N04A2a 顔合わせ 1

 ロービームを頼りに玄関へ向かう。あやが手を振るまで見届けたら車が去る。工房まで明かりが弱いあたり、きっとハマカンはすでに寝ている。酒の匂いがあった。


 相談したいのはやまやまだが、起こすより休んでほしい。誰へ電話するにも既に夜中だ。メールには残したくない。


 気軽に話せる友人たちにはあらゆる面でとても言えない。密かに尾行したつもりが挑発的に手を振られたなど。


 その夜は寝付けなかったのに早起きになった。いつもより涼しい風を受けて、あやの金曜日が始まった。


 通学路で目が泳ぐ。朝は人が多い。巻き込めば大騒ぎになるので仕掛けては来ないだろうが、密かに尾けるには隠れやすい。木を隠すなら森の中だ。


 会社員風の、井戸端会議の、私服通勤らしき、別の高校の、同じ高校の。すれ違うあらゆる人に疑念を向けるには目も神経も足りやしない。


 まずは周囲を見渡して、義眼で録画しておく。あとで動画を見返して目線を探していく。時間はかかるが見落としは危険だ。あやは体で覚えている。


 背後から駆け寄る足音に、勢いよく振り返った。


「わ、どしたの今日は」


 友人の根雨椎奈ねう・しいな、昼休みに隣のクラスから来る、予習に熱心な子だ。月曜は世界史、木曜は数学、金曜は英語。あやは要約の練習にしている。


「ごめん、ちょっとびびってて」

「ストーカーとか? 手ならわたしも貸すよ」

「ありがと、心強い」


 一緒にいるだけで手を出しにくいから。二人を同時に黙らせるには二人が必要になる。片方にかまける間にもう片方が人を呼ぶ。


「わたしも考えたことがあって、この辺はずっと人目があるから大丈夫そうだけど」

「そうだよね。あたしも通学路は大丈夫と思ってる」

「他に行く日はみんなで歩こうか」


 相談はできなくても、手は打てる。巻き込みたくはないが、相手も巻き込まれたくない。恋と同じで駆け引きだ。


 相手に優しくするには意地悪を知ること。相手に意地悪をするには優しさを知ること。まだ受け売りの言葉をこれから自分のものにする。


 周囲を見渡す。今度は友達を探す名目で。いつもの顔ぶれが他には見当たらず、こうなると椎奈との話もあまり弾まない。クラスが違う都合で一対一で腹を割ったことがなく、しかも今は頭が回らない。寝不足と警戒でいっぱいいっぱいだ。


 普段ならつまずかないような段差で転びそうになり、椎奈が手を取ってくれた。


「保健室にする?」

「教室でちょっと寝たらよくなるよ」

「ならいいけど。無茶は禁物だよ」


 気を遣ってくれる子だ。知らなかった一面を知るのは嬉しい。


 まずは無事に学校に着いた。普段より静かな教室で、少しだけ目を閉じた。


 あやの席は窓から二番目の列にある。男子の列と女子の列が交互に並び、女子の中では最も窓に近い。名簿のあいうえお順で若い側が窓側になる。はじめは新鮮さを喜んだが、今日ばかりは恨めしい。


 申し訳程度のカーテンは、いくらか光を遮っているらしいが、まだ夜の照明よりずっと明るい。眠るには向かない。


 うつら、うつら。それでも次にあやが気づいた時には普段と同じ喧騒があった。


「起きたね。おはよう」


 なうちゃんこと前の席の今村さんだ。彼女と並んでいるからグループの集合場所がここになる。


「おはよ。いま何分?」


 答えの前にチャイムが鳴った。あらゆる話題が縮んで消えて、それぞれの席に着く。ややあって担任が入る。出欠と体調を確認して、最初の授業を待つ。


 あやが「ちょっと寝不足」と答えたので、授業までのわずかな時間にも集まった。トラブルか悩み事か、あわよくば恋煩いを求める皆に、まさか正直に言えるはずもなく。


「今日は少しでも寝させてよ」


 あやは力なく答えて顔を伏せた。こんなときに機械の左腕が役立つ。どんな扱いでも血流の問題が起こらず、寝やすい姿勢を追求できる。


 周囲から静かな声が聞こえる。


「初めて羨ましいと思った」

「まじ? かっこいいのに」

「そうだけど、うちらには生身の手と同じだったから」

「わかる。困りを減らすだけで得はないと思ってた」

「かっこいいのは得でしょ。一応とはいえさ」

「それもわかる。なりたくはないけど」


 気になるが、話題になるのは満更でもない。目を閉じて休めるだけでも少しばかりは回復できる。何事も積み重ねだ。


 少しだけ寝た。今村さんがつついて起こした。授業を始めるところだった。


「すみません、いつもよく寝てたから寝不足との付き合いがわかんなくて」

「なるほどなあ。確かに俺もわからなかった。そのうち覚えておけよ。授業をどれだけ聞けてるかもだ」


 チョークの音を聞きながら教科書を開く。


「そうだあとお前、コーヒーとか絶対頼るなよ。体重が少ないからすぐオーバードーズになるぞ」


 教室が「言われてみれば」の空気で満ちた。腕一本と脚二本で二十五キログラム弱になる。太ももや二の腕がいくらか残っているが、体重は三十にも満たない。薬は子供向けの量で、食べ物も少ない。少食ではない。すぐに食べすぎになってしまう。


 あや自身はもちろん把握している。先生の言葉は他の皆に向けてのものだ。義肢のおかげで社会的には普通でも、生物的には異常そのものだ。時代が違えば外見でわかる異常だった。技術には克服できる部分とできない部分がある。


 うつら、うつら。授業の途中だが頬杖の姿勢で目を閉じたら、急に授業が終わってしまった。前の今村さんによると、先生がよほどの寝不足みたいだからそのままにしようと言ったそうだ。素行の良さと、論調を作れる近衛兵たちのおかげだ。


 うつら、うつら。午前中の授業では同じ調子で寝てしまった。ただし後半では、実は起きていて義眼で録画したものを見直していた。家を出てから学校に着くまで、あやを窺う不審者は見つからない。振り返る瞬間に顔を背けたような髪や服の動きもない。


 唯一の目線は一緒にいた根雨椎奈だ。隣を歩く友達だから不審ではない。が、あやは気づいた。今日は普段より早い。他の友達グループがいない中で、椎奈だけは同じ時刻にいた。


 ガタン。あやの頭が机を叩いた。先生が苦笑いと共に話を振る。今は日本史だ。


「おはよう十六女いろつきさん。怖い夢を見てたかもしれないわね」


 歴史の授業では往々にして怖い出来事の話をする。黒板の内容からは読み取れなかったが、今回もきっとそれだ。


「すみません。もう大丈夫です」

「それはよかった。じゃあ再開しますよ。三十二ページです」


 ペンを取った。何も大丈夫ではない。友達を疑いたくはないが、世の中には万が一があるらしい。今がそれかもしれない。


 授業の題材は『蛮社の獄』だ。逃げるために硝酸で顔を溶かして別人になりきった。そんな事態にはなりたくない。当たり前な感想と共にチャイムを聞いた。


 昼休みだ。


 まず椎奈に謝ろう。英語の授業を寝てしまった。これは本当なのでボロは出ない。抜けた情報は他のメンバーが補う。あやがあの様子ならと思って、代わりにまとめていた。しかも五人とも。本当に、いい友達を持った。


「ところで彩、茶道部は行けるの?」

「もう大丈夫。午前中に寝たおかげでね」

「世の中にはさ、念のためがあるんだよ」

「これは本当に大丈夫だから。恋路は私も気になるし。行くべ春」

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