者は「ああ」と何かに気付いたように呟いて、私たちの方を向き直ると「外声だけで二十一小節から」と指示を出す。アルトとテナーが座って、端同士、ベースとソプラノだけが立って、正指揮者の合図で歌い出す。

 フレーズの掛け合いがどうだとか。メロディラインが分かりにくいからもっと輝かしくだとか。和音が決まらないからそこの音少し低めにだとか。細かい。相変わらず、四年間変わらず、細かい。それだけ求めている音がはっきりしていると肯定的にとらえてもいいが、歌っているこちらとしては変化が分からないようなことまで要求されると、ちょくちょく嫌気がさしそうになる。たぶん、正指揮者本人もある程度自覚があるんだろう。いつの頃からか、曲が終わったら島先生に感想を求めるようになった。島先生は、柔らかい笑顔で的確にアドバイスをくれる。

 その繰り返しで練習が終わって、諸々の連絡の時間になる。部長と副部長が前に立ち、練習の予定やら、余所の演奏会の情報やらを述べていく。その間、島先生はピアノの椅子に座って、楽譜をカバンにしまって、帰り支度をしている。島先生は連絡が終わったらすぐに帰ってしまうのだ。帰り道に島先生に聞こうと決めて、島先生にならうように荷物をまとめる。小さな声で、あるいは声はなしのジェスチャーだけで、周りのみんながファイト、と励ましてくる。いや、まだ、どっちかというと、他の人にやってほしい気持ちではあるんだけど。

「じゃあこれで今日の練習終わりまーす」

 お疲れ様でした、お疲れ様でした、の掛け合いが終わると、島先生はピアノの椅子から立ち上がって、前に立っている部長と副部長に笑顔で会釈をしてから、まっすぐドアに向かう。急いで立ち上がって「小原、間違ってた音取り直してきてよ」と言うパートリーダーに「分かってる」と言い返して、ドアの方に走り、ぎりぎりしまってしまったドアを勢いよく開ける。

「島先生」

 呼び掛けると、島先生は立ち止まって、こちらを振り向いた。あじさい色のスカートが少し、ふわりと広がる。シルバーの靴の爪先が、地面からつかず離れず、中途半端な格好になっている。

「ソプラノの、小原さん」

 名前を覚えられていることに少しびっくりする。だって、私たちに島先生は一人だけど、島先生に私たちはたくさんだから。島先生が立ち止まっている間にたたたっと横に追い付くと、島先生はまた歩き出す。

「練習、お疲れ様でした」

「はい、お疲れ様でした。小原さん、ソロきれいだったよ」

「うえ、ありがとうございます。島先生に言ってもらえるとうれしいです」

「私でいいの。福原君も、四宮さんもそう言ってたじゃない」

「言ってましたっけ。あの、島先生のスカート、すごく、可愛いですね」

 切り出し方が強引、マイナス五点。心の中ではそう唱えて、島先生が「ありがとう」と言って、小さくスカートの布地をつまむのを見ている。つまんだ布地を島先生がぱっと離すと、一瞬、ふわりと、島先生の周りにあじさいの花が咲いた。

「どうにも、梅雨時ぐらいしか着れないからね、この柄だと」

「あじさいですもんね。この間も同じスカート履いてこられてたなって」

「そうだった?」

「はい。あの、大雨の日。電車も止まってましたけど、島先生、おうちに帰れましたか?」

 これはなかなか自然ではないだろうか。島先生は、思い当たることはないとでも言いたげなように、少し上に視線をやる。答えが返ってこないまま、島先生と並んで歩く。湿度が高くて、肌がじっとり汗ばんでくる。練習室はよく冷房が効いていたから、辛くなかった。暑さのせいで汗をかいているのか、島先生が黙ったままでいることに汗をかいているのか、分からない。

「うん、帰れたよ」

 一瞬、島先生が言ったのだと分からなかった。いつもの柔らかな声ではなく、かたく、どこか張り詰めていて、緊張感を孕んだ声だった。島先生の口元は笑みを作っている。けれども、目は笑っていない。頬の筋肉に力は入っているが、笑ってるときのように持ち上がっているわけでもない。怖い、と思った。でも、今更引き下がることもできなくて、質問を続ける。

「何で、どうやって。島先生はどの辺に住んでるんですか」

 少し早口になってしまった自覚がある。島先生の歩調が少し遅くなって、先に行ってしまいそうになったので、心持ちゆっくり歩くようにする。立ち止まりはしない。ゆっくりと歩きながら、島先生がこちらを向く。笑っていない目が私を映して、笑っている口元が「そうね」と呟いて、その声もまたかたく緊張している。肌が粟立った。汗が引っ込んだような気さえする。島先生が、笑っていない、むしろ、怒ってさえいるような目のまま、前を向く。

「妹が一緒に住んでいるのだけど。タクシーで迎えに来てね、一緒に帰ったのよ。普段は電車なんだけどね」

 そうして発せられた声は、しだいに、柔らかい、いつもの音を取り戻していった。どうしてか分からない。笑っていなかった目元が少しゆるんで、すっかり笑みと言って差し支えない表情になる。なのに、どうしてだろう、島先生はどこかが痛いのだろうかと、不思議に思ってしまった。「妹さんがいらっしゃるんですね」と返すと、島先生は今度こそはっきりと笑みをつくって、でもやっぱりどこかが痛んでいるように見えた。「ええ」と返事をする島先生の声も、どこか、傷ついたような色をしている。どうしてそんな顔で、そんな声で話されるんですか、とは聞けなかった。

 練習室のある講義棟の前庭を抜けたところで「じゃあ、私はこちらなので」と会釈をして、島先生は左に曲がって歩いて行く。引き留めることはできなかった。「ありがとうございました」と声を掛けて、振り向くことなく歩いて行く島先生の、あじさい柄のスカートが最後まで目を惹いた。

 島先生の姿が見えなくなって、はあと長い溜息をついた。息を止めてしまっていたらしい。かたい緊張した声、笑っている口元と笑っていないまなざし。あんな島先生は初めて見た。同じ話さえしなければもう聞くことも見ることもないのだろうと思う。それから、どこに住んでいるかはやっぱり分からなくて、情報が増えたのは一つ、島先生は妹と住んでいる、ということ。

 さっさとこの情報を共有してしまおうと思った。今から一人で帰るのはなんだか怖かった。回れ右をして、来た道を早足で歩いて行く。次の練習のときでも、島先生のピアノの音はきっときれいだろうと思う。

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