N07A3a 家庭の事情 1
蓮堂の家で寝泊まりする。これが何を意味するか、あやは理解している。長くなるがややこしい事情を説明する。
まず戸籍上は、蓮堂とハマカンは夫婦となっている。あやの実母の理奈が死亡してすぐに、雇用主だった蓮堂に連絡が届いた。あやの身元を引受けるための交渉から手続きまで蓮堂が済ませた。その一環としてハマカンを呼びつけた。あやは左目と左腕と両脚を失っていたので、身近に手段を置くには最適だった。
しかし、お互いに不動産がある。蓮堂は事務所兼自宅が、ハマカンは自宅兼工房が。どちらも譲るには金も手間もかかり、契約の問題もある。互いに条件は同じなので、互いにこれまで通りの生活をして、間にあやを入れた。
あやはハマカンの元で育った。彼も手近な実験体を得て開発が捗った。あやが客の前に出るだけでデモンストレーションになった。そこに蓮堂もたびたび訪れて、あやの面倒を見るついでに、探偵が必要な客への広告塔にした。
便利なのはハマカンの家だ。学校までの場所も、義肢の整備も、客層も、親の仕事との兼ね合いも。
唯一の問題が人の出入りにある。
ハマカンの工房も同様に、誰でもふらっと立ち寄れる。たとえ悪意があっても。
普段ならば問題にならないが、今は話が変わる。
蓮堂が税理士として勤めはじめたきっかけだ。
探偵の仕事は主に大家が持ち込んでいた。手間はかかるが収入には困らない。通勤電車もなく、厄介な輩に絡まれる手間もなく、馬鹿なリーダーも足手纏いの部下もいない。蓮堂の技量を最大限に引き出せる。これまで二十五年間、蓮堂の半生がここにある。
それを手放して、馬鹿なリーダーの道具になる道へ移った理由が、あやを見た女だ。
きな臭い動向がある。手段は不明ながら、秘密を持ち去り、それを種に
大家の父親を殺したのもきな臭い連中の末端とわかった。だから蓮堂を駆り出して調べている。その一環で税理士として金の流れを見つめた。今は長期計画の五年目だ。
「なんとなくわかったよ。危ない連中に関わっちゃったわけね」
「偶然にもな。どこまで偶然かはじきに見えてくる」
蓮堂は両手を持て余している。自らの二の腕を握り、たまにキーボードに触れては元に戻る。間違い探しのように画面を睨みつける。
明らかに打つ手がない。左手がないあやにもわかる。普段ならすぐに飛び出すサイボーグ・ジョークも今だけは腹を空かせて夕寝している。
支配に抗うのは若者の責任だ。支配者が沈黙であればなおさら。思いつく限りの話題を提示して、少しでも前に進むかもしれない可能性を得る。決して強くは見込めないが、このまま黙って停滞を決定づけるよりは。
「蓮堂は何する? お互いに巻き込みあうでしょ」
蓮堂の目線が移る。画面からあやへ。以前よりずっと頼もしくなった顔を見せたつもりの顔を見せた。
「心配のつもりか? 私はこの程度の問題にはいくらでも巻き込まれて、そして片付けてきた。とある生娘と違ってな。彩はまず自分の身を案じろ」
「む。あたしだっていくつか片付けてるもん」
「説明書の通りにな。こっちは説明書を作るところからだ。まるきり話が変わるぞ」
言葉は厳しいが口元は緩い。あやが虫を鳴かせたらさらに弛んだ。蓮堂は立ち上がり、パソコンとタブレットを片付けて、台所へ向かう。とある助手のおかげで鍋や冷蔵庫が大きくなり、食器類は四人分もある。一度増えたものは簡単には減らない。
「やった。お袋の味」
「よせ。私はそんな器じゃない」
「蓮堂ママ」
「なんでそこで苗字なんだ。せめて節子ママにしろ」
「だって響きがひいおばあちゃんみたいだし、蓮堂のほうがかっこいいし」
台所で喋るとき、蓮堂は必ず口を食材や台とは別の方向へ向ける。振り返るか、調理台より下にするか。細かい動きを繰り返せば大変だが、蓮堂はいちいち答えてくれる。言葉に頼れば見落とすような機微があやを安らがせる。
「しまったな。卵を切らした」
「あたしが買ってくるよ」
「頼もう。ブザーは持ってけよ」
食費用のカードを勝手に取り出し、防犯ブザーを持ち、階段をかけ降りた。
「扉は最後まで閉めろ!」
ぎりぎり聞こえた声に振り返る。最後まで閉めた音が聞こえる。蓮堂流の送り出し方だ。近所のエスニック料理店を嗅ぎながらスーパーマーケットへ向かった。
豊島園駅の付近は、無数の店が少数の業態で構えている。スーパーマーケットと、クリーニング店と、コインランドリー。この三種類はどこまで歩いても次が目の前に現れる。事務所から近いのは左側へ二分ほどだ。
夕陽は沈むまで右耳を照らす。眩しくはならない。
並ぶ卵を見比べて、一個あたりの値段が最も安いひとつを買った。ついでなので蓮堂が大好きなポケモンの食玩も。ガムではなくラムネと確認したのできっと笑って許してくれる。
店を出たら暗くなっていた。夕方と夜の境目は数分しかない。
そこに近づく足音、速い。あやは振り返った。私服の彼女の顔が見える。隣のクラスの
「やっぱりあやじゃん。どしたの、こんなとこで」
「そっちこそ。この辺だっけ?」
「映画だよ。時間までぶらぶらしてたら、偶然にもあやを見かけたってわけ」
どこまで偶然かはじきに見えてくる。聞いたばかりの言葉が頭に浮かんだ。
「何みるのよ」
「わたしも分かんない。姉貴の連れ者だから」
「映画って、そういう見かたもあるんだ。感想会たのむね」
アイスも買っておけばよかった。こういう時に話を切り上げられる。仕方がないので道の脇に寄り、立ち話で時間を潰す。蓮堂のところへ向かう様子を見せたくない。
「どうなるかなあ。映画って実は初めてで」
「ふーん。いつもの勉強熱心さがあればどんな映画でも楽しめると思うけどね」
普段より話が長い。胃に穴が開きそうだ。椎奈とは仲がよいと昨日までなら言えたが、今日からは影が落ちた。
「どしたのあや、なんか顔色わるいよ」
「そうかな。お腹すいてるからかも」
切り上げられない。警戒心を取り繕うだけでいっぱいいっぱいだ。きっとすでに勘づかれている。椎奈は目ざとい。髪型とか些細なごみ捨てをするたびに真っ先に気づく子だ。
走って逃げるか。その考えが頭に浮かんだとき、助け船が来た。
「彩、遅いから迎えに来たぞ。そっちの子は、お友達かな」
椎奈は頭を下げてお上品に答える。初対面と同じ動きでも、今は白々しく感じた。
「どうも初めまして、根雨椎奈と申します。彩のお母さんですよね」
「ご丁寧に。義理の母の蓮堂節子、すぐそこの蓮堂探偵事務所跡地にいますのでどうぞよろしく」
返事も待たずにあやへ向き直った。
「すぐ帰るぞ。肉が崩れてひどい味になる」
「はあい。椎奈、またね」
蓮堂に合わせて小走りで進む。人を追い越し、階段をのぼり、扉に鍵を閉める。ようやくひと息をつけた。
「蓮堂、よかったの? 明かしちゃって」
「話に出てきた怪しい奴だろ。どうせ勘づいてる。隠してもしょうがない」
不安とは根拠がないときの感情だ。根拠を出して拭い去る。手詰まりとは打つ手がないときの感覚だ。打つ手を出して拭い去る。
何をするにも食事から始まる。崩れかけの肉はまだ美味しかった。
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