第4話 アレルギー

 ユニフォームのまま、校舎へ向かっていたら、自転車置き場のほうから誰かを罵倒する女の声が聞こえてきた。


 悪意を含んだその声と、それに応える小さな声。

 ぞっとする。

 あぁ、女って、女をいじめるのが好きだよなぁ(まぁ、男も男をいじめるけど)、なんて思いながら通り過ぎようとしたら、何かを踏みつけたような音がした。

 さすがに気になりひょいと覗くと、そこにはチームメイトの綿貫 篤志わたぬき あつしが「へへ、仲良しなんだよ」と隠すことなく好意を示す坂井 実和子さかい みわこの姿が見えた。


 坂井は野球部にとり、尊重すべき生徒だ。

 彼女のお陰で、もとから明るくて元気の塊ような綿貫が一段とパワーアップをした。守備だけでなく、打撃面でも怖いものなしの絶好調であることは、野球部員だけでなく、顧問やOBといった関係者皆が知るところ。

 投手である俺の立場からすると、打者に元気があるというのは、とても頼もしいことだ。

 ガンガン打っている綿貫を見ながら、どうかこのまま、せめて夏が終わるまで、坂井と綿貫が「へへ、仲良しなんだよ」でいてほしいと願っているのは俺だけじゃないはずだ。


 坂井効果。坂井特需。坂井様。

 とにかく、野球部にとり彼女は、ありがたい女神的存在だった。


 そんな坂井の正面に、俺に背を向けるようにして、一人の女子生徒が立っていた。

 坂井は、途方に暮れた顔をしている。

 つまり、彼女は、言われている立場なのだ。

 その坂井だが、どうものいつもの彼女とは何かが違った。何かが足りない。

 するともう一度、グシャって音がした。

 見ると、こっちに背を向けている女子生徒が何かを踏みつけた。

 ――あぁ、眼鏡か。


 坂井の顔に足りなくて、この女の足元にあるのは眼鏡だろう。

 最初の場面は見ていないからわからないけれど、今のは明らかに意思を持った行為だ。

 なぜ? ばかげている。呆れる。愚かだ。


「あのね、綿貫わたぬき君は大事な時期なの。邪魔なんかしないでよ」

 坂井に向けられたその声に、ぎょっとした。

 あの声は、去年までうちの部のマネージャーをしていた女子のものだ。

 彼女は綿貫のことが大好きで、挙句半ストーカーじみたことまでしてしまい、監督やその当時の部長から注意された結果、クラブを辞めた子だ。


 うえぇ。

 面倒。 


 しかし、見過ごす訳にはいかないんだろうなぁ。


古嶋こじまさん」

 背中を向けている女に声をかける。

 古嶋は、びくんと背中を震わせた後、ゆっくりと振り向いた。

「なんで、山中君こんなところにいるの? 今、練習中だよね」

 なるほど。俺たちが練習中だと知っててやったな。

「用事があって、練習を抜けたんだ」

 そう言いながら、俺は古嶋の足元を指差した。

「駅前に、新しく眼鏡屋ができたよね」

 俺の声に、古嶋はとびあがらんばかりに驚いた顔をした。そして、不自然な足の動きをさせ、踏んでいるものを隠そうとした。

「確か、店名は『ファストメガネ』。短時間で眼鏡を作ってくれるらしい。値段も、一万円しない」

 古嶋の足の下にある坂井の眼鏡は、もっと高いのだろうけど。

「明日、眼鏡を買った領収書、俺に見せてよ」

 古嶋は勢いよく俯いた。

「あと、綿貫を思うなら、夏が終わるまでは坂井さんのことは放っておきなよ」

 古嶋が怪訝そうな顔で俺を見た。

「夏が終わったら、坂井さんを煮るなり焼くなり好きにしたらいいよ」

 俺のその言葉に、古嶋は「はぁ?」という顔をした。

 そして、坂井はというと、なんと笑いだした。

 ふーん。

 坂井って、こういうことで笑える子なんだ。

 それは、いい。

 うん。

「じゃ、そういうことで」

 俺はその場に二人を残したまま、職員室へと向かった。


 職員室に入ると、俺を見つけた担任の先生がこっちこっちと手招きをしてきた。

「ねぇ、本当にいいの? 電話、繋がないこともできるのよ」

 担任がそう言いながらも、それが解決にはならないって顔をしている。

「大丈夫です。話、聞くだけですから」

 そう言って保留になっている受話器をあげた。

 電話の向こうでは、母の涙ぐんだ声が聞こえた。


 三年前に父方の祖母と同居してから、母曰く、毎日祖母からいじめられているらしい。

 祖母は、父や俺がいない時間を見計らい、母に嫌味を言ったり、無理難題を吹っ掛けたり、母に聞こえるように父の姉や妹に電話をかけて、いかに虐げられた生活を送らされているのかを訴えるのだそうだ。

 そして、母は、祖母がデイサービスなどで出かけている時間に、時折電話をかけてくる。

 一緒に住んでいる息子の俺にだ。

 話をほんの五分聞くだけで、母が安心できるなら、それも仕方がないんだろうなと思い、担任と監督だけには家庭の事情を話して、こうして練習中でも電話を取り次いでもらっていたのだ。 


 いっそ古嶋のように、坂井の眼鏡を壊すようなわかりやすいことが、祖母と母の二人の間に起きれば、あのぼんくら親父も動くのだろうか。


 本当に、祖母は母をいじめているのか。

 それとも、母の嘘なのか。 

 なぜ、母は夫ではなく、息子に電話をかけてくるのか。

 その真偽ではなく、母がこういった行動に出ることの意味を見い出すことが、根本的な解決になるのかもしれない。


 話を聞くなんて、一見親孝行っぽいが、実は逃げているだけかもしれない。


 そんなことを思いながら母の声を聞いていたら、急に体が冷えてきた。 

 決して寒くはないはずなのに、ぶるっと鳥肌がたった。


 そっと目を閉じる。


 あたかかな場所に行きたい。

 あたたかくて、穏やかな場所に行きたい。

 いつも笑顔のある、気持ちの安定した、平和な場所。


 たとえば、綿貫の隣。

 たとえば、綿貫の双子の妹のそばに。


 心配ごとなど、何もないような場所に行きたい。


 その場所を手に入れるには、どうしたらいいんだろう。

 努力すれば、手に入るのだろうか。

 


 二人の事を考えて、そっと溜息をついた俺は、受話器の向こうにいる母に、明るい声で相槌をうった。


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