野球部員とその周辺のエトセトラ
仲町鹿乃子
第1話 落ちる5秒前
誰もいない教室で響いていたシャーペンを走らせる音に混じって、 階段をニ段ずつ上がる音と廊下を早足に歩く音が聞こえてきた。
「それ、度は入ってんの?」
冷たい空気とグラウンドの土のついた野球のユニフォームを着た
「度って。私の眼鏡のこと?」
テキストの上にペンを置くと私はそう言い、そして少しずれてきた眼鏡を手で直した。
「あ、うん。そうそう。前々から
お、あった、あったと言いながら綿貫君は一冊のノートを取り出した。
「伊達じゃないよ。度は入っているよ。私、視力悪いもの」
「あ、そう。俺はすっげーいいんだ。1・5以上はあるかも」
「へぇ、そうなんだ。いいねぇ」
そう言うと綿貫君はふっと笑った。
もともと、私は男子と話すほうではないので、こんな風に綿貫君とも授業以外で話すことはなかったのだけれど。
だからって、綿貫君のことが嫌いだとかそんなんでもなくて。
綿貫君に関して言えば、むしろ「いい人だなぁ」って思うことが多いくらいだった。
綿貫君は、実験のあと片付けを最後までやっているメンバーの一人でもあったし、授業中も多くの運動部の男子のように寝ていないし(まぁ寝ているのは運動部に限らずだけど)、私語も少ないし。
見かけはでかくてごつい感じの人だけれど、行動に関してはそうじゃないんじゃないかなぁって、私は思っていたから。
「ええと。練習は、おしまい?」
違うって知りながらも間が持たなくて、そんなことを聞いてしまう。
「いやいや、まだまだ」
ノートをぱらぱらと捲りながら綿貫君は、頷いている。
「それ、何のノート?」
そういえばと思って、綿貫君に聞く。
「山中との交換ノート」
そう言うと綿貫君がにやりと笑う。
山中君はピッチャーだ。
ちなみに綿貫君はレフトを守っている。
うちの高校の野球部は強いので、私の様に全く野球とは縁のない人生を歩んでいても、自然とそんな情報が頭の中に入ってくるのだった。
「あ、山中君と仲良しなのね」
男子同士でも交換ノートなんてするのね、なんて思いそう言う。
「それ、冗談だって。ただの物理のノートだって。山中に貸すのは」
「え、ふーん。そうなんだ」
そりゃそうだ。男子どうして交換ノートなんて。
女子だって、交換ノートは小学生の頃で終っていることだし。
そっか、今のは冗談なんだ、なんて思いながら、綿貫君が私なんかにそんな冗談を言ってくるのこの状況って面白いなぁと思った。
さっと風が吹いてきて、それに揺れたカーテンが私の肩に触れた。
換気のために、少しだけ窓を開けていたのを忘れていた。
風邪をひきたくないので窓を閉めようと立ち上がり、そのまま校庭に視線を落とした。
夕暮れ時の校庭には誰もいない。
そのがらんとした薄暗い空間に、風に乗って金属バットの音が響いていた。
野球部は少し離れた大グラウンドで練習をしているのだ。
他の部が羨ましいほどの予算をもらっているとの噂だった。
でも、と思う。
もしそうだとしたら、それはそれだけ野球部に期待が寄せられているってこと。
期待には責任が伴う。
「坂井って、あれ。まだ、……大変?」
綿貫君が聞いてくる。
知られたくないことだったけれど、新聞にまで出てしまったから仕方が無い。
父の会社が倒産して、私の今までの生活は一転し、奨学金で勉強する身となっていた。
綿貫君はそのこと訊いてきたのだろう。
確かに最初は、一体これからどうなるのだろうと途方に暮れたけれど、 今ではこれも私の人生だと受け止めて、自分で出来る範囲での努力をしているつもりだった。
勉強も、家でやるよりも学校に残ってやっていた。
その方が質問なんかも先生にできるし。
「奨学金って、返すんだろ?」
綿貫君が訊いてくる。
「うん。いずれね。私が社会に出たら働いて返すのよ」
「あぁ、いずれね」
綿貫君が私の言葉を繰り返す。
「坂井って大学に行きたいの?」
綿貫君がそんなことを訊いてきた。
「え? うん。まぁ」
勉強くらいしかとりえがないから、そこを極めてから就職したいって気持ちはある。
父も最近持ち直してきたから、そこらへんもどうにかなりそうだし。
「大学になったらバイトもできるし。そうそう、綿貫君のお知り合いで勉強でお困りの方がいたら私に紹介してね」
そう私が言うと、「俺の妹が。でも、俺らと同じ年か」と、綿貫君が言う。
ちょっと信じられないけれど、綿貫君は双子らしい。
しかも、もっと信じられないけれど妹さんはとても華奢で可愛いらしいって野球部の男子が騒いでいた。
「俺、大学に行くか、わかんないな」
綿貫君が言う。
「センバツで注目されて夏もがんばれば。そのまま、なぁんてな」
綿貫君が笑う。
つまり、プロってこと?
「凄い。そこまで綿貫君が野球をやりたいなんて知らなかった」
私にとっては「同じ学校のクラスメイトで、野球部で、色は黒くて体も大きな男の子の綿貫君」なのに、 彼の向こうには、私の説明だけでは語れない大きな大きな世界が広がっているんだと思った。
凄いなぁって思った。
しかも野球なんて。
自分の身一つでやっていく世界だ。
「綿貫君は、恐くない? プロになると今まで以上に人から注目されたり、期待されるでしょ」
何かで有名になるってことは、個人が個人でなくなってしまうような気がしたから。
綿貫君とは全く違うけれど、父親のことで私がそうだったから。
注目されて、私のことなのに私以外の人が私の人生について語っていたり。
それは私にとっては恐いことだったから。
「やりたいことだから、やるしかないって思うよ。注目されようがそのされかたが不本意な形でもさ」
不本意な形での注目のされ方。
頭の中に、いろんなプロのスポーツ選手が浮ぶ。
プレイだけでなく、その私生活まで注目される選手達。
この目の前にいる同級生にも、いつかそんな日が来るのだろうか?
「今回だってセンバツに出るってことになったら急に親戚が増えたりとか、 妹が『友だちから~』なんて言って手紙とかプレゼントを大量に持ってきたりとかさ。周りもちょっと浮き足立つというか。 でも、うん。野球は自分がやりたい一番のことだから、それによっていろいろあってもそれはどうでもいいっていえばいいんだ」
そう言うと、綿貫君は私のことを見て、「なぁんてね」と言って丸めたノートで自分の頭をぽかりとぶった。
「でも、実際は。うん、正直そうは思えないときも確かにあってさ。 自分やチームのことを好き勝手に言う話を聞くと、やっぱり。ね。 でもさ、まぁそうじゃない奴等もいるから、俺がどうなろうと変らない奴等もいるから、だから大丈夫っていうか。 つまり、そのままの、野球をやりたいだけの気持ちに戻れるっていうか」
綿貫君の言葉に、私も素直に頷けた。
自分がやりたいことがあるから留まれるってこと。
父の会社が新聞に載った時、母は私に転校してもいいよと言ってくれた。
でも私は、ここの学校で勉強を続けたかったから、だからどうにかここに留まれるようにと考えたし。
いろんなことを言う人がいる反面で、いつも通りに友だちでいてくれた人もいる。
クラスメイトでいてくれた人も。
確かに、うん、そうだ。
綿貫君の言葉は、私の心の中にもある言葉だった。
馴染みがあって、実感のできる。
こんなに強い綿貫君と、笹の葉の小船に乗っているような不安定な存在な私に、意外な共通点があったことに驚いた。
そして、なんだか元気が出てきた。
綿貫君みたいに、私ももっと頑張れそうな気になってきた。
「もし、野球で稼げるようになったらさ。俺、坂井の勉強の手伝いをしてもいいよ」
綿貫君が私から視線を逸らして、そう言った。
「勉強の手伝いって、綿貫君が私に勉強を教えてくれるって。あれ、え?」
自分でそう言いながら、あれ、これはそんな意味じゃないって思った。
「試合前でも緊張しないんだけどなぁ」
そう言って綿貫君が、ちらりと私を見て舌を出した。
あ、ちょっと。
私、そっち方面は全く免疫ないから。
「ま、期待してて」
綿貫君がそんな言葉を残して、教室を出て行く。
綿貫君が廊下を歩く音が聞こえる。
そしてそれは、階段を下りる音へと変わった。
一段飛ばしで下りていく、大きく、そして不規則な音。
タン
― タン
―― タン
――― タン
その綿貫君の足音と共鳴するかのように、私の心臓がいつもよりも高い音で鳴りだした。
そして最後の「タン」が聞こえる頃には、あっけないほど情けないほどに、綿貫君が、クラスメイトから分別不可能な存在に、ころりと変わってしまっていた。
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