鏑木 6
日が落ち、魁一郎が帰宅する。
一段落ついた所で勝負の続きをやるのかと魁一郎は言ったが、興人は仕事帰りにというのも気分が乗らない。決着を着けるなら休日に、日のあるうちにしたいと外へ出てしまった。
休日となるとほとんど一週間後なのだが、それまで居座るつもりなのだろうか、と魁一郎はやや呆れたが臆したという様子でもないし、決着を急ぎたいわけでもない。
桃子は和子と華道の道場で何やらやっている。
あちらはあちらで勝負があるのだろうか。
華道の本家と分家と言えるのだから、互いの技を比べるようなことがあるのかもしれない。
どちらにせよ自分が関与するような話ではないと、自身の日課である修練を始めた。
興人は小太刀を仕込んだ棒を手に、何とは無しに屋敷の周囲をうろつく。
勝負を後に回したが、それまで鍛錬をする場所が必要になる。
屋敷の敷地を借りてもよいのだが、互いの練習が見えるのも都合が悪い。
秘伝を盗まれるとかそういうことは無いが、同じ領域で鍛錬をして奇妙な連帯感というか仲間意識が芽生えても興覚める。
人間として、剣士として嫌いなタイプではないが、今は敵なのだ。
自分の敗北は流派の敗北。稲葉流の名を背負ってここに来ている。
興人は手頃な場所を求めて周囲を徘徊していたが、本当はもう一つ気になっていることがあったからだ。
周囲は暗い。
高台に位置する屋敷の周りには民家もない。
街灯も少なく車通りもないが、それほど急な坂でもないので、人影が全くないというほどでもない。
道に沿って歩く興人の先に老人がとぼとぼと歩いてくるのが見えた。
袴と着物に草履姿の、年配者ならば大して珍しくもない格好である。
荷物もなく、ただ日課の散歩に出ているといった様子だ。
興人は気にすることもなくその横を通り過ぎようとする。
だが正にすれ違うといった瞬間、空気が重くなったように感じられた。
老人は歩く動作を全く崩さなかったが、手を振る、腰を
要するに、全く無駄のない動作で隠した刀を抜いた。
対する興人も常日頃から油断をしない。
人とすれ違う際にも「もしこの相手が突然襲い掛かってきたら?」ということを自然に、無意識にできるよう鍛錬を積んでいる。
突然抜かれた刀に対して、ほとんど自動的に小太刀を仕込んだ棒で防いだ。
だが棒は真ん中で真っ二つに割れる。
興人は同時に後ろに大きく飛んでいたが、右目が割れ、そこから赤い血が流れ出た。
「ふむ。首を跳ねるつもりだったのだが。思ったよりやるじゃないか」
興人も棒に仕込まれた小太刀の刃で受けたつもりだった。
だが相手は仕込み刀であることを知っていたのか、直前で軌道を変え、刃の入ってない部分を切った。
後ろに飛んだとは言え、棒で受けたその僅かな時間が無ければ今頃頭が欠けていたところだ。
「私は無心流、小田 桐蔵。貴殿と手合わせ願いたい」
既に斬りかかっておいて手合わせもないものだ、と興人も小太刀を大きく振って鞘を振り落とす。
それを見て桐蔵は肩を落としてため息をついた。
「やれやれ。そこは鞘を相手に向かって投げつけて抜き身にするのが適切だろう。さては貴殿、まだ人を斬ったことがないな」
興人は小太刀を構えるが、間合いに踏み込めずに歯軋りする。
相手はどうやら本物の人斬りのようだ。
時代の闇に生き、裏で人を殺すことを生業としている。
昨日の連中の裏にいた者の差し金か。面子を潰された者どもがその報復に雇ったのだろう。
仕込み刀のことを知っていたのだから間違いない。
実際に命を懸けた斬り合いに生き残ってきたのなら相当に手強いのだろうが、それよりも目の上を割かれ、流れる血によって右目が完全に塞がっていた。
視覚だけに頼るものではないとはいえ、この相手に距離感を失うことは致命的だ。
加えて相手は居合いの使い手のようだ。もう刀を鞘に納めている。
「伝統と格式だけで、人を斬ったこともないような者が剣を持つ。なんとも嘆かわしいことだ」
桐蔵は片方の足をやや踏み出し、全身の力を抜いたように脱力する。
力を抜いたことによって、体が崩れ落ちるのかと思うような沈み込み。
そのまま前に倒れる力を利用して踏み込むと同時に抜刀。
興人の目には、ただ目の前に立った男が倒れただけの様に見えた。
攻撃するための予備動作、体を動かすための筋肉の動きが見えなかった。
ただ勘で、相手の攻撃の機を読んで身を引いた。
チン、と鍔の鳴る音と共に興人の顔に線が入る。
もう少しずれていれば左目も斬られていた。
小太刀を構えて急所を守っているとは言え、生身全てを守ることはできない。
桐蔵は自らの体の影に攻撃の動きを隠し、なおかつ最小限の動きで斬撃を繰り出す。
まるで斬られた後で、初めて相手が動いたのが分かるかと思うほどだ。
まさに雷。
音が後から来るように、動きが後からついてくる。
興人は覚悟を決めて右手の小太刀――イザナギを逆手に構える。
一か八か、右の小太刀で防ぎながら距離を詰めての一撃。
相手も最速の居合と同時に防御はできまい、と刀の届かない間合いで呼吸を整える。
こぉぉ、と呼気の音を立てて精神を集中させたが、桐蔵は冷ややかな笑みを浮かべた。
「愚かな。捨て身の攻撃など」
捨て身はその名の通り、失敗したことなど考えずに一撃に全てを賭ける。当然読みが外れた時は死ぬ。
桐蔵もこれまでに相手が捨て身でかかって来たことなど一度や二度ではない。その全てを制してきたからここにいるのだ。
だが興人は桐蔵の気配が変わったのを感じた。
先程までは興人の動きに全身の神経を集中しているように感じられたが、それが周り全体を感じ取るように意識を広く持ったような。
桐蔵は興人の背後に対して注意を向けている。
音はしないが、興人の背後から誰かが近づいてきている。
興人の知る限り、足音もなくこの状況に近づいてくる人間は一人しかいない。
桐蔵もやや構えを開く。一対一から一対多数の立ち方。
近づいてくる者を敵と認識したようだ。
「加勢なら無用だぜ。これは俺に売られた喧嘩だ」
真剣での斬り合いを喧嘩と称するのか、と呟きながらやってきたのは魁一郎。
騒ぎというほど音を立てていないので、気配を察したか空気を読んだのか。帯刀している様子だ。
だが桐蔵は動じた様子もなく言ってのける。
「私は構わん。どうせそちらの坊やにも用があるからな。貴殿の次はその坊やだ。一度に相手をしても構わんよ」
むしろ手間が省けると平然と言う。
「私は果し合いに来たのではない。これは警察に任せるべき案件だ」
「私を警察に引き渡すにはまず取り押さえねばならんぞ」
「もう家の者が通報している」
「ふん。嘘がヘタだな。まあいい、今日は一人に手傷を負わせたのでよしとしよう。二人同時に相手をしては、着物に血が付くかもしれん」
それに戦う気のない、逃げに徹した相手を仕留めるのは骨が折れる上に面白くないと呟き、
「どうせなら本気で挑んでもらわなくてはな。次は完璧な舞台を用意した上で仕留めよう」
楽しみだ――と嘲笑うと、ふっと力が抜けた様に体を倒れ込ませ、
キィィン! と金属のぶつかる音が闇夜に響き渡った。
ではまた会おう、と踵を返して立ち去る桐蔵を二人は黙って見送る。
魁一郎は懐に手をやり、そこから愛刀を取り出す。
刀の鞘には斬り裂かれたような傷が付いていた。
桐蔵は最後に刀を抜いて、魁一郎の脇腹に斬りつけて行ったようだ。
「刀のおかげで助かったのか?」
「いや、分かっていて刀を狙ったんだろう」
急所を狙うこともできたのだろうが、殺気が無かったから危険に反応しなかったのも事実だ。
挨拶代わりに技を見せて行ったのだろう。
興人には見られたのだから公平にしたつもりなのか。それとも見られた所で全く問題にしない自信があるのか。
恐らくは後者であろうが。
「ぐ……」
興人が膝を付いて呻くのを見て、魁一郎は一先ず屋敷に戻った。
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