鏑木

鏑木 1

 街を見下ろすような高台に位置する大きな屋敷。

 その広い庭に年若い青年が立っていた。

 遠目には少年と言えるくらいのようだが、端正な顔立ちに強い意志を感じさせる引き締まった口元は、人生経験を積んだ大人のように感じさせた。

 白い軍服のような出で立ちで、藁を棒状に束ねたような柱を前に静かに目を閉じていた。

 蝶や鳥が飛んでいなければ、時間が止まっているのかと錯覚するほどであったが、ふいに白い人影は音もなく動く。

 どこから取り出したのか黒い棒から白い刃を閃かせ、そして一瞬でまた元の状態に戻す。

 やや遅れて、藁の棒に斜めの線が入り、ゆっくりと境界線をズラすと、ぽとりと上半分が地面に落ちた。

 剣術の心得がなければ、今のが抜刀――鞘に納めた刀を抜いて、巻き藁を両断し、すぐさま鞘に戻したものであると理解できなかっただろう。

「さすがですね」

 庭に面した広い部屋の畳に正座し、先程から青年を見ていた女性が声をかけた。

「動かぬ物を斬るだけならできて当然です」

 正座した女性は着物に、やや白髪の混じった髪を纏め上げ、木彫りの簪を刺していた。

 年の頃は四十半ばだが芯の通った姿勢に凛とした声は、実年齢よりもはるかに若く見える。

 女性は青年のいつもと変わらない謙遜に口元を緩め、

「そう言うことではありません。背後から見ている私にも、刀がどこから出てきたのか分かりませんでしたよ」

 青年は向き直り、刀に目を落とす。

 一般的な日本刀よりも短い、長脇差と呼ばれる刀だ。

 小太刀よりは長く反りが少ない。

 忍者刀というのがピッタリだが、代々伝えられる話には忍者が使用したというくだりは無い。

 侍の家系でもなく、古来より秘密裏に技を磨き上げ、有事の際には刀を振るう。

 蕪古流剣術。

 決して表立ってはならないと、世間的には華道の家元。

 鏑古流華道道場を構えているが、裏ではこうして剣の修練も怠らなかった――のだが、青年は何か納得のいかない、満たされない何かがあるものの、それが何か分からないといった様子だ。

「何か悩んでいるようですね」

「蕪古流とは、何のためにあるのです?」

 女性はやや口元を結ぶ。

「先代、父上は警察機関とも親交があったと聞きます。古来、警察の相談役を担っていたと。それも近代に入ってその必要も無くなった」

 父親は青年が若い頃にこの世を去った。

 警察関係者と面識がないわけではないが、父親もあまり関係を継がせるつもりはなかったようだ。

 これから時代が移り変わって行くことを知っていたのだろう。

 今は有事に対応するのは警察の役目。

 蕪古流がこの刀――灰奥を振るう機会はもうないだろう。

 今は家宝として受け継がれている。

 登録してある物で違法ではないが、当然街中で振り回していいものではない。

「家宝なら、家の威厳を示せるような所に飾っておくのがよいのでしょう。あるいは美術館にでも寄付した方が人の役に立つのでしょう。しかし蕪古流は剣の技。この伝統を守ることに意味はあるのでしょうか?」

「あなたは伝統を守ることに意味は無いと仰るのですか?」

「いえ、そういうわけでは……」

 青年は少し言い淀む。

「私はその伝統に傷をつけることを恐れているのです」

 人を斬らぬ、殺さぬ剣術はいずれ形骸化し、ただ型を模倣するだけのものになるのではないか。

 それなら剣道をやればいいことだ。

 蕪古流を継承することに、技を修練することに何の意味があるというのか。

「あの人もよくそうやって悩んでいました」

 青年はやや渋い顔をする。

 それはそうだろうが、父とでは時代が違う。

 それぞれの悩みはあるだろうが、時代の流れからして、より後世の方がその問題については大きいのではないかとも思う。

 いや、それも自分の方がより大きな問題に直面していると思いたいだけなのかもしれない。

 父もまた、祖父に対して同じ思いを抱いていたことだろう。

「それはそうと、今日来客がありますからね。あなたも挨拶してください」

 承知、と短く応えると、残った巻き藁に向かって居合い抜きの構えを取る。

「あなたの許嫁です」

 ざくっ、と刃は巻き藁に食い込んで止まる。

「今、なんと?」

「あなたの許嫁です」

「聞いておりません」

「今初めて言いましたからね」

「なぜ今頃になって言うのですか」

「何か準備をしておきたかったのですか?」

 いえ、そういうわけでは……と言葉を濁し、食い込んだ刃を抜く。

「それとも、もう既に誰か心に決めた人でも?」

 女性は悪戯っぽく笑みを浮かべるが、青年は「いえ……」と呟いただけで巻き藁に向かう。

「許嫁は家同士が決めたことです。それをどうするかはあなた次第です。もちろん先方にとっても」

 無論だ。誰と添い遂げるかは自分で決める、と言わんばかりに刀を閃かせる。

 巻き藁は見事に切断されて落ちた。

「稲葉という名前を知っていますね」

 もちろんです、という顔で刀を仕舞う。

 大昔は同じ源流を辿った流派だと聞くが、今では全く別の型を取る。

 分かりやすく言えば稲葉は二刀流。

 青年に言わせれば、一刀では足りないから、二刀使えば良いというような安易な考えに過ぎない。

 剣の真理にはほど遠いと思っている。

 古来より何かにつけてどちらが上だのいざこざが絶えなかったというが、縄張りが離れていることもあってお互い必要以上に干渉することなく存続できていた。

「まさか、そこから嫁いでくるわけではありますまい」

 それならば話になる以前の問題だ。

「さあ、どうでしょうね」

 女性は何かを含んだように笑う。

「誰が来ようと関係ありません。私は自分の感性の赴くままに行動するだけです」

「そういう所はお父上にそっくりですね」

 女性は青年の佇まいを真っ直ぐに見つめ、その名を呼んだ。

「魁一郎」

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