N42D3b ready-6/6: 欲求 2

 涙が流れた。


 自我が足りないと言われれば、足りていると示せば反論になる。特例的に足りないように見える部分を提示して本当の理由を示せば反論になる。あとは一応、その差異では影響を見込めないと示すのも反論になる。


 どの反論も出せなかった。頼まれれば応えるとか、誰かが困っていたら手を貸すなどをしていた。その過程にある工夫や知見を楽しんでいた。それだけしかない。能動的に求めた結果では決してない。口を開けて待っていただけだ。


 それが好きなのが自分だと言うのは簡単だが、言い換えるなら目先の面倒から逃げたいだけの輩になる。反論どころか肯定も同然だ。問題を先送りにするほど解決が大変になっていく。夏休みの宿題と同じだ。


 目を背けたくなる言葉にこそ向き合わなければならない。今まで通りの日々を失わせる強さがある。人は変化を恐れる。悪い方へはもちろん、良い方への変化も恐れる。これまでがいかに悪かったかを突きつけられるからだ。


 プライドではなく見栄だ。見栄で飯は食えない。自分の行為により傷つくのがプライドで、他人の行為により傷つくのが見栄だ。何度もそう聞いていたし、乗り越える様子だって見てきた。蓮堂もハマカンも、苦笑いと「効いたぜこりゃ」のひと言ですぐ次の作業へ移っていた。簡単だと思っていた。あやの初めてが今だ。


 喉の奥で苦い汁が染み出す。飲み込めば胃と胸が痛む。これまで築いたものが崩れたあの感覚だ。文化祭の出し物を取り違えで捨てられてしまったとき、あるいは冒険の書が消えてしまったとき。自分の行いが記憶の中だけの存在に成り果てたとき。寺院を取り壊した跡地に建てたテーマパークが新たな名所と成り果てる様を眺めるしかできないとき。遺伝子は消滅を恐れる。自分の消滅はもちろん、自分に近しい存在の消滅も恐れる。


 それらを踏まえた上で、人間には理性がある。本能を抑えて規範に従う判断がある。内面化とも別の、逆境や恐怖心に立ち向かう力だ。


 嘆くのは簡単だ。どんな言葉へも「うるさい!」のひと言だけで拒絶できる。理性を使えばもっと上手な嘆き方にもできる。


 楽に済ませたい誘惑が歳の数だけ浮かび上がる。しかし、目先の楽さよりずっと長い人生が残っている。


 あやは全てをまとめて吹き消した。


「ありがと。効いたよ」


 親ほどすぐには動けない。状況でも、心境でも。まずは受け取った。明日になればきっともう少し受け入れられるし、来週にはきっと朧げながら見えてくる。楽観は武器になる。


「よかったっす」

「リティスはすごいな。二年後のあたしがそこまで言えるか、ちょっとわかんないや」

「どうでしょうね。存外すぐかもしれませんよ」


 笑い声が懐かしく感じた。時計によると五分そこそこの過去でも感覚は大昔になれるし、逆にカレンダーが何年も前だと示しても感覚はついこの前でいられる。あやはすでに新しい自分になっていた。自覚がなくても。


「あたしみたいな手足さ、椎奈は使いこなせてなかった」

「でしょうね」

「だからあたしも、リティスみたいなしっかりした考えはすぐ使いこなせないと思う。必要なかったもん、今まで」


 リティスは曖昧に笑った。言いたくなさそうだから勝手に話を続けた。


「羨ましくないよ。だけどあたしも、やがては身につけてみせる」

「勇ましいっすね。待ってます」


 話題の区切りがきた。そろそろ次の行動を始めたくなる。防風林が音まで防ぐためか、静かなひと時がただ過ぎてゆく。けれど本当は、外ではドンパチやっているか、やり終えてあやの帰りを待っているはずだ。


 周囲を窺った。敵との鉢合わせは避けたいから、動くものを探しながらゆっくり出る準備をしている。あやが警戒して下がれば正体は飛ぶ虫で、笑うリティスが驚いて伏せた正体は枯れ枝が落ちてきただけだった。


「彩さん、向こう見てください。蓮堂さんですかね」


 遠くに見えた人影を、義眼でよく見た。確かに蓮堂だが、どうも様子がおかしい。分かれる前には手袋をつけていなかったし、急に用意したように他の服と噛み合わない。家にあったものとは別の、どこにでもある軍手で茂みをかき分けている。


「ほんとだ。手ぇ振っちゃお」


 あやが自らの位置を見せたら、蓮堂はまっすぐに歩いてきた。

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