N03A1c 銀色の手足 3

 約束通り木曜日の午後七時、あやは東中野へ向かう。都営大江戸線で。


 服装は緑を基調としたロリータ・ファッションだ。これならスカートが膨らんでいても不自然でなく、手袋をつけていても目立たない。足元にはブーツがチラリと見えて、リボンの靴紐が右へ左へと情報量を増やす。頭には小さな帽子を右側に斜めにつけている。


 すなわち、義肢を隠すために。


 このブーツは張りぼてて、本当はスポーツ用の義足で地を踏んでいる。弓なりのカーボンファイバーがふくらはぎの線より後ろまで反り返る。弾力で着地の衝撃を受け止めて、直後にはバネとなり地面を蹴る。


 通常の人間より走るに適した脚だ。街中では目立つそれを今ならいくつもの飾りの中に埋め込む。木を隠すなら森の中だ。


 人間は情報の多さに耐えられない。フリルやリボンがいくつも並んだ複雑なドレスに対し、ロリータのただ一言で表せば、それ以上の思考ができなくなる。詳しく興味を持つ先は帽子が吸い寄せる。被っているのではない。下に髪留めがついているから小さくても斜めにしても頭の同じ位置についている。


 足音は雑踏に隠す。長いエスカレーターの先で改札を出て、待ち合わせ場所へ。彼はいつもの背広姿で、帽子と髪が無線機を隠している。


「どうも岩谷さん。お待たせしました」

「待っていませんよ。時刻表の通りに」


 岩谷は大人だが、差は兄妹ほどだ。傍目にもそう見せる。隠すものは目立つものの陰に。


「行きましょう。こっちです」


 どんな都会でも、大通りからひとつ隣にずれたら人通りが一気に減る。東中野駅は特に顕著だ。大江戸線から総武線に乗り換える経路や付近のロータリーは賑わっていても、少し奥に行くだけで視界を田舎都市が埋め尽くす。植物と虫、あとは地滑り防止のコンクリートと落下防止のフェンスだ。反対側のご立派な建物を見ればかろうじてここが東京だと思い出す。


 街灯が頼りないほど、盗み見が難しくなる。岩谷は手帳を開いた。あやの顔の前に写真とメモ書きが現れ、暗くてもも見える目に焼き付ける。


 安藤奈津五郎あんどう・なつごろう。髪と髭が白くとも目つきには威厳が残るナイスミドルだ。和菓子職人として雑誌にインタビュー記事が載って以来、彼の店は大繁盛だ。そのどさくさに紛れて、何者かと爆薬の取引をしている。


 あやは左目が義眼になっている。望遠や暗視はともかく、撮影もできると知られれば友人たちに無用な不安を与えかねない。この事実を知るのは、家族の他には岩谷だけだ。


 顔と体格と車のナンバーを記録した。簡素な地図でおおよその経路もわかった。


 あやへの依頼は、この車を追って行き先か取引相手を撮影すること。


「ところで本当に、その服で行く気ですか?」

「スカートは縮めるよ。顔も隠す。文句ないでしょ?」

「やれるならいいですが。恐ろしいでしょうね。謎のゴスロリ仮面が走って追ってくる。都市伝説になるかもしれませんね」


 岩谷は腹を震わせた。真面目な男だが、必要な話を済ませたら砕ける。


「ゴスじゃない。ここは大事だから」

「それはすみません。次までに勉強しておきます」

「帰りは送ってよね」

「講義を聴ける、なんとありがたい」


 拳をつき合わせてから持ち場へ向かう。岩谷からの連絡を受けたらあやが走る。それまでは目立たない場所で待機する。


 仮面にはモレッタという名前がある。口の部分にある突起を噛んで顔の位置に固定する。女に貞淑さを求めた時代の発明品だ。当時の女は黙って踊るのが仮面舞踏会の礼儀だった。とネットに書かれていたので、今がそうでないから非日常として楽しめる。


 大きな単眼を、黒眼を窪ませて描いた。どの方向からでも自分の方を向いているように見えるトリックアートだ。まつ毛部分の黒が半透明になっていて、その奥に本物の目がある。網膜の記録はさせない。


 あやは暗がりにしゃがんだ。ロリータ服の一つ目お化けが暗闇から見つめている。自分がどのように見えるか想像して、仮面の下でにやけた。通りがかりのくたびれた男が足を止めて、ゆっくり振り返って、くぐもった声を上げて走り去った。


 通話状態のスマホに声が届いた。


「安藤が動いた。A地点までおよそ一分」


 あやは立ち上がった。


「了解、行くよ」


 返事は声を出さずに、スマホに声の情報だけを入力した。


 脚の六番が地面を蹴る。手入れを終えたばかりのカーボンファイバーがしなり、自転車ほどの速度で走り出す。


 大通りに出た。行き交う車のナンバープレートを見る。見つけたら輝いて見える。これは義眼の機能ではなく人間の脳の仕組みだ。


 見つけてからは、見つからずに追う。隠れ場所は上だ。あやは助走をつけて跳び、変圧器を踏み台にしてさらに上へ。


 二階の窓の前にあるひさしを蹴って三階へ、看板の根本を蹴って四階へ。同じ調子でビルの屋上に着いたら、今度は屋上から屋上へ跳ぶ。


 暗くてもあやなら地形が見える。遠くてもあやなら見失わない。交差点を曲がっても斜めに跳んで越えられる。機械の助けは人間の身体能力をこうまで拡張できる。


 東京の星空は地上のビルが淘汰した。誰も見上げない夜空のアスレチックを縦横無尽に駆け巡る。現在地を自動車用の標識から確認し、それでも混乱したらスマホから読み取った。


 安藤が車から降りた。椎名町駅に近い小道だ。彼は助手席からスーツケースを取り、細身の女性に渡した。彼女は中を覗きもせずに封筒を渡し、安藤は軽く覗いただけで内ポケットに入れた。彼女は小さく手を振り、安藤は小さく親指を立てる。すぐに車は走り去った。


 あやはその一部始終を記録した。斜向はすむかいのビルの屋上から、安藤の顔を写せるように。


 もう少しだけ待機した。彼女の行き先次第では顔を写せるかもしれない。


 その期待は悪い形で叶った。彼女があやの方へ振り返り、小さく手を振った。再び後頭部を向けて歩き出した。彼女は建物の陰に入った。


 心臓がうるさい。手も脚も、頭も動かない。機械のサポートがあっても、動かすための頭が止まったら何もならない。なぜ気づかれた? 何もわからない。次にどう動くべきかも。


 ガタガタと扉が鳴る。気づかれてるなら、誰かが来る。あやは走った。横からの風を受けて着地地点がずれて、隣の屋上で転んだ。また扉がガタガタと鳴った。風が揺らしただけだ。ならばきっと、さっきの扉も。本当に?


 あやは首だけで振り返った。人影は、なし。他の方向にも。地上には騒ぎながら歩くグループが見える。


 深呼吸をしたい。仮面を両手で持ち、口周りに隙間を作った。吸って、吐く。モレッタはこういう時に困る。あとでハマカンに伝えよう。岩谷への連絡も。合流場所は池袋にする。


 地上に降りて裏通りを走った。法定速度を超えているがあやは車両ではない。赤信号はジャンプで飛び越える。


 ようやく岩谷と合流できたら、気が抜けて彼に倒れ込んだ。仮面はつけたままで胸に顔を埋めた。彼の車に乗り、起きたことを話して、データを渡す。義眼を下に向けて端子を押しつけると白いカバーの先に入り込む。SDカードに書き込んだらあやの仕事は完了だ。


 完了していない問題はこれからどうにかする。まずは相談からだ。

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