まことさくら

 翌朝、心の準備のために早めに登校しようと、目覚ましを六時にセットして眠った。それなのに、アラームが壊れてしまったのか、目が覚めたら朝十時を少し過ぎていた。昨日は早く寝ようと思って、十時には布団に入ったから、十二時間くらい眠っていたことになる。最悪の気分だ。


「今日、学校行くの嫌になっちゃったな。まこちゃんが代わりに行ってきてよ」


 私は大きな白鳥がプリントされた、お気に入りのパジャマを脱ぎながら言った。手に取ったセーラー服がとても重く感じる。


「私が代わりに行くにしたって、かなちゃんの体で行くんだから、かなちゃんも一緒に来ないといけないよ。二人で一つなんだから」

「うーん、お昼休みにこっそり教室に入ればバレないかもしれない」

「朝に出席取ってるでしょ」


 まこちゃんは正論を言う。その場しのぎで、卑屈で、落ち込みやすい私を一生懸命まともな方へ導こうとしてくれる。

 私はいつもより慎重に、制服に着替えた。襟を正して、リボンも正しく結ぶ。スカートの丈にも気をつけて、靴下も学校指定のやつを履いた。


「大丈夫、かなちゃんなら、君島さくらと友達になれるよ」

「うん……」


 昔、病院に通っていた頃に「まこちゃんは私が無意識に作り出したもので、私が考えたことを代わりに話しているのだ」と言われた。でもあの医者は間違っている。だって、まこちゃんは私が知らないことを知っているんだから。


 まだ気分は悪かったけれど、それは寝坊したからというだけではない気がする。これからしなければいけないことを想像したせいだ。遅刻して教室に入る時の気まずさも、担任に遅刻の理由を話すのも、その時のクラスメイトの視線に耐えるのも、君島さくらに会うのも、全部が嫌だ。外に出るために靴を履くのも、玄関の無駄に重たい扉を開けるのもめんどくさい。私は太陽の昇り切った通学路をいやいや歩いた。



「おはよう。今日は遅かったね」


 教室に入ると、ちょうど三限が終わった十分休憩で、私を見つけた君島さくらが出迎えた。相変わらず、マネキンみたいに制服を正しく着こなしている。スカートのプリーツもアイロンをあてたばかりみたいにきっちり折り目がついていた。


「ちょっと、トラブルがあって」

「そうなんだ。お疲れ」

「別に疲れてはないけどね」


 他人との会話は、回りくどい。いちいち自分の会話の下手さ加減を痛感させられて苦痛だ。


 君島さくらの不可解そうな表情に、心が折れそうになる。それを察して、まこちゃんが「自分にだけわかればいいやなんて思わずに、誰かに伝えようとする気持ちを持つことが大切だよ」と私を励ました。


 そうだった。まこちゃんに本物の友達を作る努力をするって約束したんだからがんばらないといけない。そのためには、相手を理解しようとすることが必要だ。私は、まず相手をよく観察することから始めてみることにした。


 そのあとの英語の授業は、君島さくらの一挙手一投足を横目でずっと追っていたせいで、何も頭に入ってこなかった。


 お昼休みも気だるくて、食欲が湧かない。みんな思い思いの場所に移動してお昼を食べているのに、私は窓際の自分の席に座ったままだ。そこから君島さくら見ていたら、何人かが彼女をお昼に誘った様子だった。けれど、彼女は顔の前で小さく手を合わせてそれを断った。断られた女子グループは、気分を害すことなく、ひらひらと手を振り、笑顔で教室から出ていく。私は誰かを嫌な気持ちにすることなく、ノーと言う方法を知らないから、羨ましかった。


「ね、かなちゃん……って呼んでいい?」


 私の視線に気づいて、わかりやすく嬉しそうな顔で近づいてくる。


「うん」


 返事をしてしまって、激しく動揺した。すんなり返事をしてしまったからというより、馴れ馴れしく話しかけられたことを私が不快に思わなかったから。君島さくらには、誰とでもすぐに打ち解けられる天性の才能があるに違いない。どうせ私にはないものだ。


「お昼、一緒に食べよー」


 遅刻のせいでお昼ごはんを食べられる精神状態ではなかったけど、彼女の誘いをうまく断る自信も気力もなくて、私は「いいよ」と答えた。


 君島さくらは、お母さんが作ってくれたという彩り豊かなお弁当を美味しそうに食べながら、一人でずっと喋っている。まこちゃんに言われて、私はたまに相槌を打ったけど、そんなことしなくても、彼女は勝手に喋っていた気がする。


「それでね、今流行ってるゲームがあるんだよ。スマホでもパソコンでもできて、普通に遊ぶだけなら無料! かなちゃんもやらない? 協力プレイっていうか、一人じゃクリアできないミッションとかもあるんだ」


 彼女の言葉は疑問形で終わったけど、断られるとは全く思っていないみたいな自信満々の表情をしている。ちなみに私もまこちゃんもゲームは好きでも嫌いでもない。有名なやつはいくつかプレイしたことがあるけど、二人とも飽き性なのであんまり続かなかった。


「あ、これこれ。自分でアバターを作って、森とか草原を探検して国王の出すクエストに応えていくってやつ。紹介動画があるから見てみてよ」


 そう言って、自分のスマホの画面を私に見えるようにし、彼女もそれを一緒に覗き込んできた。


 再生ボタンを押すと、青々とした草原が映る。もちろん本物ではなくて、誰かが設計したプログラム。でも風が吹き抜けて草が揺れるのも、青い空に流れる雲も、本物より綺麗だった。そしてプレイヤーのアバターたちが走り回ったり寝転んだり、何人かでクエストに挑んだりしている。かなり自由度の高いゲームみたいだ。


「どう? こういうゲーム、あんまやらない?」


 君島さくらの提案に乗るみたいであんまりいい気分じゃないけど、ちょっとおもしろそうだし、君島さくらと仲良くなるきっかけになるかもしれない。まこちゃんと、まこちゃん以外の友達を作るって約束したし。


「やってみる。これ、まこちゃんも一緒にするかな」

「まこちゃん?」


 君島さくらが首を傾げる。途端に私は下唇を強く噛んだ。またやってしまった。


 私は長いことまこちゃんとしかまともに会話してこなかったせいか、他人との会話の途中でまこちゃんにも話しかけてしまう癖があった。「奇妙に映るからやめたほうがいい」とまこちゃんからよく指摘されていたのになかなか治せない。


 でも、君島さくらは自分で勝手に足りないピースを補完して、納得したように頷く。


「ああ、他の友達? いいよいいよ、まこちゃんも誘って、三人で遊ぼう」


 君島さくらは親切で、とても優しい善良な子だ。私が心配になるくらい。


          *          *


「おおー! アバター可愛いじゃん。なんとなくかなちゃんに似てるし」


 その日の夜、私はヘッドホンをして君島さくらと通話しながら、新しいゲームのアカウントを作った。スマホのホーム画面に表示されている新しいアイコンは青空と草原がモチーフになっている。


「じゃあ早速クエストを受けてみようか!」


 君島さくらのアバターは、シンプルな生成りのワンピースに大きな水玉柄のショールをかけている。後ろに垂らした長い三つ編みが、学校で見る彼女の姿と重なった。


「私の周りの子、ゲームとかするタイプの人いないから、学校の友達とプレイするなんて新鮮だよ。あ、そういえばまこちゃんは呼ばなくていいの?」

「ああ、まこちゃんは……今は無理なんだって」


 さっきまで自分のアカウントを作っていたので、まだまこちゃんの分のアバターが作れていない。それに、一つの端末で遊べるのは一人までだから、タブレット端末を使ってまこちゃんのアカウントを新しく作らなくてはならない。


「そっか。次は一緒に遊べるといいね」


 彼女の言葉に、私は少しだけ胸がざわついた。あまりにも真っ直ぐまこちゃんを受け入れるから戸惑う気持ちと、まこちゃんについて彼女が勘違いしていることを私が意図的に放置していることへの罪悪感だ。


 君島さくらは、そんな私の気も知らずに、私の手をとって草原を進む。アバターの私は画面の中で、ただ連れていかれるままに引っ張られている。まるで自我がない。


「ここかな。最初のクエスト。このキャラに話しかけてみて」


 言われた通りにすると、強制ムービーが始まって、クエスト受注が完了する。


「何がなんだかわからなかったでしょ。大丈夫、私が手伝うから」



 私がゲームに慣れていないということもあって、最初のクエストだけで二時過ぎになっていた。四時間ぶっ通しで遊んでいたことになる。自分が一つのことにこんなに集中できるなんて知らなかった。


「ふぁーあ、ねむ……」


 君島さくらは電話の向こうで可愛らしいあくびをした。


「ごめん、私はそろそろ寝るね。今度遊ぶときはまこちゃんも誘って三人でやろう」

「うん。ありがとう、楽しみ」


 本心だった。敵が出てくるエリアでもなく、ただ草原を歩き回っただけだったけれど、足音や風の音がこだわられていて、本当にそこにいるみたいに感じられた。

 私のアバターは、草原の端っこで、足を伸ばして座っている。


「このゲーム、気に入ってくれたみたいで嬉しい。また遊ぼ。おやすみ」


 通話が切れ、数秒タイムラグがあってから彼女のアバターがぱっと消える。私はさっきまで彼女のアバターがいたはずの虚空から視線を上げて空を見た。

 本物よりも鮮やかな青空と、降り注ぐ柔らかな日差しに目をつむる。生まれて初めて、ゲームで寝落ちした。



 それ以降、私とまこちゃんはそのゲームにのめり込んだ。すぐにタブレットでもゲームをダウンロードして、まこちゃんのアカウントも作った。二人で遊ぶ時も体は一つなので、交互にしかキャラクターを動かせないのだけれど。私は、まこちゃんのアバターと自分のアバターの操作で、画面の前で大忙し。まこちゃんがあっちに行きたいとかあのアイテムを拾えとか、わがままばかり言うので、いつまで経っても操作がおぼつかなくて、君島さくらに笑われた。


 私たち三人は、ほとんど毎日一緒にゲームをした。通話アプリを使って、毎晩通話しながら遊び回った。君島さくらは、ゲーム内でも親切で、初期装備しかない私たちにレアアイテムを譲ってくれたり、イベントの攻略方法を教えてくれたりした。


「まこちゃんは、通話できないの?」


 ある時、君島さくらにそう聞かれた。

 まこちゃんは、私の中にいて、声帯も共有しているから通話はできる。そう答えようと開いた口を、一旦閉じた。


 まこちゃんのことをどう言えばいいかわからない。小学校の時は、説明に失敗して友達が一人もいなかった。今回も同じミスをするわけにはいかない。言葉を考えていると、訊いた本人が「ごめん、今のなしで」と取り消した。


「まこちゃんにも事情があるよね。今のは私にデリカシーがなかった」


 君島さくらの配慮レベルが高すぎて、何に気を遣ったのかがわからない。とにかく、難しい説明を考えなくて良くなったことに安堵して「ああ、うん」とだけ返事をした。


 それ以来、彼女に訊かれなかったから、私もまこちゃんの説明を全くしなかった。私とまこちゃんがどういう関係なのかとか、脳みそと体を共有している話とか、何も伝えていない。それでも、なんの問題もなく、三人でゲームができた。こんなことは、今までにない。私とまこちゃんが別の誰かを交えるなんて、少し前までは考えられなかった。


 それを私は、君島さくらがまこちゃんを受け入れてくれているからだ、と勘違いしてしまったのだ。でも実際は違う。単に知らなかっただけ。



 三人で遊んでいたあるとき。君島さくらはいつも、電話の向こうでこの世界で見られる素晴らしい風景や新しいギミックについて一人で永遠に喋っているのに、その日はやけに静かだった。私とまこちゃんは声を出さずに会話するから、たまに向こうの操作音が聞こえるだけで、気まずい沈黙の時間が流れていた。


「……まこちゃん、もう落ちるって」


 まこちゃんの分のアバターを操作する心の余裕がなくなってきて、私は恐る恐る言った。


「そっか。またね、まこちゃん」


 返ってきた声は、割と普通で、怒っているとか落ち込んでいるとかではなさそうだ。私は余計にわからなくなった。


「ねえ、ずっと思ってたんだけど」


 まこちゃんのアバターが消えたのを確認する間が空いて、君島さくらが切り出した。


「かなちゃんとまこちゃんってさ。いつも一緒にログインするし、大抵一緒にログアウトするよね」

「うん? そうかな」


 何を言おうとしているのかがわからなくて、私は曖昧に返事をする。


「私、二人と結構遊んでるけど、かなちゃんのアバターとまこちゃんのアバターが同時に動いているところを見たことがないんだよね」


 ああ、なるほど。


「もしかして、かなちゃんもまこちゃんもかなちゃんが操作しているんじゃない? 前、まこちゃんのことを同じ家に住んでいる姉みたいな人って言ってたけど、嘘だよね?」

「……嘘じゃないよ」


 不自然な間が空いてしまった。きっと、隠しておくべきことがバレているんだろう。

 でも、嘘じゃない。お姉ちゃんみたいに思っているのも、一緒に住んでいるのも本当だ。ただ、住んでいるっていうのは、同じ家って意味じゃなくて、同じ体に住んでいるってことだけど。


「じゃあ何?」

「まこちゃんは、私の中にいる」

「はい? それってまこちゃんは実在しないってことでしょ?」


 混乱した彼女に私は、努めて丁寧に説明する。


「まこちゃんは、私の体を借りているだけで、実在するよ」

「それは、かなちゃんの設定の中でってことでしょ」


 多分、彼女は正しい。私はまこちゃんがいることを第三者に証明できないんだから。


「つまり、まこちゃんのアバターもかなちゃんが操作してたってことだよね?」


 私が操作していたんじゃなくて、まこちゃんとかなが私を操作している。私の体はまこちゃんとかなのもので、どちらか片方だけが使っているものじゃない。


「逆かな」


 けれど私の言葉は正しく伝わらなかった。彼女が苛立って声を荒らげる。


「は? 意味わかんない。結局一人だったってことじゃん」

「違うってば」

「よくわかんないけどさ、別に自作自演しててもいいよ。実際、自分でキャラクター考えて、そういう遊び方している人もいるし。でも、なんでそうならそうって言ってくれなかったの? 私に隠し事してたってことでしょ。二人を別人だと思って接する私を見て面白がってた?」


 君島さくらがどんな表情をしているのかは想像するしかないが、怒っているというわけではないことは理解した。声はとても刺々しい。多分、私が悪かったんだろう。私の説明がヘタクソだから。


「ごめん、強く言いすぎた。でも裏切ったのはかなちゃんだよ」


 言葉を探して沈黙していたら、私を追い詰めたと勘違いした彼女が謝った。私が悪いのに、こんな状況でも気遣いを忘れない。


「違う、まこちゃんは私じゃなくて」


 それなのに、私はまた間違えた。今のは、謝らなくていいって言うところだったのに。

 君島さくらが、今までより大きな声を出す。


「でも一緒にログインできないんでしょ! それってかなちゃんがまこちゃんを演じていたってことじゃないの?」


 どうだろう。私はまこちゃんを演じているのか? 考えてみたけどわからない。まこちゃんも、何も言ってくれなかった。


「もう私このゲームやめるね」


 私が何か言う前に、一方的に通話が切れた。ゲーム画面には、君島さくらのアバターがスリープモードになって、草原に寝そべっている。正しい手続きを踏まずにいきなりゲームを遮断すると起こるラグだ。

 あんなに刺々しい会話だったのに、アバターだけは呑気に自然を楽しんでいる。


 私のアバターは足元に寝転ぶ彼女を見下ろしたまま微動だにしない。しばらくぼうっと眺めていたら、ふっと彼女のアバターが消えた。これでおしまい。あっけないものだ。もしかしたら、初めて、本物の友達ができるかもしれないと思ったのに。普通の人間になるために、残りの高校生活はがんばろうと思っていたのに。


 私はヘッドホンを外して、乱暴に机に投げる。そして、自分の体も同じようにベッドに放り出す。布団に顔を埋めたまま、しばらく自然に涙があふれるのに任せた。



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