動く死体

尾津杏奈

動く死体

 明日のことは思いつかない。

 今日のことも思い出せない。

 それはただ、川辺の葦原の向こう、深夜に揺れる火事の火のように静かに揺れていた。


    §


 夕暮れ。陽が落ちたあとの、夏の永い黄昏。街の音のすべてが、太陽が少しだけ残した、光のない青空に吸い込まれてしまった。そんな静けさ。


 今は七月の終わり。


 いつもの季節ならば、厚い布団のような湿気と暑さの日々。姿を隠しても涼しさはやってこない。息が詰まるような焦燥感に苛まれていたはずだ。

 けれど今年はそんなことはなく、ずいぶんと過ごしやすい。夕暮れの街は涼やかな風で満ちていた。海の香とともに。

 気だるい空気のなかで流れてゆくのは、豆腐屋のラッパの音。おばちゃんたちの喋り声。犬の鳴き声。蝉。それでも、のしかかるような静けさ。それが夕暮れの気だるさだ。


 突然響く羽音。大きい。鳩だ。

 鳩は音だけを残して姿を空へと溶かしてゆく。まるで、仮染めの静けさを嘲笑うかのように。


 そのとき僕は窓の外を見ていた。自室のパイプベッドの縁に腰かけて、ただぼんやりと。 

「ふぅ……」

 と、僕は深いため息をひとつついた。その理由がこれだった。僕の手に、一通の手紙。消印は市内。差出人『加納かのう沙詠さよみ


 加納沙詠は一昨年、僕たちが高一のときに同じクラスだったのだ。

 目立たないひとだった。


 加納沙詠は印象に残らないのがとても印象的な生徒だった。だから僕は加納沙詠についてほとんど知らない。言葉を交わしたこともない。普通。そんな言葉しか思い浮かばない。特徴を思い出そうとしても何も出てこなかった。強いていうなら眼鏡をかけていたかな。それからとても長い髪。結んでいた記憶はないけれど、そのまま垂らしていたっていう記憶もない。不思議だ。その他には、静かに窓の外を見続けていたのを何度が見たことがあった。


 あとは、よく、わからない。


 それなのになぜ……


 とにかく僕は混乱していた。


    §


 藤谷ふじたに芳樹よしき


 突然のお手紙、ごめんなさい。一年の時同じクラスだった加納沙詠です。覚えていますか?

 ろくに話したこともないのに、こんな手紙を出すのは違うのでしょうが、わたしが藤谷くんに手紙を書くのはこれが最初で最後。どうか見逃してください。


 くだらない話を長々と続けるのはいやなので、要点だけ伝えます。


 わたしは対外的に、今年の夏休みはずっと沖縄に旅行に行っていることになっています。少なくとも母はそう信じているはずです。でも、消印、見ればわかりますよね。わたしはこの街にいます。

 沖縄行きは嘘です。

 わたし、しばらくの間、誰とも会いたくないのです。誰にも探されないままでいられるように。わたし、もう、煩わされたくなかったのです。


 本来この手紙は書くべきではないとは解っています。でも、もし出さなかったらわたしの十七年が、ただ惨めなだけになってしまう。その気持ちがこの手紙をわたしに書かせました。巻きこんでごめんなさい。


 わたし、藤谷くんの笑顔が好きです。恋愛じゃなくてごめんなさい。嫌なことしかなかったわたしの世界の中で、たぶん、初めて好きになったのが藤谷くんの笑顔でした。藤谷くんの笑顔を見ていると、いつかわたしもそうやって笑うことができるのではないかと思うことができました。そう考えられるだけでも、わたしにとって驚きでした。すぎた望みだというのは理解しています。それでもいつか、わたしもそういう笑顔になりたい、そうなりたいと思える唯一でした。


 本当にわたし、藤谷くんみたいに笑いたかった。

 でももう、無理。ごめんね。


 わたしはよく、何の疑いもない、おちびのさよみちゃんのままでいられたらよかったと思うことがあります。そうだったら、こんな思いも知らないままでいられたのだろうかと考えるのです。それでもわたしは、加納沙詠としてきちんと生きたかった。おちびさんとしてではなく、ひとりの人間として、女性として、わたしとして。藤谷くんの笑顔を見て、そう思えたの。嬉しかった。藤谷くん、ありがとう。


 長くなってごめんなさい。


 それでは体に気をつけて。夏風邪なんて引かないでください。わたしは藤谷くんにはずっと笑っていてほしいと思っています。わがまますぎるお願いですか?

なんて。


 さようなら。本当に。


        加納沙詠


    §


 だから僕は、手紙を持ったまま呆然とベッドに腰かけていた。

 真夏にしては涼しすぎる風が、開けっぱなしの窓から静かに吹きこんできた。風は机の上で開いたままになっていた辞書のページをさらっていく。

 そのとき、静かな夏の宵の青い夕霞の向こうから、絞りだすようなため息を聞いた気がした。


 僕の目は釘づけになった。

 誰かが窓枠に腰かけていた。

 誰だ?

 さっきまで誰もいなかったはずの窓。

 しかもここは二階。

 こちらを見て笑っている。

 髪の長い……

 女?

 女だ。


「誰かわかるよね」

 女は喉の奥に笑いをこめながら言った。

 僕は女の顔をあらためて見た。確かにどこか見覚えのある顔。けれどこんな笑いかたをする女を、僕は知らない。

「忘れちゃったの? かわいそう」

 女はにやにやと笑いながら、窓枠から僕の目を覗きこんだ。

 歳は僕と同じくらいだろうか。無造作な長い髪。上目づかいに僕を見つづける夜のように深い色の瞳。いたずらな子供のように他人を小馬鹿にした笑いかた。やわらかな高い声。

 そんなもの、僕は知らない。

「中身が変わると、やっぱ外見まで変わっちゃうのかなぁ」

 女は探るように僕の目を見つめてから言い放つ。

「あぁそうだ。こうすると判るよね」

 女はそう言ってうつむき加減に窓の外を見た。

 静かな音楽のような横顔。

 加納沙詠?

 たぶん。

 触れてしまったら割れそうに張り詰めたガラスの瞳。

 僕の脳は今、はっきりと思い出した。

 それは彼女の、加納沙詠のものだ。

「加納、沙詠?」

 僕がそう聞いたとたん、彼女は女に戻った。

 にやにや笑いといたずらに輝く黒い眼。女の姿は確かに加納沙詠。けれど明らかに加納沙詠ではなかった。

「よかった。忘れているわけじゃぁないんだね。まぁそっか。あんな手紙を出された日には忘れるわけにはいかないよね。例え忘れていても思い出す」

 女はくっくと喉の奥で笑うと、さらりと僕の目の前へ舞い降りた。

「あのね、加納沙詠は死んだよ。あんたに手紙を出したあとすぐ。正確には、死んでいる最中っていうのかな。この体は加納沙詠の死体だけれど、ぼくは彼女じゃない。理解してもらおうだなんて思ってはいないけれど、誤解だけはされたくないんだ。とにかくそういうこと」

「嘘だ」

「嘘じゃないよ」

「加納さん、冗談はやめてよ。タチが悪すぎる」

「冗談じゃないよ」

「これが冗談じゃないだって⁉ そんなこと信じられるわけがないじゃないか!」

 女はにたにた笑いながら僕を見ている。

「信じられなくてもこれが現実。しかたないじゃん」

「加納さん‼」

「だからぼくは加納沙詠じゃないってばぁ。加納沙詠は確かに死んだんだ」

「いい加減にしてくれよ‼」

 自称加納沙詠の死体は、小首をかしげて僕を見ている。心から楽しんでいるかのように。

「なんでそんなに怒るのさ」

「うるさい」

「あんたにとって加納沙詠は、特別記憶に引っかかることもなかった人間だったはずだろう?」

「うるさい!」

「手紙が届かなけりゃ、とっくに記憶の彼方に消えていた人物でしょ。

 あ、あぁ、そっかぁ。手紙ね。手紙を見たから、あんたそんなに怒るんだ。加納沙詠に思いをめぐらせてみたわけかぁ。柄にもなく。ねぇ」

 加納沙詠の死体はついと僕へと忍びより、僕の顎にその姿を隠すようにして、僕の目をにたりとのぞきこんだ。

 ぞくり

 と

 冷たい拒絶。

 僕の体のどこか遠いところで、これは異質なものだという、つめたいかんしょく。

 けれど

 これは誰だ

 これは何だ

 いったい

 これは

 何

 だ

 これは

 これは⁉

「うるさい‼」

 僕は叫んだ。加納沙詠の死体の襟首をつかみながら、バネのように立ち上がって。できることならば、僕の中にこびりつく暗闇のような疑問符をすべて消し去ってしまいたかった。彼の沙詠の『死体』と一緒に。

 加納沙詠の死体は、口元だけで微笑むと、襟首を締めあげる僕の手に、つつと指を這わせた。指先。手の甲。手首。肘、肩、肩甲骨。そしてそのまま静かに僕の首をぎりりと締めつけた。

「知ってる? 人間って意外と簡単に死ぬよ。ね、このままぼくが力を緩めずにいたら、あんたは死ぬ。どう? 死んでみる?」

 恐怖も息苦しさもなかった。ただこれから僕は死ぬのだろうという恍惚感が喉のあたりからあふれ出していた。

 そのときの僕がどんな顔をしていたのか、僕は知らない。

「なんてね」

 加納沙詠の死体はにたりと笑うと、僕の首から指を離した。

 僕は激しくむせて、その場に倒れこんだ。

 頭に、指先に、つま先に、新しい血液が大急ぎで巡っていくのを実感した。そのときはじめて、もしかしたら本当に死んでいたかもしれないという恐怖心が生まれた。それは、あのつめたい暗闇のような疑問符にも似ていた。

「加納沙詠が死んだって証拠を見せてあげるよ」

 そう言って、加納沙詠の死体は僕の目の前に左手の手首を突き出した。

「ほらこれ。傷跡。彼女アルコールと睡眠薬を飲んで、それから温かい湯船につかった。そこでここを切ったんだよ。とっても深くね。たくさんの、たくさんの血が流れて、加納沙詠は死ぬところだったんだ。ぼくは加納沙詠の体が完全に機能を停止してしまう直前に、その中に放り込まれただけ。好き好んで着たわけじゃない。大変だったんだよ。痛くてさ。もうパニックだったよ。気がついたらここにいて、僕は当然のこととして傷口をふさいで新しい血を巡らせた。加納沙詠のためなんかじゃなくて、ぼくのためにね。見て」

 加納沙詠の死体は、掌の向こうから小さなガラス玉のようなものを取り出して僕に見せた。

「この小さなほうが睡眠薬の成分とアルコール。それと、この一つだけ大きいの。こっちはねぇ、加納沙詠。魂っていうの? とにかくそんなやつ」

 僕は頭がどうにかなりそうだ。

「ぼくはね、壊れた体の中につっこまれた当然の権利として、加納沙詠の脳に蓄積された記憶を見たよ。だからあんたのところに来たんだ。家にはもどれないからね。

ところで、あんたのところの両親は?」

「弟と旅行に行ってる」

「そ」

「加納さん」

「だからぁ、ぼくは加納沙詠じゃないってば」

「じゃあ誰だよ」

「知らない」

「自分のことだろ⁉」

「ぼくはぼく以外の何者でもないってことはわかるよ。でもぼくはぼくがだれだかわからない。あんたがぼくの呼び方のことで困っているのなら、そうだね。死体とか呼べばいいんじゃない? 実際、この体は加納沙詠の死体なんだからさぁ。ま、厳密に言えば死体ってわけじゃないんだろうけど」

「死体……」

「加納沙詠のね。

っていうか、あんた酷い顔色だよ。一度休みなよ。あんたのほうが死にそうだ」

 僕の手足は痺れたように重く、動かす気さえ起こらなくなっていた。胸の中で逆巻く感情は脳に伝わらない。

 死体は手に持った睡眠薬の成分の欠片を僕の口に押し当てた。ガラスのように見えたそれは、僕の喉に吸い込まれるように溶けて消えた。僕は甘い眠気に包まれた。そしてそのまま崩れるように眠りに落ちた。

「世界はつらいことばかりだ」

 僕は、そんなつぶやきを聞いたような気がした。

 空は深い夜の色に染まっていた。


    §


 そこに加納沙詠がいた。

 明るいだけの白い霧の向こうに。

 彼女はただ一点だけを見つめていた。

 同じクラスだったときの、あのうつむき加減の加納沙詠ではなく、ましてや死体の顔でもない、僕の知らない顔をして。


 深夜の火事。


 ふと、僕は思った。

 その炎に照らされながら、僕は身動きができないままでいた。

 いつまでも消えない深夜の火事。

 誰も気づかない。

 誰も助けを呼ばない。

 静かに、静かに燃え続ける火事。

 深夜の火事。


    §


 頬のあたりに軽いほてりを残したまま、僕は目覚めた。

 時計を見る。まだ六時にもなっていない。

 やわらかい光の中で部屋中が軟体動物のようにうごめいて見える。夢の中の白い霞が現実の中まであふれ出てきたようだ。


 どこからか甘い匂いがしてくる。

 僕は窓のほうを見た。

 朝のきんとした光の中に死体はいた。僕の椅子に座って国語の辞書を読んでいる。真剣に。ページをめくる動作のひとつひとつまでもが、何者かに見せるために計算しつくされたもののようだ。まるで……

 なんだっけ。

 そのとき死体が僕が起きたのに気づいて顔をあげた。

「おはよう」

 思い切りよく辞書を閉じて死体は言った。

「あ、おはよう」

 と僕。

 死体は辞書を机の上に置くと、頬杖をついて僕を見た。ただ、僕を。

 とく

 そこに死体がいる。けれど僕に昨日のような動揺がない。僕が死体といるという現実を許容したのだろうか?

 静かだ。

 ただ。静かだ。

 こんな気持ちは今が朝だからなのかも知れないけれど。

 死体が、いる。

「もしかしてずっとここにいたの?」

「そうだよ。ほかに行くところなんてないし。それに今、この家にはあんたしかいないんでしょ? それがどうした?」

 とく とく

 そういえば僕はベッドで、きちんと布団をかぶって眠っていた。死体に加納沙詠の睡眠薬を押しこまれたとき、僕は床の上に倒れたのではなかったろうか。

「いや、別に」

「そ」

 死体は僕に向かってゆったりとわらいかけている。ただそっと。

 僕は死体から目が離せないでいた。

「でも、あの」

「何」

 とく とく

「だからさ、えっと」

「だから何」

「や、そうじゃなくて、あの……」

 とく とく とく

「何? ハッキリ言いなよ」

「だからほら、死体は女だし、俺は男で、あっと、だから……とか、そういうことが起こるとか、だから、間違い……ってやつ? とか、起こるとか、色々心配するとか、あの、別に僕がそういうことを考えているっていうわけじゃなくて、あの……一般的に考えてみて、常識的じゃないっていうか……」

 とく とくとく とく

 僕の顔は今、これ以上ないくらい火照っている。きっとみじめなくらい赤い顔をしている。

「ばっかじゃない!」

 死体は叫ぶと、火のついたように笑い出した。

「心配するだろう!」

 言い捨てて僕はがぱっと頭から布団をかぶった。僕はなんて間抜けなんだろう。一生に一度、あるかないかのとんでもない醜態をさらしてしまったような気がする。異性の前で。心臓が口から飛び出るなんていうのは、こういうことを言うに違いない。体中の血が顔に集まって、ぐつぐつ煮えている。

「ぼくが女かぁ。そりゃ加納沙詠は女だけどさぁ、でも、中身のぼくまで女だって決めつけるのはどうなのかなぁ。ねぇ、そんな確証を持つことなんて誰にもできっこないんじゃない? ぼく自身がぼくをわ解かんないのに」

 じゃ、男⁉

 僕はかぶっていた布団ごと、上半身だけ跳ね起きた。

 男⁉

 と、叫びたかった。けれど僕の口は言葉を発することはなく、酸欠の魚よろしく、意味のないぱくぱくをくり返すだけだった。いや、僕は酸欠の魚よりみじめだ。

「そう思わない?」

 死体はひらひらと僕のほうへ歩いてきた。僕には普通の人間の歩き方ではないように思えた。それは。

 死体は僕の頬へそうっと手をのばし、僕の両方の耳を軽くつまんだ。「本当にね、ぼくはよくわからないんだ。ぼくのことをさ。本来のぼくが何者だか、どんな姿をしているかなんて知っちゃいないんだから」

 死体の顔が近づいてくる。死体は僕の頬に触れないぎりぎりのところまで顔を寄せると、僕の左耳に、そっ、とささやいた。

「ぼくはぼくさ」

 右耳が嫉妬した。


 どく


 心臓の音。

 今この心臓を死体が引きずり出してくれるのなら、きっと痛みなんてないだろう。

 気持ち悪い。

 得体の知れないものに、僕は何をしているのだろう。けれど止まらない。ブレーキの壊れた坂道の自転車だ。まるで。

「ただ、それだけ」

 死体は僕から顔を離すと、いたずらな子供よろしく、にかりと笑って僕の目をのぞいた。そして突然僕の耳たぶをおもいきり引っ張った。

「なぁに赤くなってんのさぁ!」

 死体はこう言って手を離した。

「うるさい」

 思考力だけが溶けだしてしまった気がする。

 僕はそれ以上、話すことも動くことさえもできなかった。

「ね、朝ごはん食べるっしょ? 何か見繕ってくるよ。台所は下?」

 死体はさらりと振りかえると、真っ直ぐに扉のほうへ歩いていった。死体が歩くと鈴が鳴るような音がする。もちろんこれは僕の耳の中だけの現象。

 遠くの方から、朝を引きはがすような蝉の鳴き声が響いているのを微かに感じた。遠い過去から響いてくるような、そんな気怠さを持っていた。僕はそれにつられて窓を見た。ほこりが光る窓ガラスに、日に焼けた僕の顔が映っていた。少し笑ってみる。けれどひきつった口は、笑いの形にはならなかった。


 加納沙詠はどうして僕の笑顔が好きだったんだろう?


 僕の間の抜けた表情に発破をかけるるように、騒々しい羽音を立てながら、数羽の鳩が空へと上がっていった。

 そうだ、思い出した。

 これは映画だ。映画で見た花魁。テレビで見た歌舞伎の女形。魅せるために計算しつくされた『女』。

 ああ、そうか。

 耳の奥で拍子木が鳴った。

 何もかもを覆い隠すように響く、いつまでも消えない衣擦れの音。

 それをかき消すように僕を呼ぶ声。


 ごはんができたよ


 僕はお腹の空いているのも思い出した。


    §


 食パンの焼けるにおい。バターのにおい。たまごの焼けるにおい。あたたかな牛乳のにおい。

 僕が台所についたころには、朝食の準備はすっかり整っていた。ただし一人分だけ。

「冷めないうちに食べな。ちゃんとしてるかどうか、わかんないけど」

 死体は朝食の並んだ席の向かいに座って微笑んでいた。

「死体は?」

「必要ないよ」

 何を言っているのという顔だった。

「死体も食べてないだろう?」

「まぁね。でもぼくはいらないんだ。必要ないからね。加納沙詠の身体のことは知らないけど。ぼくは『死体』だからね」

 死体、だから。

 僕は死体の顔を見た。いとこの小さな男の子よりもずっと子供のような顔をしている気がする。僕はその存在感のない頬に触れてみたい衝動にかられた。

「よくわからないんだ。痛みも。叩かれても何をされても感覚はあるけれど、それが『痛い』なのかどうなのか、ぼくには理解できない。不快感はあるよ。触覚もある。でも、感覚のすべてが鈍いのかな。空腹感だってわからない。食欲が理解できないんだ。まぁでも、ぼくが空腹を感じなくても、この体で活動を続けるかぎり、体の中に蓄積されたエネルギーは浪費される。そのうち餓死なんてことになったら笑えないね。そうなったら死体だよ。今度こそ。ぼくには外傷を治すことはできても、エネルギーを作ることはできないなぁ。ねぇ」

 死体は一瞬、その視線を遠くに飛ばしたあと、くすくすと笑った。

 きっと僕は情けない顔をしている。

「これ、食べろよ」

 僕は無駄だと解っている言葉を、喉の奥から絞り出した。

 これしか言えない。

「何でさ」

 僕は死体の顔を見られない。

 くすくす笑う死体の息づかいだけが、耳に、痛い。

 死体が、死ぬ。

 とは、

 どういうことだろう。

 死体が死ぬ。

 死体はまだ笑っている。

 死体は死ぬのか?

 そんなことを考えたとき、突然空気が動いた。死体が僕の皿のトーストを一枚、つまみ上げたのだ。

 僕は死体を見た。

 死体はトーストを小さく千切ると、すいっと僕に突き出した。

「食べなよ」

 死体が笑っている。やわらかに。

 僕は言われるままに食べた。

 死体の指から。

 死体の白い指が僕の唇に触れ……


 ニアミス。


 僕の心臓がこぼれ落ちる。死体はやわらかに笑いながら、次々とトーストを千切り、僕の口へ運んでいった。僕は食べた。黙々と。僕の頭の中は、死体の笑い声と白い指のこと、それと僕の心臓のことでいっぱいになっていく。トーストだけが機械的に運ばれる。僕の口をめがけて。それを僕は食べるだけ。ただ、食べるだけ。食べるだけ。食べる。食べるだけ。食べる。食べる。食べる。

「あ」

 死体が小さな声をあげた。

「歯形」

 死体はにやっと笑う。

 僕は死体の白い指を見た。人差し指にはっきりと浮かんでいたのは僕の歯形。僕の。

「あ……ごめん。痛かったよね」

「ううん」

 死体は笑って

「死体だからね」

 自分の人差し指を、僕の歯形を、ぺろりと舐めた。


 どくん


 息ができない。僕は。

 死体が二枚目のトーストもつまみ上げた。先程と同じように淡々と千切ったそれを僕の口に運ぶ。そこには何の違和感もなく、自然な作業だった。

「はい」

 死体の人差し指の先には、僕の歯形が刻まれている。僕だけが不自然に口をつぐんでいる。

「どうしたのさ、食べなよ」

 僕の胃の、もっと奥のほうから、煮えたぎった血液が上昇してくる。それが心臓のあたりでわだかまる。このまま僕の心臓なんて燃えて灰になってしまえばいい。そのまま飛ばされてしまえばいいのに。

「お腹いっぱい?」

 死体は言った。

 僕は逃げた。


 僕はほうほうの体で自分の部屋に向かった。

 僕の両手はすべての落ち着きを放りだした。震えているのかもしれない。階段を昇る足がもつれる。

 死体の白い指が、僕の歯形の刻まれた白い指が、僕の唇に触れる。触れる。触れるとはどういうことを意味するのだろう。

 意味。

 意味は、

 ないに決まっている。

 意味なんてない。

 在るはずなんてない。

 ない。

 ないんだ。

 僕は部屋の扉を力任せに閉めた。そしてそのまま扉にもたれてため息をついた。

 死体は何を思ったろう。逃げた僕を見て。僕を見て死体は.……


 階段を昇ってくるリズミカルな足音。僕の中に刻まれる困惑。冷めない血。近づく足音。扉の前で立ち止まる。死体が来る。


 ノック。


「街へ出よう。どっか連れてって。どこでもいいからさぁ、ね」

 僕の背中に静かな振動が伝わってくる。

 そうだ、映画でも観よう。そうしたら僕もいまよりマシになれるかもしれない。それがいいかもしれない。少なくとも家の中で悶々としているよりはずっといいはずだ。

 街へ出よう。

「そうだね」

 僕は扉を開けて、死体を部屋へと招き入れた。

「あ、服貸して。ぼくが着られそうなやつ。何でもいいからさぁ。加納沙詠の服着たまんまじゃあ、誰か知り合いに会ったとき面倒そうだ」

 そうだ。死体は加納沙詠。外見は。そして加納沙詠は、今沖縄にいる設定だった。

「服、何でもいいんだよね」

 僕は平静を装いながら言った。けれど、僕の中はぐしゃぐしゃだ。

 僕は死体と顔を合わせないようにしながらクローゼットを引っかき回し、なんとか死体の着られそうな服を探しだした。

 カーキのハーフトラックパンツと長袖のボーダーTシャツ。

「何か帽子ない?」

 レザーキャップを手渡した。

「ありがと」

 僕は自分の着替えを持って部屋の外へ出た。

 扉の内側から、死体の着替える気配が漂ってくる。高くやさしく響く鼻歌と一緒に。英語の歌だ。なんだろう、ブルース?

 僕は扉にもたれて耳をすました。死体の歌うのをずっと聴いていたかった。その歌は、懐かしい甘さと朝のような気だるい明るさに満ちていて、けれどどこかとても寂しかった。


    §


 僕の家から街の中心までの交通機関は、バスと地下鉄。かかる時間はどちらも十分と少し。自転車でも三十分とかからない。

 僕と死体は、やってきたバスを見逃して、地下鉄の駅へ向かった。暑くなりはじめていた夏の太陽を避けるように、地下へと続く長い階段を降りる。光を避けて夜へと逃げ続ける吸血鬼にでもなったみたいだ。僕たちは。

 死体は途切れ途切れに、さっきの歌を歌い続けていた。

 僕は買った切符を死体に渡した。自動改札を潜ったとき、地下鉄が近づいてくる音が聞こえた。

「走ろう!」

 そう言って死体は走り出した。軽快に。僕は慌てて死体のあとを追いかけた。死体はウサギのように階段をホームへと跳ね降りる。そして開きはじめたドアの中に、するりと入りこんだ。

 僕は!

 閉まりかけたドアに、ギリギリセーフで飛び込んだ。

 死体はふふんと鼻を鳴らして僕を見て言った。

「セーフ」

 にやにや笑いで僕を見ながら、死体はすぐそばのシートにすとんと腰かけた。

 夏の朝。とはいっても、もう通勤の時間帯ではない。学生は夏休みの最中。車内はガラガラに空いていた。

 僕も死体の隣へ座る。

 死体はどこでせしめてきたのか、長い麻紐をご機嫌で揺らしていた。それを膝の上に置いて、髪を器用に二等分する。あの歌を小さな声で歌いながら、器用な手つきで髪をフィッシュボーンに仕上げていった。僕はうつむいたままそれを見ていた。死体の右の人差し指には、まだ微かに僕の跡が残っている。赤く。

 とくん

 この指が僕の喉を絞めた。白い指が。

 死体は編み終えたフィッシュボーンに麻紐を巻きつけると、ボケットからカードタイプのソーイングセットを取り出し、その小さな糸切り鋏で麻紐を切った。ソーイングセットは僕のではない。加納沙詠のものだったのかもしれない。

 死体は麻紐をくるりと結ぶと、もう片方のフィッシュボーンに取りかかった。僕は滑らかに動き続ける白い指を見続ける。死体は微かな声で歌を歌いつづけていた。

「ね」

 僕は声をかけた。

「ん?」

 死体は気のない返事を返した。

「その歌」

「え?」

「さっきからずっと歌っている、その歌」

「ああ」

「何?」

 死体は編み終わった二本目のフィッシュボーンも器用に麻紐でとめた。

「黒人霊歌だよ」

 死体は残った麻紐を、左の手首に巻きつけた。

「黒人霊歌?」

「そ」

 これは教会みたいなところで歌われる歌なんだろうか。

「ねぇ」

 死体は、麻紐を巻きつけた左手首を、すっと僕の前に突き出した。

「結んで」

「あ、うん」

 僕は言われるまま、死体の左手首に手を伸ばした。麻紐を結ぼうとしたとき、

 僕の指先は加納沙詠の傷痕に触れた。

 深く切ったはずの傷。

 加納沙詠の命の流れ出した、傷。

 僕の指は動かない。加納沙詠の傷に触れたまま。

 そうだ。加納沙詠は死んだ。

 だとしたら、今ここにいるこれはなんだ。本来なら死体は動かない。死は死だ。

「どうしたのさ」

 ニヤリと笑って、死体が僕を見る。

「縛ってくれないの?」

 動かない。僕の指は。

「傷、気になる? これは加納沙詠の傷。加納沙詠が自分の意思でつけた傷だよ。解放されるためにね。気になる? 僕はいちいち気になられたら面倒だからこうして隠しているんだけどなぁ。ねぇ、早く結んで」

 死体が僕を見ている。その夜のように深い眼で。黒い眼で。僕を見ている。加納沙詠の瞳を使って。けれど、僕が見ているのは死体。

「結んで!」

 あ

 僕は今まで白昼夢の中にいたような、そんな感覚から無理やり引きずり出された。嫌な感じだ。

 僕は死体を見た。死体は僕を睨んでいた。それを見てほっとする僕がいる。

 死体には感情がある。

 僕の指はのろのろと動き出した。死体の手首の麻紐を、指をもつれさせながらなんとか形良く結びあげる。

 死体の表情は、すでにあの笑い顔に戻っている。僕は死体の眼を見つめた。

「できたよ。これでいい?」

「ん。ありがとう」


 とくん


 今、僕は死体を見ている。そう。僕が見ているのは死体だ。加納沙詠なんかじゃない。僕は加納沙詠を知らない。僕は知らないんだ。それでも死体の体は加納沙詠。加納沙詠だ。


 とくん


 僕は死体を見ている。死体を見ている?

 僕が見ているのは加納沙詠の身体。死体の、死体自身の体ではない。


 とくん


 それでも僕は死体を見ている。僕は見ている。僕は。死体と加納沙詠。僕が本当に見ているのは……

 駅名を告げるアナウンス。日本語。それから英語。

「ね、降りるのここ?」

 きみが僕を見た。


 とくん


「あ、ああ、そう。ここ」


 とくん


 僕は、きみを、見ている。

 顔が熱い。

 地下鉄は駅に着いた。僕と、きみは、一緒に、ホームに、降りた。


    §


 地下鉄の駅から映画館までは歩いて十分とかからない。もう出勤には遅い。いつもは人で溢れているこの通りも、まだ静かだ。

 僕は前だけを向いて歩く。きみは歌を歌いながら僕の後ろをついてくる。僕はきみの立てる足音だけに集中していた。

「ね、どこに行くの?」

 と、きみ。突然に。

「あ、映画でも観ようと思って」

 僕はきみを見ずに答えた。

 きみの足音が消える。きみが立ち止まった。

「どんな?」

僕も立ち止まった。僕は前を向いたまま答えた。

「わからないよ。上映スケジュール、チェックしてこなかったから。とにかく映画を観ようと思っただけで……なにを観るかなんて考えていなかった」

 ふん

 きみは小さく鼻を鳴らした。

「だったら、笑えるのがいい」

 そうだ。どうせ観るならすてきな映画がいい。

 きみの足音が再び鳴り始める。きみは僕の右側をするりと抜けて、真っ正面から僕の目を覗きこんだ。

「どうした? さっきから」

 きみの顔は変わらない。あの笑い顔だ。

「別に」

 僕の顔は同じではない。昨日の夜から。

「……もっとよく笑うのかと思ってたんだけど」

 そう。僕は本来よく笑う。

 でも今は顔の筋肉が麻痺しているように動かない。そして言いたい言葉も言うべき言葉も、頭の中だけで空回りし続けている。

 僕らはもしかして、長いこと見つめ合ってるんではないだろうか。

 僕らよりも年下の、恋人同士らしい二人が、ひやかすようにこちらを見て通り過ぎていった。

「そういえばあんた、ぼくが来てから一度も笑ってないよね」

 きみはくるりと振り返って、颯爽と歩き出した。きみの足元から一羽の鳩が飛び立って、夏の空の向こうに溶けて消えた。

 高くなりはじめた太陽はビルに反射を振りまきながら、僕を突き刺している。空の青は藍に近い色だった。

「まぁ、いいんだけど」

 きみは言った。

 僕はきみの後を追いかけるように歩き出した。

 僕の耳には入っていなかった蝉の鳴き声が戻ってきた。それと競うように歩く速度を早め、きみを追い越す。もうなんだって、どこだってかまわない。冷房のきいた屋内に飛び込んでしまいたい。この暑さをどうにかしなければ!

「ちょっと! ちょっと待ってってば」

 きみが僕を呼び止めた。

 ちょうど、そのときだった。

 黒いリムジンが、こちらにやってくるのが見えたのは。

 僕がきみを振り返ったとき、そのリムジンが急ブレーキをかけ、きみの横で停まった。

 僕はリムジンを見た。

 きみはリムジンを睨みつけていた。

 窓にはスモーク。

 後部座席の窓が開き、存在自体が金持ちですと言っているような身なりの中年男が顔を出した。

「沙詠? やはり沙詠じゃないか」

 中年男は僕に嫌な一瞥をくれて続けた。

「どうしてこんなところにいるんだ?」

 僕は中年男を見た。いかにもな高価そうな濃いグレーのスーツに、きっちりアイロンのかかった白いシャツ。趣味の悪い柄のネクタイだけが妙に浮いていた。本人はキマっているつもりなのが痛々しかった。

その中年男は、驚いた猿のような赤ら顔できみを見ていた。

「沙詠、この夏休みいっぱい沖縄にいるんじゃなかったのか? 私は沙織さんからそう聞いているぞ」

 中年男は顔に乗せた怒りを増しながら、自分でリムジンのドアを開けて外へと出てきた。運転手が慌てて飛び出してくる。ちょうど後ろに迫ってきていた赤いスポーツカーが急ハンドルを切りながらクラクションを鳴らして通り過ぎた。運転手はそちらに必死の形相で頭をさげると、中年男に走り寄った。

 僕はきみを見た。

 きみは僕が今まで誰の顔にも見たことがないような毒々しい静かな微笑みを浮かべて、中年男を睨みつけていた。僕はそのきみの視線から目をそらしながら、それ以外のきみを見た。

「こちらにいるなら、私に連絡を入れなさい!」

 中年男はきみを恫喝した。

 ふん。

 きみはそれを鼻で笑い飛ばす。

「お前、目はついてるか? ぼくとお前が知り合いだなんて、何を見て言ってるんだ?」

 中年男の赤ら顔が沸騰したように見えた。

「沙詠!」

「別人だ。一昨日来やがれ!」

きみは怒りに満ちたにやり顔を張りつかせながら、泥のように重い視線を中年男にくれていた。

「私をからかうな! お前は自分の立場というものを、しっかり把握し直せ‼︎」

僕の両肩には冷たい感触だけしかなかった。

僕は二人から目をそらした。

運転手は中年男に小声で何かを必死に訴えていた。中年男は意に返さず、きみに向けた苛立ちをも隠さなかった。

蝉の鳴き声がひどく耳障りだった。通り過ぎる人たちはこの惨状を避けて、大きく迂回していく。好奇心だけをこちらに向けて。

「家へ戻りなさい!」

「ホントしつこい!」

 きみは僕を見た。僕はきみを見ないようにしていた。

「沙詠‼︎」

「オッサン、いい加減にしてよ。その小さな目をこじ開けて、よおっくぼくを見な! ぼくがお前にホイホイ着いてくようなタマに見えるか⁉︎」

「……」

 中年男は訳がわからない顔できみを見ていた。

 きみは汚物をみるように中年男を見ていた。

 僕は早くここから立ち去りたかった。

 そのとき

「あのう」

 運転手が、本当に申しわけなさそうに中年男に話しかけた。

「お前には関係ない」

 中年男は毒づいたが、運転手は引かなかった。

「お取り込み中のところ大変申し訳ございませんが、会議の時間が迫っておりますのでお急ぎください」

「ちっ」

 中年男は舌打ちしてリムジンに戻っていった。

が、運転手がドアを閉めようとした瞬間、念を押すように言った。

「貴様は本当に沙詠ではないんだな!」

「ぼくは違う」

 ぱたん、とリムジンのドアが閉められた。

 運転手は駆け足で運転席に戻ると、僕らに小さく会釈をしてから、急加速でリムジンを発進させた。

「ゲスヤロウ」

 ぞっとするような低い声できみはつぶやいた。


 そのとき風が吹いて、デパートの前にたむろしていた鳩たちが、何かに驚いたかのように一斉に音を立てて飛び立っていった。


「行こ!」

 唐突にきみは、僕の腕に手を絡めて勢いよく歩き出した。

「映画は中止! ねぇ、近くに科学館あったよね。プラネタリウムのあるとこ。科学館行こう! プラネタリウム観よう!」

 きみは真っ直ぐ歩き続ける。

「そうだね。きみが観たいものを観よう。でも科学館はそっちじゃない。こっちだ!」

「え」

 そう言って振り向いたきみの顔は、加納沙詠の知り合いと会う以前のきみの顔に戻っていた。


 ほっと、した。


    §


 科学館へ着いたのは、プラネタリウムの第一回目の放映がはじまる十分前だった。僕は券売機でチケットを二枚買って、一枚をきみに渡した。きみはチケットを受け取るとすぐに走り出した。

「ほら早く! はじまっちゃうよ」

 プラネタリウム入り口につながる階段に足をかけたところで、きみは僕に向かって振り向いて言った。

「ね、楽しみ。急ご!」

「開演までには、まだ五分以上あるよ」

「だから早く!」

 きみは駆け出した。僕もきみを追いかけて走る。

 科学館の中は、効きすぎた冷房のせいで、夏とは別の世界だった。そういえば僕は、中学に入るまで、プログラムがかわるたび、毎月のように見にきていたっけ。あんなに熱心に覚えた星の名前だったのに、もうほとんど忘れてしまった。

 僕はいつの間にかきみを追い越していた。

 階段をのぼりきり、プラネタリウムの入り口に着いたとき、僕はきみの左手を握りしめていることに気がついた。きみは少しでも早く入場するために、二ヶ所ある入り口に僕と別れて進もうとした。そのとき、僕はそれを思い知った。軽く身をよじって僕から離れようとしたきみは、手を離さなかった僕に少し驚いたように眼を見開いた。

 そんなふうに一瞬入り口で立ち止まった僕らは、瞬時に絡みあった視線を振りほどいて、同じ入り口からドームの中に入った。


 ドームの中は、まだ第一回目の放映のためか、観客はまばらだった。天井のスクリーンには『本日の夕日』が映し出されていて、穏やかなバックグラウンドミュージックに合わせるように、静かに西へと傾いていった。

 僕はここに通っていたころ、指定席のように座っていた、真東の、中心から数えて四列目の席に向かった。きみはおとなしく僕のあとについてきた。

 きみの足音だけを、僕の耳は拾う。

 席は空いていた。周りにほかの観客もいない。僕は通路側すぐのシートに座った。きみが陣取ったのは、僕の真後ろだった。

僕は天井を見上げるために、深く沈みこむ背もたれに身をまかせた。きみはシートに浅く腰かけているだけなのか、その呼吸音がやけに近く深く、僕の頭を満たしていった。

 きみから意識をはがすように、僕はドーム天井のスクリーンを足速にすべり落ちる偽物の太陽を、ひたすら視線で追った。目の下が熱い。きみの呼吸音は小さく規則的に世界を揺らし、僕の思考を解きほぐす。僕の脳は蕩けてとけて、きみの中に流れこんでしまう。このままだと僕は……

 僕はハッとした。いつの間にか放映が始まっていた。


 都市の光で見ることができる星。澄み切った空気でなければ見られない星々。息のつまるほどの星の数と光に照らされて、自らを深い藍にも似た色に染まる夜空に、僕は押しつぶされそうになる。

 たかが映像なのに。

 僕ら二人の上に沈殿する、星の向こうから溢れ出すような、冷気をともなった沈黙を断ち切るように、きみは僕の耳元で慎重に囁きはじめた。

「ぼく、星は好きだな。嫌なことも忘れられそうな気分になれる。昨日の夜もね、ずっと星を見ていたんだよ。二等星くらいまでは見られたかなぁ」

 僕の耳にしか届かない小さな声できみは言った。

 きみは強く息を吸い、そして何かを飲み込んだ。息を吐くきみ。

 僕は耳からじわじわと緊張が侵食してくるのを感じていた。

「あのね、これからは真面目な話。加納沙詠の話だよ」

 僕は小さくうなづいた。

「はじめに確認しておくけれど、加納沙詠はまだ完全には死んでいない。見たでしょ。あれ。加納沙詠の魂。あれをこの体に戻せば加納沙詠はすぐにでも生き返るよ。体はこうして正常に動いてる。体を蝕む成分は体外に出した。傷も修復した」


 どくん


 僕の目は、まやかしの星から離れられなくなっていた。ただ耳は、きみの声以外の音を聞き取ろうとはしていなかった。

 息を吸う。

 息をはく。

 それだけのことが、今は、つらい。

「加納沙詠の自死をこのまま達成させることはすごく簡単だよ。このまま魂を身体に戻さなければいいだけだからさ。ぼくにとってはどっちも同じなんだ。方法として考えるならね」

 きみは大きく息をはいた。

「でもね、ぼくは加納沙詠の記憶を知っている。加納沙詠がなぜ自死を選ぶまでに至ったのか、その経緯を知っている。知ってしまったらさ、動けなくなるんだよ。実際。生きていればいいことが起こるだとか、自殺なんて弱い人間のすることだとか、何も知らない人間は勝手に言うんだろうけどさぁ、そんなのクソ食らえって思うね。人類の全てがお幸せばっかりじゃないよってね。きれいごとだけじゃ生きていかれないよって。でも、生きていればこそ救われるっていうのも、また事実なんだよね。ぼくにだってわかるさ。

 どちらを選ぶにせよ、なるべく早く決断はしなくっちゃならい。

 そのあとは……ぼくはね、加納沙詠の中から完全に消える。あんたや加納沙詠のアフターケアはできない。ぼくには何もできないんだ。それから、ぼくの記憶の中にも、加納沙詠って存在は残らない。完全に切り取られるんだ。あんたの記憶は……やっぱり忘れちゃうんだろうなぁ。

 ……ぼく自体なくなるのかもね」

 解説の学芸員の声が、静かに流れ去った。

 僕は自分の腹の上で組んだ両手が、ただただ冷えていくのを感じていた。

「ぼくにはどちらが加納沙詠にとって、いいことなのかわからない」

 再びきみは大きく息を吐いた。

 ドームの星の上に、一羽の白鳥の絵が重ねられていた。白鳥座のスワン。あれは友人の亡骸を川の中に探す少年の変わり果てた姿なのだそうだ。決して少女のもとに舞い降りる好色な神様の姿なんかでなく。あれは殺されてしまった友人の亡骸を探し出すために、白鳥に姿を変えた少年だ。

「あんたに考えてほしいこと。それは、加納沙詠の生き死に」

 天の川に首をつっこみ、永遠に見つからない亡骸を探し続ける。

「加納沙詠はね、ホントはずっとあんたに話しかけてみたかったんだ。知らなかっただろ。理由はあんたの笑顔が好きだったからだけじゃない。彼女は見てたんだ。学校の映画鑑賞会のとき。あんたが周りの目を気にせず、涙を流していたのを。そのとき加納沙詠は、あんたを、素直に自分の感情を表に出せる人間なんだなぁと思ったんだよ。それをね、とってもうらやましいと思っていた。あんたは自分の周りのヒトを信頼できているんだろうなって。加納沙詠はね、ずっとヒトを信じてみたいと思っていたんだ。加納沙詠はさ、ヒトだけじゃなくて自分のことも、信じていなかったからさ。あんたと話して、笑って、泣いて……それ以上のことは何一つ望んでいなかったけど。

 だからさ、よけいに加納沙詠はあんたのことを見ていたかったんだ。それであんたを見ることさえ許されなくなるのを怖がった。誰か、第三者にそれを止められることよりも、あんたから軽蔑されること、それを恐れていたよ。加納沙詠にとってあんたの存在は、唯一の救いだったんだ。だからあんたに声をかけることもできず、ただ見ていたんだ。

 加納沙詠はさ、自分のことを、ひどく汚いと思っていたんだよね。そう思いこんで、自分で自分を嫌悪してたよ。加納沙詠はさ、強要されてたんだ。ヒトに知られたら、奇異の目で見られるようなことをね。ひどいよね。被害者は加納沙詠なのに。クソっ! あのクソ伯父っ……!」

 きみは溢れそうになったなにかを飲みくだした。

「あのゲス野郎にっ‼︎」

 かすかな、けれど、鋭い声だった。

 きみはせわしない呼吸を繰り返していた。僕は目を閉じて、できるかぎり学芸員のアナウンスに意識を集中させるよう試みた。無理だとはわかっていたけれど。

「奴は加納沙詠の母親の姉の旦那。成金なんだ。いろいろあってさ、加納の家は奴の金が必要だったから。加納の古い男たちは、奴の金が目的で、奴を迎え入れた。加納の家の権威やら対面やらを保つために。加納の会社を立て直すために。そんなくだらないことやらのためにさ」

 きみの鋭い眼がぼくを見ているのを感じていた。突き刺すように。真っ直ぐに。

「……加納沙詠を生き返らせるのは簡単なことだよ。けど、生きて幸せになれるのかどうかは別の話。今ぼくが頼りたいのはあんただけなんだ。加納沙詠にとってどちらがいいことなのかよく考えてから、ぼくはあんたに答えを出してほしい」

 ドームの星たちは、静かに過去へとさかのぼっていく。どれだけ時間が流れても、その見た目の位置が変わっても、天の川は天の川だ。白鳥座も白鳥座のまま。たかだか数百年、数千年という時間の流れでを経ただけでは。

 天の川から顔をあげられない白鳥は、友人の亡骸を見つけられない。今までも。これからも。星は過去へとさかのぼる。人間の誕生したころ。恐竜の生きていたころ……

 きみはそれ以上の言葉を発することはなかった。僕はきみの薄い呼吸を聞きながら、何も考えないよう星だけを見ていた。距離のない星空は朝に向かいながら、大急ぎで現在へと戻っていく。ちょうど頭の真後ろ、東の空が白みはじめたころには、ドームには未来の空、明日の朝の空を映し出していた。


 夜が明ける。


 学芸員が放映の終りを告げる。と、まばらな観客から、まばらな拍手が起きた。僕は動けないでいた。ドームに EXITの文字が映し出され、固く閉ざされていた全ての扉が開かれた。

 僕は、追い立てられるように扉の向こうに吐き出されていく観客を見ながら、とてつもない重圧と開放感のあいだを漂っている感覚に酔ってしまいそうだった。そんな僕を、切なげに、きみは見ていた。そして今まできみが語った言葉の全てを消し去りたいとでもいうように僕の手を取ると、ぐいと力任せに引っ張って、僕を出口へと導いていってくれた。


    §


 きみに導かれるまま、僕は科学館の展示物をいくつか覗いた。ずっと上の空だった。きみが僕の横で、うんざりしているような顔をしているのはわかっていたけれど、僕にはもう、何かに反応する気力もなかった。

 僕はずっと、考えるともなく、加納沙詠のことを考えていた。僕の頭の中で、それだけがずっとざわめいている。


 夢の中で見た、あの、加納沙詠が、僕を脳の内側から見ていた。それは錯覚とは思えない、奇妙な感覚だった。僕は囚われている。


 僕はとにかく休みたかった。僕の世界は全てが混乱していた。

 ぴくりとも動かず、何も考えず、ただきみと向かいあいたかった。そうして頭と心の中をきちんと整理しなければ、僕はずっとこんな調子で、きみをイラつかせるだけだ。

 だから僕は、昼にはまだ早かったけれど、昼食をとるために、科学館の地下にあるレストランに向かった。きみが食べないことを忘れたわけではもちろんなかった。とにかく、僕はゆっくり座りたかっった。


 レストランは開店したばかりのようで、僕らが今日一番目のお客のようだった。僕は券売機で、ミートスバゲッティとソーダ水の食券を買った。一応きみにも聞いてみる。きみは首を横に振っただけだった。やっぱり食べない。

 僕は食券を持って、一番奥のテーブルに着いた。きみは僕の真向かいの席に座った。朝食のときのように。

「失礼します」

 ぼくの母と同じくらいだろうか。無愛想なホール係が食券の半券を持っていった。

 僕はテーブルに残された半券を見た。

「ねえ死体、このままでいることはできないのかな?」

 きみの顔を視線の正面に見た途端に、僕の口からこぼれ落ちてきた言葉がこれだった。

 きみの眼はこれ以上ないくらいに見開いて、心底驚いているようだった。

「何て?」

「死体がずっと死体のままでいることはできないのかと思って」

 きみの視線がぐらりと揺れる。

「どうしてさ?」

 それは僕が聞きたい。

 きみが僕の目を真っ直ぐに見ている。きみの深い眼が僕の目を。きみの白い指が動き出す。白い指。きみの。

 炎に透ける蝶の羽のようなイメージで、細いあごにたどり着く指。薄桃色のきみのくちびるが弓月の弧を描いて、僕の言葉に答えようと震える。僕をきみが見つめている。空調の音がやけに大きい。きみのくちびるがかすかに空気を吸い込むのを見た。

「どうして? ぼくの身体はこれじゃない」

 そうだ。それは加納沙詠。

「そうだよね。でも……」

 きみはきみでもある。

「でも、何さ」

「きみはきみだよね」

「そう」

 きみはきみ。

「けど、この身体は加納沙詠なんだ。ぼくのじゃない」

 それでも、きみはきみだ。

「でも、ここにいる」

 そうだ。

 きみだ。

「……そうだね。ただのぼくだね。ここにいるのは。でも、この身体は加納沙詠のもの以外のなにものでもないんだ。これはぼくの体じゃない。ぼくはぼく。加納沙詠じゃない。加納沙詠じゃ、ないんだ」

「でも……‼︎」

 きみはきみ以外のなにものでもない!

「失礼します」

僕の言葉をさえぎるように、さきほどのホール係が、僕のミートスパゲッティと緑色のソーダ水を運んできた。僕の前にスパゲッティ。そしてきみの前にソーダ水を置いた。僕もきみも互いに目を合わせないようにそっぽを向いていた。

 僕の頬が、少し熱い。

「ごゆっくりどうぞ」

 ホール係は、にやにやを隠しもせずに早足でキッチンの中に消えていった。

 きみと目を合わせられない僕は、とりあえず黙々とスパゲッティを口に運び続けた。

 今ここにいる客は僕らだけだ。


「……ぼくは、加納沙詠じゃぁないんだ」

 きみはのみもしないソーダ水をもてあそんでいた。

「そして、このままではいられない」

 僕は最後の一口を強引に飲みこんだ。

「どうしても?」

「どうしても」

 きみはソーダ水の中にストローを挿し入れて、そっと僕に渡した。僕はきみが持ったままのグラスから、ソーダ水を飲んだ。きみの眼が僕の目を見つめている。

「ぼくはここに存在していない。ここに僕がいることが、非現実なんだ。わかるよね? ぼくはあんたの日常じゃない。ここはぼくの居場所じゃあない。今、ぼくも、ものすごい違和感の中にあるんだ」

 きみはきみ。けれど本当のきみは、きみではない。

 知っていた。

「実際のところ、そろそろ電池切れかな。あとどれくらいこうしていられるのか、全くわからないんだ」

 きみの眼があまりにも真っ直ぐなので、僕は動くことができなかった。

 キッチンの洗い物の音だけが響いているのが僕の耳に届いた。

 僕はふと、今が夏であるのを思い出した。


「お母さーん! カレーライスがいい!」

 券売機の方から元気な声が響く。楽しそうな親子連れ。

「ねぇねぇ、アイスクリームもいいでしょ? アイスクリーム!」

「もう、今日だけよ。特別」


 これは日常だ。

 これが確かな日常。

 僕が信じてきた日常。


 きみは表情ひとつ変えない。


「……行こうか」

「え?」

 きみの視線が僕に戻った。

「場所、移そう」

「そうだね」

 僕ときみは席を立った。


    §


 科学館を出たから、僕もきみも思いつくことがなくて、ただただ街をぶらぶらしていた。

「映画はいいや」

 きみは言って、またあの黒人霊歌を歌い出した。

 蝉の声がやけに大きい。空には雲などひとつもなく、直接の太陽が照りつける。木陰を選んで歩いても、何の意味もないように思える。

 遠くから響いてくる子供の笑い声。クラクションの音。自転車のブレーキ。全てを飲み込んだ夏は、静寂だけを押しつける。蝉の鳴き声だけが耳に痛い。

 僕ときみは、夏から逃げるように地下街へ潜った。


 そこは夏のない別世界のようだった。冷房の冷たい空気で満たされたそこは、仮想空間のようでもあった。群衆にも存在感が感じられない。その中で、僕の目にはきみだけが現実のように浮き出て見えた。

 ここには夏は、季節はない。きっと時間もないだろう。僕もきみも、何も喋らず歩いていた。人工物で固められた、原色の仮想の中を。

「ペリドット」

 きみがこぢんまりとした宝飾店の前で足を止めた。

「ぼく、ペリドットは好きだな。ダイヤモンドやエメラルドとかって、あんまり好きじゃないけど」

「ペリドット?」

 生まれてから一度も聞いたことのない単語だった。きみの肩越しのショーウインドウを覗き込んだ僕には、どれがそれなのか見当もつかなかった。僕の母親も、普段身につけるアクセアサリといったら結婚指輪くらいだ。

「どれ?」

「あれ。黄緑色の石」

 きみは僕を振り返らずに指をさした。その先に、若草色というには繊細すぎる色をした、小さな石のついた指輪があった。

「ペリドットってさ、早朝の川縁の葦の色に似てるよね」

 早朝の川縁の葦……

 僕には全くイメージできなかった。葦なんて真剣に見たことがなかったから。

「川縁の葦の色……」

 僕は口の中で繰り返してみた。

 川縁の葦……小学生のころ、ザリガニや小ブナを釣った川に生えていた、荒れが葦だっただろうか。特に気にとめたこともなかった植物の色。

 僕はきみを見た。くちびるだけを小さく動かしながら、笑いも何もない表情で指輪を見ていた。

「……葦の中ではいつも一人でいられた。泣いたって叱られなかった。誰も来なかった。だぁれも来なかった。葦の中には」

 それはきみの言葉だったんだろうか。

 僕は唾を飲みこんだ。

 そのとき、突然きみがふり返ったので、僕はきみとしっかり目が合ってしまった。きみの顔には、もういつものあの笑い顔が戻っていた。僕はもものあたりで握りしめていた手に視線をうつした。にじみ出た汗が滴り落ちていやしないかと思ったのだ。

「行こうか」

 きみは言った。

 あまりに唐突すぎて、僕は何を言われたのかわからなかった。

「え」

 僕は間抜けな顔をしていたに違いない。きみは僕の顔を見て、押し殺した笑い声をもらした。完全に僕に向いているきみの、左手の指だけが、ガラスの向こうの指輪を見つめ続けている気がしていた。

「ね、どうしたのさぁ。行こうよ」

 ショーウインドウの向こうでは、一組のカップルが楽しそうに指輪を選んでいた。

「あ、そうだね。行こう」

 ふふんと鼻を鳴らすと、きみは早足に歩き出した。一度も僕の方を振り返らないで歩く。押し寄せてくるような人波を軽く潜り抜けながら軽々と歩くきみを、僕は追いかけるので精一杯だった。きみは全く僕を見てくれない。

 僕もきみも無言で歩き続けた。無意識のように足を動かし続けて、いったいどれだけの間、歩き続けているのだろうか。白色の人工光に長く浸っていると、時間感覚だけが麻痺していく。

 きみは何も見ない。

 ショップも、本屋も、呉服屋も。僕はきみの見ないものを見る。ショップのワンピースを、本屋の新刊を、呉服屋の絣を。きみの足音を追いながら。


 ふと目をやった雑貨屋にそれはあった。

 萌黄色の指輪。

 シンプルな、アクリルの細い指輪。

 歩き続けるきみを横目に、僕は大急ぎで雑貨屋に飛び込んでそれを買った。税込七百八十円。頼りない重さが胸の中に痛みをもってしなだれかかってくる。

 指輪を買うのに二分とかからなかったはず。けれど、きみの姿はどこにも見当たらなかった。

「すみません」

 人混みをかき分けながら僕は走った。きみ以外のことなんて、いちいち気にしていられなかった。誰かと肩がぶつかる。嫌な顔をされる。でも、きみがいない。それだけが……

「あ」

 きみw呼べない。

 僕は走る。

 きみは人並みの真ん中で、真っ直ぐにたっていた。その眼が僕をとらえてほころんだ。

 そうだ。きみは加納沙詠ではない。僕は加納沙詠を知らない。

「どうしたのさ」

 心臓がごうごうと鳴り響くのは、たぶん走ってきたせいだ。僕の頬のあたりが熱くこわばるのも。


 僕はさっきの小さな紙袋を開けた。

「これ」

 僕はきみに萌黄色の指輪を差し出した。

「葦の色……だよね。ペリドットじゃないけど、安物だだけど」

 きみは一瞬困った顔をして、それでも水をすくうように両手をそろえて、それを僕に向かって差し向けてくれた。

 僕はきみの右手をそっととると、その薬指にしっかりと指輪をはめこんだ。

 きみは指輪を見て、

 僕の顔を見て

「……無防備に笑うんだね」

 泣きそうな顔をして言った。

 僕は自分がどんな顔をしているのかわからなかった。ただ、この指輪をどうしてもきみに届けたかった、その一心だった。

「あんたさ、何やってんの? ぼくのこと気持ち悪くないの? 得体が知れないだろう? 突然現れてさ、ヒトの生き死にを決めろだなんて……」

 きみは息を飲みこんだ。必死にあの笑い顔を作ろうとしていた。

 僕は笑っている?

「だめだよ。得体が知れないものに向かって、何のてらいもなく、そんなふうに笑いかけちゃあ。いけない。いけないよ」

 きみはくちびるを噛んでうつむいた。

「……でもそれが、加納沙詠の見た笑顔、なんだね……」

 笑うという意識もなく現れる僕のこの表情が。笑顔と呼べるものなのか僕には確認のしようがなかった。きみも、加納沙詠も、これを笑顔というのなら。きみが言うのなら……

「あの、さ」

 言いかけた僕をきみは遮った。

「ちょっと待ってて」

 どうしてもきみがここに残ることはできないの?

 きみは断ち切った僕の言葉を放り投げるように駆け出した。きみは小さなショップに入っていった。

 きみは人波の向こうに消えた。


 加納沙詠の生き死に。きみは言った。それを僕に決めろと、きみが言った。加納沙詠じゃない。きみが。

 僕は加納沙詠を知らない。

 昨日の夜が、今日の夢が、もう遠くのことみたいだ。僕は夢の中で見た加納沙詠を思い出してみた。


 深夜の火事。


 あれが加納沙詠だ。きみじゃない。きみじゃない。きみは、たとえるならば「沈黙の月」だろうか。それにしてはよく喋るけれど。


 ショップからきみが出てきた。

 生成りのシンプルなワンピース。きみは真っ直ぐな眼で僕を見た。あの笑みはなかった。すっきりと真剣な顔をしていた。手には手提げの紙袋。

「あんたの服のままでいたら、何かあったときにきっと困る」

 ほどいたかみに、フィッシュボーンの名残が揺れていた。僕はそれだけを見つめた。

 きみの右手が、僕の左手の甲に触れた。いちど、きみはためらうように手を離した。それから頬の上に貼り付けた緊張を少しだけ緩めると、思い切ったように僕の手をきつく握りしめて歩き出した。

 熱い手。

 指輪がはめられた箇所だけが、僕にはやけに冷たかった。手と手の間にこもる、高く鳴り響くような鼓動の振動は、僕のものだったのだろうか。それともきみのだったのか。

 僕はきみにひきづられるままに歩き続けた。きみの後頭部を見つめたまま。きみは僕を振り向かず歩いた。ただの一度も僕を見なかった。

 きみの左手では、紙袋が大きな音を立てて揺れていた。服も、帽子も、僕の家できみが身につけたもの全てが放りこまれた紙袋が。

「どこに行くの?」

 きみは答えない。早足で歩き続けるだけだった。頭の上の案内板は、バスターミナルを指していた。

「あんたに答えを貰わなくっちゃ」

 きみは小さくつぶやいた。


 目の前には、バスターミナルへと続くエスカレーターが迫っていた。エスカレーターは静かにのぼりはじめた。

 きみがエスカレーターに足をかけた。僕もそれに続いた。二人がゆっくりとした速度でのぼっていく。バスのエンジン音が低く響いてきた。

 ターミナルに着くと、きみは迷うことなく、目的地を目指して歩いた。僕の手を離すことなく。

 四番乗り場。

 バスがいた。

 きみはバスの行き先を確認することもせずに乗りこんだ。

 バスの中には僕ときみと運転手。

 二人がけの席に座った。僕ときみの手は繋がれたままだ。きみは窓の外を睨みつけていた。きみは僕を見ることはなかった。

 バスの扉が閉められた。

 他に乗客はいなかった。

 ダミ声の運転手が、行き先を告げた。


 ねえ、このバスは河川敷公園まで行くんだね。


 と、きみに話しかけたかった。


    §


 河川敷には誰もいなかった。

 昨日きみが僕の前に現れたのと同じ、夏の宵。蒼い夕霞。まだ小さく、蝉の声が蝉の鳴き声が聞こえてきた。僕もきみも、バス停からこの川沿いを無言で歩いてきた。堤防道路を下り、テニスコートを通り越し、公園の端まで。

 目の前で揺れる、あれが葦だろうか。

「ねぇ」

 唐突にきみが話しかけてきた。

「あれ、何ていうのか知ってる?」

 きみの指は、葦を指していた。

 僕はきみを見た。

 風がきみの髪をまきあげて、その表情を僕には見せてくれなかった。

「ヨシ……だよね?」

「アシでもあるよ」

 きみのくちびるが素早く動いた。

 あし、と、よし。葦、と、葦。

「アシは悪しへと繋がるからヨシなんだってさ。葦はアシなのに」

 きみは風にかき乱された髪を右手で押さえつけた。いつの間にか指輪が消えていた。きみはため息をつくと、右手で左手をて、その爪をそっとなでた。指輪は、左手の薬指にあった。

 僕の心臓が大きくうごめいた。


 きみを、見た。


 違う。

 冷たい不安が背骨を走った。

 視線は太陽が沈んだあたりに投げつけられていた。その顔は、確かにきみのようだった。けれど、違うのだ。明らかに。きみにようなものの奥から、何が別のものがのぞいている。

 僕の胸の中に、何かが燃えるような音が、密やかに響き出していた。

「生き死にの決着をつけないと」


 冷たい声だった。液体窒素の中で、一瞬にして凍りついた薔薇のように。

「……忘れないうちに、これを預けておくよ。出すも出さぬも任せるよ」

 そう言ってきみのようなものは、紙袋の中から、一通の手紙を取り出した。

「読んで」

 それは加納沙詠から、母親に向けられたものだった。


    §


 加納沙織様


 これが最後のわがままです。もう私があなたを煩わせることはないでしょう。残念なのはただひとつ。この手紙が、あなたへの初めての手紙になることです。少し寂しい気もします。


 わたし、あなたにだけは、声を上げるのを許してほしかった。わたし、叫びたかった。大声はだせなくてもよかった。ただ、誰かに受け止めてほしかった。あなただけ、手を、握ってくれていればよかったのに。


 言いたいことはたくさんあります。言うべきことも。

 けれど、わたしもあなたも苦しんでいる。それは知っているから。だからこそ、この手紙は書けるときに書いておきたかったの。きっと時間は残されていない。そんな気がしたから。


 いっそのこと、二人で逃げられるくらいの強さがあればよかった。


 あなたのこと、


 お母さん


              だいすきよ


        沙詠


    §


「答えを出して」

 強い口調で死体は言った。

 僕は加納沙詠の手紙を握りしめたまま、死体の喉元を見つめていることしかできなかった。

「どっち?」

 あの笑い顔さえもない。

 真剣な顔で僕を見据える死体。

 加納沙詠ではない。彼女の目ではない。ここに在るのはきみのはずなのに。違う気配が揺れている。僕はそれに怯んでいる。


 風が吹く。波が立つ。荒れ狂う。時化。

 たとえば心が海ならば。

 僕は

 どうしたらいい?

 きみの後ろで揺れるのは、それはヨシ? それともアシ。

 沈んでしまったた異様の残骸。夕焼けでもない蒼の宵から夜が溶け出してくる。小さなコウモリが、僕と死体の間を抜けて飛び去っていく。

 僕はどうしたらいい?

 遠くから豆腐屋のラッパの音。

 ぼくはどうしたらいい?

 僕は

「どうしたいのさ‼︎」

 泣きそうな顔をしたきみが、僕をにらみつけている? きみが? きみは死体。加納沙詠の。そうだ。加納沙詠。

「今ならまだ、加納沙詠を生き返らせることができるよ。今ならまだ……」

 きみは真っ直ぐに僕を見上げた。

「加納沙詠を‼︎」

 真っ直ぐに。

 きみはまだ加納沙詠でもなかった。

 けれど僕の目の前の身体は、間違いいなく加納沙詠。

 いるのはきみ。

 きみならば僕は……

 残ることができるのは加納沙詠。きみでなく。


 もう、どうだっていい。

 加納沙詠なんて。

 加納沙詠はきみじゃない。僕には加納沙詠の傷なんて癒すことはできない。深すぎる。僕は加納沙詠を知らない。


「僕の答えはひとつだよ。でも、それは、答えにはならないのだろうね」


 くちびるが震えている。

 きみの眼の中で静かに揺れる水。とりこぼした僕の答えを待つように。

 きみは加納沙詠の『死体』でしかないんだね。

 葦の波が、僕と死体の間をすり抜けていった。

「ねぇ、何で今笑うのさ。こんなときにさ。言ったろ、ぼくになんか笑いかけちゃいけないって。こんな得体の知れないものに。そんなふうに、そんな無防備に笑いかけちゃダメだよ……」

死体の眼から、静かな水がとめどなく流れ落ちていた。

 できることなら僕ごと、この世界を押し流してくださいその水で。

「ぼくに笑いかけないでよ。ねぇ。ぼくに……加納沙詠じゃなくて、なんでぼくに……

 あんたが加納沙詠を知らないのは知ってた! でも、加納沙詠の記憶の中には、あんたの笑顔しか残ってなかった。綺麗な思い出なんてどこにも見つからなかった‼︎

……何でもない、本当に何でもない笑顔なのに。ありきたりな笑顔なにさぁ。ぼくにどうしろって……」

 きみの両手が震えている。

「死体、僕は」

 きみの表情が、蒼い夏の宵に溶けていった。

 ような、気がした。

「僕の答は」

「結局、この姿に加納沙詠を見ることはなかったこと、気づいてた」

きみの後ろで葦が揺れた。

「僕の、答は」

「それでも同じく死体だった。答は二択。加納沙詠の死か、生か。逃げ場のない二択。どうにもならない」

 目の前に、加納沙詠の死体。

 死体の顔は、笑いの顔に歪んでいた。後ろからせまっていたもの。それは、夜だった。

 死体が闇に包まれていく。潮が引くように。昏く澄んでいった。

 僕の頬はこわばった。

「藤谷くん」

 僕は、乾き切った喉のために、必死にツバを飲みこんだ。

 死体の表情には何もなかった。

「死体、今の状態が不自然なんだろ? だったら自然に戻れよ。本当の死体にでもさ。

 人間ひとりの生とか死とか、人生とか未来とか、神様じゃないんだ。

 僕にそんだ選択権を委ねないでくれよ。……僕は加納沙詠を知らない。知っていたら生きろと言ったかもしれない。でも、今の僕には言えない。言えないんだ。生きろ、とも‼︎」

 僕の頬を、冷たいものが流れていった。

 治ることを知らないような風の音が僕の耳を荒らしていった。

 だからただの空耳だったのかもしれない。

「藤谷くん」

 僕は顔を上げて死体を見た。

 彼女は左手の指輪にそっと口をつけていた。それからゆったりと目を開きながら、指輪を指から抜き取った。それをいとおしそうに両手で包みながら、僕に差し出した。彼女の顔を、遥か西に残る、最後の光が照らした。

 穏やかな笑顔。

 僕は呆然と見ていた。

「これはわたしのじゃない。かえしてあげてね。ちゃんと」

 僕が両手を広げると、彼女はそれに触れないように慎重に、僕のてのひらの上で彼女の両手を開いた。小さな指輪た僕に降ってきた。

「さようなら」

 そう言うと、彼女は颯爽と踵をかえして葦の中へ歩いていった。几帳面に伸ばされた背中が、僕を拒絶していた。彼女の姿が完全に葦の中に消えた瞬間、大きな水音がした。まるで何かが倒れたような。

 僕の胸で心臓は、抉るようにうごめいていた。


 僕の手に残るは指輪。

 そして、手紙と紙袋。

 視界の中には、死体はいない。

 葦の向こうにあるのは何だ?


 夜は空を完全に支配してしまっていた。青白い街路灯の灯りが、ぼんやりと葦を照らしていた。風に騒ぐ葦の音は、あの、押し殺したような笑い声にも似ていた。

 僕は逃げた。

 走って逃げた。

 街の全ての音が、耳の手前で意味を持つことを放棄していた。


    §


 僕の頭の中で、消防車のサイレンの音が鳴り響いていた。


 深夜の火事。


 確かに火事は存在するのに、炎は見えない。熱もない。何かが焦げる匂いだけが、微かに鼻を 刺激する。

 消防車は火事を探して闇の中をひた走る。

 深夜の火事。

 炎は全てを飲みこみ、無へ還す。


 無へ、

 還す。


    §


 あれは何だったのだろう?


 翌朝早く、僕は加納沙詠の母 親への手紙を投函した。机の上の国語辞典に宛名が書かれ、切手の貼られた封筒が挟まっていたから。


 僕は空を見上げた。

大きく羽ばたいて、鳩が、空へと消えていく。


 あれは何だったのだろう。


 手紙を投函してから一週間もしないうちに、加納沙詠の死体は発見された。河川敷のあの葦の中で。ボケットに押し込まれていた遺書と、母親に届いていたそれとで、彼女は自殺と断定された。


 あれは何だったのだろう。


 遅れてきた厳しい夏は、超加速度的に暑さを増して、僕の思考を奪い去る。

 ただひとつ。夏から取り残されて冷たい、手のひらの中の指輪。時を経るごとに重く染み入る。僕の胸に。


 指輪の中で葦が揺れていた。

 と、思ったのは頬を伝う熱のせいだろうか。確かに存在した過去。その中で揺れる影は誰だったのだろうか。もう二度とは見ることがない白い指を、僕の喉は覚えている。甘い匂いも。つめたいかんかくも、

 つめたいかんかくも。


 もう何も思いつかない。


 夏の暑い宵に、全ての音を飲みこんで横たわる。

 胸に。


   おわり

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動く死体 尾津杏奈 @ozuanna

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