はつ、こい

尾津杏奈

はつ、こい

 その日の僕は夕立だった。

 真夏。

 一線の風のあとに黒い雲。打ち付ける音と滝の雨。そこに光をねじこんだのは雷だ。


 商店街のアーケードに逃げ込んだ僕は、張り付いたスクールシャツの裾をきつく絞り、しずくをこぼすばかりの髪をかき上げて、小さく悪態をついた。

「ならのきざかのせいだ……」

「……楢木坂ならきのざか? 数学の?」

 驚いて、僕は声の方を見た。近くの高校の制服。銀色の眼鏡と短く刈り込んだ黒髪。大きなスクールバッグを肩にかけた知らない高校生だった。

 僕は口を開けて彼を見ていた自覚はあった。その顔がおかしかったのか、彼は少しだけ笑うと話し出した。

「楢木坂、元担任。……その制服は……そっか、俺、卒業生なんだ」

 高校生はつかみどころのない笑顔で僕を見ていた。

「……担任です……」

 どう答えていいか悩んでから、それだけを言った。

「そっか……」

 高校生は僕から視線を外し、真っ黒い雲が湧いている空を、アーケードの向こうに覗き込みながら続けた。

「あいつさ、細かいよな。どうでもいいこと指摘してくるし……」

 僕はぽかんとして高校生を見た。僕の知っている「楢木坂」はそんな性格ではないからだ。僕の知っている楢木坂は、生徒に興味を示さない地味な教師だった。

「ヤバいな。卒業してからもう二年半くらい経ってんのか……」

 ということは、高校生は三年なのだろう。夏休みに制服。受験のための何かしらだったのかもしれない。

 僕は彼を見た。

 あらためて彼を見た。

 僕はびしょ濡れだったが、彼は濡れてはいなかった。アーケードを歩いて終点のここまで来たのかなと思った。ただ、それよりも半袖から伸びた腕の産毛が小さく光っているのが気になった。その真っ黒な髪は、染めているのだろうかと僕はどうでもいいことを思った。彼の唇は何かを思い出すように尖っていた。唇が紅かった。睫毛が眼鏡のレンズにつく。瞬きをする。虹彩の光が揺れる。色素が薄い。その手で髪の毛の先をいじる。細い指。上を見る。しばたたく。口角が上がる。息を吐く。舌先が下唇をかすめていく。目が離せない。クスッと笑う。頬が少し赤くなる。頭をかく。バッグが重そうだ。それから、それから……

 目が合った。

「なに? なんかついてた?」

 彼は困ったように言った。

 僕は彼から目をそらして、濡れたズボンを両手で払った。

「……何も」

 僕は下を向いて、一瞬だけ目と目の間にしわを作った。喉が熱い。この顔は、見られたくないと思った。

 音を立てないよう気を付けながら呼吸をくり返して、僕は眉間のしわを伸ばすよう心掛けた。手を額に当てたところで、下げた頭に重さを感じた。

「どうした?」

 そう言いながら、彼が僕の頭に手を乗せたのだった。

 僕の心臓が跳ねた。

 彼の手が、ぐしゃりと僕の髪を乱した。

「うわ! 思ったより濡れてんのな」

 笑う彼の声は、琴の弦を弾くように空気を震わせた。

 顔を上げた僕が見たのは、濡れた手を自分のシャツで拭う彼の姿だった。いつの間にか雨が上がり、夕日が彼を照らしていた。オレンジに染まる彼は光っているように見えた。

 彼は僕に視線を合わせて軽く微笑んでから聞いた。

「ね、きみのさ、その髪は天然?」

 突然の問いに僕は首をかしげて答えた。

「天然です」

 僕の返事を聞いた彼の片眉が、ぴくりと歪んだのを僕は見逃さなかった。

「いいな。うらやましい」

 その顔が、僕にはなぜか悲しそうに映った。

「楢木坂先生さ、黒髪が好きなんだって」

 そう言って笑うと、彼は腕時計を確認した。

「あ、急がなきゃ」

 じゃ、といって手を上げると、彼は駆け出した。

 僕はあっけにとられて彼の姿を目で追うしかできなかった。

 ふと、彼の髪はやっぱり染めていたのかと思った。


 そう、思った。


 その途端、僕の目からは涙が溢れ出した。

 僕には意味がわからなかった。まだ。

 ただ、雨上がりの夕焼けがやけに綺麗だと思った。

 この涙はそのせいだ。

 僕はそう思うことに決めた。


 雷はもう聞こえなかった。

 

    おわり

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