第2話 鼓動

篤志あつしは、私の双子の兄だ。


 春休み、自他ともに認める野球少年の兄は、飽きもせずに朝からテレビの前を陣取り野球を見ている。

 そんな篤志の後ろ姿を見ながら、私は塾の宿題を一休みして、冷蔵庫から出した瓶のサイダーをじょぼじょぼと二つのコップに注いだ。

 庭の桜が散っている。来月の四月から、私も篤志もいよいよ小学六年生になるのだ。


「あれ、いいよなぁ」

 篤志の言葉に誘われるように、私はテレビの画面に目を向けた。そこには、いつものように篤志の好きな野球が映っているだけだった。

「巨人対阪神?」

「本気で言ってる? あやって、ほんと何も知らないんだな」

「それは、どうもすみませんでした」

 ふくれっ面のまま、振り向いた篤志にコップを渡す。篤志はそれを音を立てながら勢いよく飲み干した。

「センバツだよ。センバツ」

「せ? せんば? 何それ」

「まじか。この家にセンバツを知らない奴がいるなんて。高校野球だよ。セ・ン・バ・ツ。甲子園で毎年やっているだろう?」

 篤志は再びテレビに視線を戻した。

 私もコップを持ち、篤志の隣に座る。

「だったらさ、最初から高校野球って言えばいいじゃない。センバツとかさ、格好つけて何よ」

「センバツだから、センバツなんだって」

 野球少年篤志はそう言ったっきり、私への説明が面倒になったようで、再び画面に釘付けになっていた。

 サイレンが鳴った。

 試合が始まる。


 篤志の心は、もうここにはない。

 それが私には、なんとなく面白くない。

 篤志と違って、野球にちっとも興味がない私は、サイダーから跳ね上がってくる炭酸をぴちぴちと唇で受けとめながら、漫然とテレビを見た。


 ところで、篤志が言った「いいよなぁ」ってなんだろう?


 一度そう思うと、気になってしょうがない。

 だからといって、篤志に答えを聞くのは癪な気がする。負けた気になる。


 結果、私は、なんとか自力で答えを探そうと、全く興味のなかった高校野球を見るようになっていったのだ。


 すると、なるほど。

 高校野球には、春と夏があるんだって知った。

 主催は、高野連に加えて、春は「毎日新聞」で、夏は「朝日新聞」だとか。

 地方大会からトーナメント式で進む、夏の大会に対して、春のセンバツは文字通り、選考委員会によって決められた高校が出場するだとか。

 私が新しく仕入れた知識を披露すると、篤志は喜んだ。そんな篤志を見ると、私もまんざらでもない気持ちになる。友達からはブラコンと呼ばれるけれど、あまり認めたくないけれど、まぁ、そうなのかもしれない。


 野球少年篤志は、中学校に入ると背が伸び、それに加えて体もつきも大きくなった。注目される打者にもなり、高校は野球部の強い学校を選び進んだ。

 私と篤志は、違う高校へ通いだした。

 今まで当たり前のように隣にいた存在が消えた。

 その事実に、初めこそ少し心細くはなったけれど、次第に、どこか自由な気持ちにもなっていった。私の交友関係は広がり、篤志もますます野球にのめりこんでいった。

 私は、兄の口から頻繁に出てくるチームメイトたちを、まるで自分の友人のように感じだした。


 山中 朔君。

 酒向 覚君。


 会う前から、私は彼らが好きなり、親しみを感じていた。

 そして、なにより篤志のチームメイトととして、信頼していたのだ。

 

 どうか、彼らの夢が叶いますように。

 彼らの努力が実りますように。

 いつも、いつもそう願った。 

 

 そして、春。

 篤志の高校は、見事、センバツに選ばれた。



 明日、篤志は甲子園に行く。

「私の方が緊張してきたよ」

 篤志が荷造りをしている様子を、彼の部屋の入口に座り眺める。

「ばぁか。今から緊張してたら、試合が始まる頃にはコチコチの石みたいに固くなるぞ」

「コチコチの石ね。でも、コチコチの石になる前に、心臓がバクバクの破裂になっちゃうかもしれないよ」

 私の情けない声に、篤志が笑う。


 それにしても、篤志は本当に大きくなった。私の部屋と同じ広さなはずなんだけれど、とても窮屈そうに見える。

 一緒にサイダーを飲んでテレビでセンバツを見ていた頃、私と篤志の身長はほぼ同じくらいだったはずだ。

 同じ両親から、ほんのちょっとの時間差で生まれただけなのに、こんなに違っちゃうなんて随分な話だと思う。


「あのさ。ずっと訊きたかったんだけれど。篤志は、何が『いいなぁ』なの?」


 あれから高校野球を知るとともに、篤志の野球人生にも付き合いだしたけれど、それでもその答えがわからなかった。


「は? 何のことさ」

 日に焼けた顔をこっちにむけて、篤志が首をかしげた。

「いや、だからさ。篤志は覚えていないかもしれないけれど、小学生の頃、センバツを見ながら篤志が『いいなぁ』って言ったのよ」

「俺が? センバツを見ながら? 覚えてないな」

「思い出してよ。正確に言うと、試合中ではなくて、試合前なの。試合が始まる前にテレビで球場の様子が映ったの。まだ何も始まっていないのに、その画面を見て篤志がそんなことを言うから、私は凄く気になったのよ」

「あぁ、なるほど。あれね。うんうん、わかった。でもなぁ、彩に教えるのって、なんか勿体ないなぁ」

 篤志がいたずらっ子の顔で、私を見る。

「覚えているんなら教えてよ。けち」

「けちだと? そんなことを言うなら教えない」

「わかった。謝るから、だからお願い、教えてよ」


 私がぺこぺこと謝りだすと、篤志はふんふんと偉そうな顔した。

 そして、私の長年の謎を解いてくれたのだ。





 両親と一緒に新幹線に乗って、新大阪で下りる。

 新大阪から大阪に出て、大阪から梅田まで歩く。そして、梅田からいよいよ甲子園までの電車に乗った。

 駅を降りると、甲子園球場までの道を多くの人が歩いていた。

 しばらくするとその波は、右に左にと、それぞれの応援高校側の入口に向かって分かれていく。

 私は、テレビで見たままの蔦の絡まる球場を見上げた。

 篤志と彼のチームメイトが、私たちをここまで連れてきてくれたのだ。

 胸が熱くなった。


「あぁ、やだ。緊張してきたわ」

 母はそう言うと、私の手を握ってきた。

「お母さん。私もね、出発前の篤志に今のお母さんと同じようなことを言ったんだ。そしたら篤志がね、 『今から緊張してたら、試合が始まる頃にはコチコチの石みたいに固くなる』って言ったんだよ。だからね、はい。リラックス、リラックス」

 そう言いながら母の肩を揉む。

「篤志って、私が産んだとは思えない程、図太いわ」

「母さんの子だから、図太いんだろう」

 軽口を言いながらも、父の顔もちょっぴり緊張モードだった。


 球場に入るために、私たちは列になって並んで、係りの人にチケットをもぎってもらい、スタンドへと続く階段をのぼっていった。

 階段を一段上がるごとに、やっぱり緊張してしまう。

 篤志は、今、何をしているのだろう。

 そんなことを考えながらのぼりきった階段の向こうに、甲子園のグリーンのグラウンドが広がって見えた。


 席に着く。 

 試合開始時間よりも前に、選手たちがグラウンドに出てきた。

 拍手があがる。

 そして、選手たちは、キャッチボールを始めた。 



 ――「甲子園でするキャッチボール」

 それが私の疑問に対する答えだった。

 ――「あの時さ、センバツのテレビにちらっとそんな様子が映ってさ。 『あぁ、俺も甲子園でキャッチボールがしてぇ!』って思ったんだ。キャッチボールをだぞ、 甲子園で。贅沢っていうか、すげーかっこいいっていうかさ」

 勿論それは、甲子園に出られないとできないこと。

 出られた選手だけができること。



 あの時一緒にテレビを見ていた篤志は、今はテレビに映る側になった。

 高校野球の選手のプレイについて熱く語っていた篤志が、今度はアナウンサーや解説員の人たちに語られる側になったのだ。


「あれ、いいよなぁ」

 篤志は、とうとうそれを自分のものにした。



 一度ベンチに戻った選手たちが、再びマウンドに向かって走り出す。



「がんばれ」


 篤志の春が始まった。


 そして、その姿を日本のあちこちにいる篤志に良く似た野球少年たちが、どきどきとしながら見ていることだろう。


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