第5話 デリカシー

 酒向 覚(さこう まなぶ)には、デリカシーがない。



 私と酒向 覚は、小学生の頃からの気の置けない仲間だ。

 私の兄が野球をやっていたこともあって、酒向 覚とは別の小学校に通いながらも付き合いがあったのだ。

 自他共に認めるブラコンの私に、酒向 覚は「おまえの兄ちゃんって、すげーかっこいいな」なんて、 最上級のセリフを初対面で言ってきた。

 うちのお兄ちゃんを褒める男の子と仲良くしないはずのない私は、中学では学区域の関係で、高校では意図的に酒向 覚と同じ学校に進んだ。




「あ、綿貫わたぬきの野郎。また坂井さかいさんと密会かぁ?」


 昼寝から覚めた酒向 覚は、教室に綿貫たちがいないのに気付くと、半袖のシャツを肩までまくり、日に焼けた太い腕をぼりぼりと掻きながら大きく欠伸をした。

「わ、なんか変な物体が降ってきた」

 私がやっているプリントの上に、カスッとしたものが落ちてくる。

「あれれ。プリント? あ、キミ、赤点組でしたか」

「うるさい。単に、英単語のテストがあるってことを、忘れていただけです」

 酒向 覚から隠すようにして、最後の単語を書き込んだ。


「覚えていたら、ちゃんと勉強していましたよ」

「勉強? それくらいの単語、勉強せんでも間違えんだろうし」

 もう一度ふわぁと欠伸をしながら、酒向 覚が言う。

 どうせあんたは、赤点を免れる程度には、頭がいいんでしょうよ。

 頭にきたんで、ちょうど机の上にあったプラスチックの定規で、酒向 覚の腕をペシペシと叩いた。


「いたた。おまえはどっかの女王様か」

 私から素早く定規を取り上げると、酒向 覚は私の髪の毛の中にその定規をさした。

「かんざし」

「うっ。ひ、ひどいっ」

 私の癖のある髪に、それは面白いくらいぴたりとおさまった。


 思いっきり、気にしているのに。

 そーいうこと、してほしくないのに。

 酒向 覚は昔っから、そうだった。

 私が嫌がるポイントを外すことなく、ズバリとついてくる奴だった。

 デリカシーがない。

 頭にくる。


 でも、そういったところが、きっと彼の勝負強さにも関係しているんだと思えた。

 酒向 覚は、うちの学校の野球部の正捕手だ。

 どちらかというと線の細い、投手の山中 やまなか さくと、体格のいい酒向 覚は、絵にかいたようなバッテリーだ。

 そして、無口な山中を、それこそ補うくらい酒向 覚はよくしゃべる男だった。


「で、ここにいないってことはあの二人、一緒にどっかいったんだろ」

「……知らないよ」

「あ、不機嫌そう。佐都子さとこは置いて行かれたって? あれ、おまえ、綿貫ファン?」

「違うよ」

「じゃ、なんでそんな不機嫌そうな顔をしてるんだ?」

「あのね。あんたね。人の髪の毛に定規をさしておいて、よくそんな戯言が言えたもんよね」 

 こっちの憤慨に驚いた顔して、酒向 覚がゆっくりと視線を私の頭に向けた。

「おお。俺ってセンスあるなぁ。大学、芸術系にするか?」

「勝手に言ってなさいよ」

 私は勢いよく定規を頭から引き抜くと、酒向 覚の頭めがけてスコンとそれを下ろし、プリントを提出すべく職員室へと向かった。



 職員室へと降りていく階段の踊り場で立ち止まる。踊り場の出窓の向こうには、話題の人である綿貫 篤志(わたぬき あつし)と坂井 実和子(さかい みわこ)がいた。二人は、木陰のベンチに並んで座り、ブリックパックのジュースを飲んでいる。


 綿貫はいい奴だ。朗らかで、誠実で誰からも好かれている。野球一筋で、女っ気ゼロだった彼が、まさかいきなり特定の彼女を作るとは、思っていなかった。二人は付き合っていないとはいうけれど、あれは誰がどう見ても、特上の仲良しさんである。


 実和子については、実はあまり知らない。高校三年生で同じクラスになるまで、接点はなかった。漠然と、自分と同じ学年に父親の会社のトラブルにより大変そうな子がいるとは聞いていたけれど、それが綿貫が好きな女の子だとは気が付かなかった。


 そんな問題のある家庭の女の子と甲子園を目指す綿貫が、親しくなっても大丈夫なのだろうかと、心配する声が外野から上がったのは事実。けれど、綿貫はそんな声を跳ね飛ばすように、恐ろしいほどに絶好調なのだ。

 愛の力ってやつ? 


 かといって、二人はでれでれしているとか、いちゃいちゃしているとか、そんな感じでもなく、なんというか、見ているこちらまで微笑んでしまうような絶妙な距離感を保っている。


 あのベンチに、時折、ピッチャーの山中 朔やまなか さくも並んで座っているときがある。だからきっと、野球部も綿貫と実和子の関係を認めているんだろうなと思った。

 私からしても、実和子はしっかり者で、物腰はやわらかいけれど、自立しているように見えた。私のように、お兄ちゃんにべったりとか、テストで赤点とるとか、そんなことはないんだろうなと思う。

 その強さにあこがれるけれど、そんなに強くならなくてもいいんじゃないのかなって思う気持ちもある。


 今も実和子は、背中をしゃんと伸ばして座っていた。

 そして、そんな実和子の顔を覗き込むように、綿貫は、大きな体を二つに折り曲げ話しかけている。


 綿貫は、クラスや、部活のメンバーと一緒にいるときは「男の子」なのに、こうして実和子と一緒のときは、時々「男の人」って感じがした。

 そういった綿貫の姿は、第三者は見ちゃいけないような気にもなる。


 ふと、酒向 覚も、あんななりして、好きな子と一緒だと「男の人」になるのかなと思うと、胸の奥がざわざわとした。



「あ、いたいた」

 蜂蜜を探すクマみたいな様子で、階段から降りてきた酒向 覚がそう言いながらにやりと笑った。

「お探しの綿貫クンがいてよかったな」

「なにそれ。探してなんかないから」

 私がそう言うと、酒向 覚は顔を歪めた。

 そして、なんたることか、私の腰を許可なく両手で掴むとそのままぐっと持ち上げ、近くの出窓の深いヘリへと座らせたのだ。

 酒向 覚の予想外の行動に、私は声が出せなかった。


「|佐都子、ちっせー」

 にやにやしながら、酒向 覚が私を見ている。

「うるさい。私の成長期は、これからなのよ」

 ぐるるるるると唸りながら、酒向 覚を睨む。

「いや、さ。ほら、明日からいよいよ地区大会だからさ」 

 唸るのをやめて、酒向 覚を見る。

「だから、ほら、描いてもらおうと思ってさ。いつものやつを。手のひらにさ」

 そう言うと、まるでどこかの騎士にように酒向 覚が右手を私に差し出してきた。


「いつものって、『ロロ』のことだよね」

「うん、あの変な顔の犬」

「ま、いいけど。で、ペンはあるの?」

「もちろん」

 酒向 覚は、ズボンの左ポケットから油性細字ペンを取り出すと私に渡してきた。

 そして私が持っていたプリントは、酒向 覚の左手に渡った。


「ロロ」っていうのは、私たちが小学生の頃に流行っていたアニメのキャラで、変顔の犬だった。

 そのキャラを私も酒向 覚も好きだった。ある時、私が自分で左の掌に「ロロ」を描いたのを酒向 覚が見て「おれにも描いて」って右手を差し出してきたのが、そもそもの始まりだ。

 学校の水泳の検定試験で、なかなか上の級に進めなかった酒向 覚が、私が描いた「ロロ」のままの手で泳いだら受かったということで、 それ以来、勝負事の前になると酒向 覚は私に「ロロ」の絵を描いてくれとペンを差し出すようになったのだった。


 大きくごつい酒向 覚の手をとる。

 描く絵の大きさは変わらないのに、年々それが小さく見えてくる。

 本当に、酒向 覚の手は大きくなった。

 小学生の頃なんて、もしかしたら私の手のほうが大きかったかもしれない。

 けれど今では、もしかしたらうちのお兄ちゃんよりも、酒向 覚の手のほうが大きいかもしれないのだ。

 人間の成長って凄い。


「酒向の手って立派だねぇ。キャッチャーミットなんていらないくらい、しっかりしているんじゃない?」

 私の言葉に、酒向 覚が大きくため息をついた。

 はてな、と思い顔を上げ酒向 覚の顔を見ると、彼はまたわざとらしく、ため息をひとつついた。


「あのさ、ずっと前から佐都子に言いたいことがあったんだけど」

 酒向 覚が、じっと私の顔を見た。なので、私もお返しとばかりに、じっと日に焼けた酒向 覚の顔を見た。

 じっと見ながら、酒向 覚の瞳の色がどちらかというと茶色っぽいことや、眉毛の下に小さなほくろがあることをいまさらながらに発見して、妙な気持ちになった。

 急に、彼の手のひらに絵を描いていることが、恥ずかしいような気持ちになってきた。

 またまた、胸の奥がざわざわとしてきた。


「佐都子ってさ、デリカシーに欠けるよな」

 へ?

「だって、ミットなしなんて、あり得ないじゃん。いくらなんでも山中の球、素手でなんて無理だから。俺はモンスターかよって」

「別にそういう意味ではないわよ」

「うんにゃ。思ってる。以前、おまえが坂井さんに俺のこと『クマ』って言うの、聞いちゃったことあるもんね」

 言ったか、そんなこと。

 ……言ったかもね。


「『クマ』なんてさ、でかくて毛むくじゃらなイメージだからさ。俺ってそんなかよ、って思ったし」

「いや、別に、毛の濃さは関係ないし」

「しかもさ、それを聞いた時に山中も一緒にいてさ。で、あの滅多に笑わない山中が 『ぷっ』って笑ったんだよな。キミの『クマ』発言で」

 は?      

「俺がいくら山中を笑わせようと、アホなことを言っても笑わないのによ。ショックが大きいよ」

 ショックだよ。ショックだよ。酒向 覚はしつこく連呼しだした。


 つまりあれですか。

 この男は、私の何気ない発言が山中にウケたのが、気に入らないってことですか。

「あほか」

「あほはどっちだ」

「あほは、おまえじゃ」

「英単で赤点のおまえが言うか」

 そう言うと酒向 覚が私のプリントをひらひらさせた。

「ちょっと、返しなさいよぉ!」

「やだね」

 ちくしょう、って手を伸ばしたら、そのまま体が出窓のヘリから浮いてしまった。

「うわ、佐都子!」

「え」

 わわわわわ、と大騒ぎな中、気がつくと私は酒向 覚の腕の中にすっぽりと格納されていた。


「は、はははは」

 酒向 覚はそう言って力なく笑うと、私を格納したままよろよろとななめ後ろにさがり、 壁を背中にすると、そのままずるずるとしゃがみこんだ。

 はぁ、と大きなため息を一つつき、酒向 覚はがくりとうなだれた。

 私の耳がくすぐったく感じるくらいそばに、彼の耳がある。


「ちょっと、驚きのあまり腕が固まって解けん」

「あ、あぁ、うん」

 確かに、あのままだったら私は出窓から踊り場に落ちてしまっていただろう。

 感謝するべきなんだろうけど、そもそもの原因はこいつだし。

「まさか、人までキャッチするとは思わなんだ」

「あ、あぁ、うん」

 そう答えつつ、一体いつまでこいつに格納されているのだろうかと考えると汗が出てきた。

 通る人たちが、ぎょっとしたような顔でこっちを見ては過ぎて行く。

 そんな様子にも汗が出る。

 それに、こんな風に男の子に近づいたことないし。

 もう、ますます汗が出てきますが。


「手、離すよ」

 そう言うと、酒向 覚は、私を脱出させるべくゆっくりと出口を開け始めた。

 お互いしゃがみながら、見つめ合って、はぁ、と大きくため息をついた。


「ちょっと、驚いちゃったんだけどさ」

 酒向 覚が真面目な顔で、私に話し出す。

「佐都子の胸を感じた」

 はい?

「佐都子も、大人になっていたんだねぇ」



 五、六時間目。

 会う人会う人に、酒向 覚はその顔についた手のひらの跡を聞かれては誤魔化していたけど。


 私は、同情なんかしないもんね。


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