天使の梯子
天池
天使の梯子
「おわかりでしょう、わたしは、出立する気力を出さなければと考えていたのです、そうできるだろうと。でも今朝、目を覚まして、わたしにはできないとわかったんです。そこで、わたしに哀れをかけてくださるようにお願いしに来たんです」
「わたしは敵ではありません」とブロンデル氏は言いました。「どうぞお話しになってください」 ――シモーヌ・ド・ボーヴォワール『離れがたき二人』
1
昼間のうち、意識を循環させてわたしの各部を繋ごうとしていたかのように繰り返し聴いていた音楽は、マットレスの側面に落ちかかるシーツの皺や、ベランダの入口に並べた園芸用具の隙間に吸収され、ふと風がカーテンを揺らすとき、わたしが見るのはいつも三時を過ぎた時刻の表示だった。わたしの内側を麻痺させているものが何であれ、心が急に落ち着くように思えるこの僅かな時間に、わたしの視界に入るものはあまりに少なかった。
人が起き出すことが、うんざりするよりもっと怖かった。世界が急に作り変えられてしまうようだった。だからきっと、人が動いていること自体に、翡吹(ひぶき)はどこかで恐怖を感じ続けなくてはいけなかったのだ。でも今となっては、それは恐怖と呼ぶにはもう不明瞭な程に薄まってしまって、雑草の肌を露が滑り落ちるのを見るときに感じる冷たさのような、誰も知らない不安に化けてしまっていた。街が明るくなっても何も動かないでいてくれたなら、ただあなたがここへ来るのだけが見えるのに、もう何時間と経たないうちに黒い車が出て行って、誰もかれもをかっさらって、もうぬばたまの安息は見えなくなって、ベランダの陽だまりに姿が映らないように、わたしは部屋の窓を閉めるのだ。そうするとエアコンの冷気がだんだん全てのものを艶やかに染め始めて、もうわたしを麻痺させていたものは蒸発してどこかへ飛んでいってしまうから、わたしは息もしないでシーツの上にまろぶことが出来た。
フラミンゴの嘴を思わせる指が戸を叩く。翡吹は頑丈な四つ足に支えられたベッドサイドテーブルに読みかけの本を投げ出して、ヘッドボードに背を付けた。
「待たせたわ」
あなたは淡く光を撥ね返す小麦色のバッグを下ろしながらわたしに近付き、わたしの顔を少し見詰めてから、赤いクッションのライルモチーフの椅子に身体を沈めた。
「もう六時ね。すぐにみんな帰って来てしまう」
「ああ! このまま時が止まってくれたら。あなたは毎日通ってくれるような人ではないのに」
「通って来たいと思うからここにいるのよ。この夏の間、わたしの時間が許せばいつでも」
「あなたの時間はあなたのものでしょう。それが今日どんな気分でいるかなんて、僕には知る由もない。あなたから何も盗みたくない」
僕はそっとシーツに爪を立てた。
「時が止まってしまったら、あなたの脚も治らない」
「治って欲しくないんだ」僕はあなたの眼を見詰める。涙が少しでもわたしを潤ませてくれたらと思う。だが無理だ。「脚はだんだん治りかけているみたい。それが怖いんだ」わたしとあなたは強く繋がってしまう。
「治りかけているのが分かるの?」
「松葉杖を使って歩き始めたとき、左脚があるところはまるで海が広がっているみたいで、果てがなかった。でも今は、何かが確かに巡っているのを感じる」
わたしはふいに汗をかき出して、目を閉じる。
「あなたが来てくれると聞いて、僕は全身が沸騰する程冷や汗をかいた。僕は汚かった、そこから何とか足掻き出ようとしてじたばた闘っていても、それでまた汗をかいてしまう。でもそんな日に本当にあなたがやって来たとき、僕は水底で竜巻に飛ばされたみたいにこの瀬に打ち上げられていた」
「あなたは呼んでくれなかったから。今も昔も、あなたは同じ声をしてる。その声で、ただ名前を呼んでくれれば良かったのよ」
あなたの口から零れる声は水泡のように真っ白なのに、わたしの前で鈴の音みたいに反響して、小さく溶けていった。
「声を出したらきっと死んでしまった」
紫色の花柄の壁紙が継ぎ目のところで剥がれかけている。
「ただ麗らかに漂っていくものたちを、吸い込んで暮らしていたいという気持ちでいることもあった。でも本当はずっと、あなたのこと仰ぎ見てた。それだけでもう頭がくらくらしてしまう、それに、この距離はきっと僕たちが一緒に泳ぐ距離だって信じたかった」
あなたは僕たちの眼玉の中間に竜胆色の宝石を翳す。そのとき、階下で玄関の扉が開く音が聞こえた。翡吹には途端にあなたの顔が霞んで見えた。何人かの顔や仕草や近くで弾ける温度が重なり合って、わたしに立ち現れながら、その全てをわたしは石化したあなたの指の向こうにただ眺めているような感覚でいて、きっとまた怯えた眼をしてしまっているのだ。アメジストの尾を引く指がゆっくりと沈下していくのにわたしは安堵する。どうか何も止まらないで、わたしの感じられる体温になったなら、もう幻影の国に戻っていかないで。
石畳のベランダが好きな響映(とよは)以外はみんなリビングにいて、しばらくして厨房で晩ご飯の準備にかかる音がし始めた。
「ご飯、食べていくでしょう」
「ええ、そうする」
わたしとあなたはしばらく互いの読みかけの本の話をして、その幸福にわたしの胸では燕の雛たちがかしましく鳴き喚いていた。あなたが食堂の戸を開けると、渧霞(ていか)は黒酢のかかった蒸し野菜の鍋をテーブルに運んで来るところだった。
「詞嘴(ことは)、久しぶりだね」
「もう随分になるね。そっちはどう?」
「元気にしているよ。ちょっと諦めごとが増えて、ちょっと逃げたりもするけど、ここは私の水浴み場だからさ。みんなと美味しいものが食べられるのは幸せだよ」
そこに座って、と渧霞が示した奥の席に並んで腰かけると、まだ人の揃わないテーブルを大皿やそれぞれの茶碗や箸がだんだんと彩っていった。詞嘴とわたしは言葉を発することなく、絵葉書の図柄のように並んでその様子を眺めていた。でも、詞嘴が眺めていたのは渧霞の方だったのだとわたしは思う。渧霞の笹船のような手から離れた白い陶器がゴブランのクロスの上で音を立てる一瞬の出来事や、厨房と食堂を仕切る戸の横を抜ける渧霞のガラスに映る不完全な影を、詞嘴の澄み透った黒く蒼い眼は取り零さずに捉えていた。渧霞のことを手伝おうとしないのは、まだ松葉杖なしで歩くことの出来ないわたしに気を遣ってのことではなく、訴える先のない幾つもの感情をその眼の中に宿しているからなのだろう。
人々が食堂に集って来て、一人一人が持つことを許されている食器を目印にそれぞれの場所の椅子を引く。渧霞は翡吹と隣り合う角の席に腰を下ろし、親し気な視線を二人に送った。渧霞の鼻筋はとろとろとした川の流れの中に浮かんで孤島となっている石のように綺麗な丸みを帯びていて、グラスを近付けるのが誰よりも似合った。たっぷりと液体を湛えたロンググラスから立ち上るミントとフルーツを漬けたシロップとコーヒーの匂いが混ざり合って、わたしたちの顔をくすぐる。すると、渧霞の顔をもっと近くに感じる。ここでは、どこへも彷徨い出ることなどないから、どんな姿にでも変わって漂っていることが出来るのだが、わたしは突然不安に襲われた。詞嘴を失うような気がした。ぼんやりとした靄が一面を包み、何にも流されたり、沈んだり、迫られたりしたくないと反射的に思ったが、でもわたしの問題と詞嘴の問題は決定的に別のものだった。わたしは、詞嘴に姿を変えて欲しくないと思ったのだった。
詞嘴は何も言わずに箸を動かしていた。わたしは毒が回ったように手を止めて、何度か目をしばたいた。渧霞の視線がわたしに向けられているのを感じて、それを逸らさせないように茶碗を掴み、息を止めて白米を口の中へ放り込んだ。
「翡吹……」と渧霞は小さな声でわたしの名前を呼んだ。はっと気が付いたように詞嘴がわたしの方を振り向く。わたしは何にも答えない。ただ遠くで何か甲高い神秘的な音が鳴るのに耳を澄ますようにして、じっと目の前を眺めた。わたしに涙の出る眼があれば、一体今何が見えただろう。自分のブラウスの胸に縫い付けられた黒い薔薇が、萎れているのか輝かしく匂っているのかさえ分からない。だから閉じこもることも出来なくて、何かを見せるということも殆ど出来ないのだ。
「ごめん。なんだか、どこにいるのか分からなくなってしまって」
渧霞は弱々しく笑みをつくって肯いた。詞嘴は海藻の味噌汁を啜って、それを置くと、わたしの皿から野菜を奪ってそのまま口に運んだ。
「美味しい」
「そうだろう。蒸し料理には少し気合を入れているんだよ。味が濃縮されて、一つ一つの食材の形に愛着が湧く。まだ小さな天使たちはこればっかりせがむんだ」
渧霞はそう言うと、テーブルの向かい側の奥に並んで座る六歳児たちに視線を移した。あの人が「まだ小さな天使たち」と呼ぶきょうだいは、プラスチックの食器を忙しなく動かしながら、夢中でご飯を食べていた。
「ねえ、あの食器、わたしたちが使っていたものよ」と詞嘴はわたしに言うと、間髪入れずに「どうして?」と渧霞に問いかけた。
「食器を選んだのは雨(あめ)さんだよ。きっと君たちの昔の姿を思い出していたんだろうね」
「君たちのなんて言わないでよ。渧霞だって一緒にいたのに」
翡吹の覚えた違和感を、詞嘴はすぐに表明した。その素早さは、心の小夜に走る閃光のようで、いつも僕に大きな安心感をもたらした。視線が通い、渧霞は愉快そうに微笑んだ。
「そうだね、私もプラスチックのお皿で食べていた。小さな私たちだったね」
食事を終えて席を立つとき、誰もが詞嘴と話したそうにしていたが、結局何も言葉を見つけられず、渧霞の近くでごちそうさまとだけ言って皿を厨房へ運んでいった。この人たちには僕たちのことがどう見えているのだろう。翡吹は消えていくあどけない後姿を見ながらそう思わずにいられなかった。コーヒーを飲もうとはしない人たちが、僕たちにどんな興味を覚えて、そこに何を重ねてみたがるのか。この人たちにはどんな世界が広がっていて、僕たちにどんな居場所が与えられているのか。三本の煙突のように立ち並ぶグラスは取り残された三人を繋いでいるようだった。けれどもう全て空で、変身する魔法の飲み物は残されていなかった。
わたしと詞嘴の間にはいつしか透明なヴェールが降りている。煙突や魔法が無ければ、全部時間に搦め取られてしまうのだと知っていた。でももう何も視界に入れたくはなかった。消えることを分かっていながら、その瞬間に縋り付いていたかった。けれどわたしは瞬間にはなれない、なる訳にはいかない。暗さに紛れることくらいしか得意なことのないわたしが、それでもその身で自分を明かしたいと思った人なのだ。わたしはきっと消えているときに一番あなたに近い。それでも、わたしはあなたと一緒に行きたかった。瞬間に心ごと飛び込むのではなく、わたしの感じる永遠を惑い続ける義務がわたしにはあった。
「詞嘴、あの頃の僕らはもうここにはいないけれど、あなたと二度目に出逢ったときに、きっと今の僕はつくられたような気がする」
「ああ! わたしはあなたも渧霞もいない場所で、新しく人と共通項を持って、心を沢山染めたわ! 殆ど生まれ変わった心地だった。何かになったりするのではなく、わたしはわたしの場所をつくろうとしたのよ。成功していたかは分からない」
「それはあなたの生き方が証明してる。あなたがどこを旅していたのか、僕にはあなたが教えてくれたことしか知ることが出来ないけれど、その眼に何を映しても、あなたはあなたを苦しめない道を必ず見つけ出して、彩りを増していくようだった。あなたの瞳が丸くなって、遠い島のヨットのように動くとき、ときどきその道が見える」
それが僕の希望なんだ。そう付け加えながら翡吹は身体を詞嘴の方に向けて、顔をほんの少し詞嘴の首元に近付けた。幅広のレースの付け襟の上に耳を掠めた髪が垂れかかっている。わたしの薔薇を赤く染めるのがあなただけなのだとしても、わたしはまだ逃げていく怯えを残している。記憶の在り処をわたしはどこかに落としてしまったから、それをずっと探し続けなくてはいけなかった。それでも、あなたを引き留めていたくて、景色をぐちゃぐちゃに乱してしまいたくて、わたしは無音の世界に一弦の音色を奏でるように声帯を震わせた。
「あなたのことを奇跡だとは言いたくない。理由にすらならない言葉で、あなたを誰かと比べたりなんて出来ない。奇跡なら見えなくなっても不運なだけ、諦めがつけばもう願うことを止めてしまっても良い。でも、奇跡を受け入れようとそれに抗おうと、あなたと一緒でいたい理由はどんなに考えたってまだ足りない、僕はそれを軽んじたりしない」
全身が熱く燃えるのを感じる。詞嘴はわたしの両肩に触れて、そのまま腕のプリーツに沿って手を滑らそうとしかけて途中で止めた。
「あなたはあたたかい」と詞嘴はわたしの右肩に目をやりながら言った。「あなたに絡み付くものが何だとしても、あなたの歩く綱の上にどんな恐ろしい魔物が飛び上がって来ても、あなたが磔になっても、あなたのこの腕はあたたかいまま、わたしはそれを見捨てたりしないわ」
わたしは小さな鉱石のかけらのアミュレットを付けた右袖を詞嘴の頭の後ろに回して、乗っていた星から落とされたように、その頭にだけ触れていた。わたしの足元で時はぐるぐると回り、わたしが手を引っ込めるのと同時に詞嘴も腕を自分の方へ戻した。そのままあなたがバッグを取ると、穹窿に星を撒く人の大きな天井画が描かれている食堂で、全てはあらかじめ定められた天体の運行法則に従っているかのように、あらゆるものに動きが戻り、途端に身が軽くなった気がした。でもそれは、全てをこの身の中に閉じ込めているのと同義だとも思った。全てを閉じ込めてしまえば、もうさみしくないような錯覚すらあった。
玄関まで詞嘴を見送り、わたしは二階に戻った。「よくお眠り。私の天使」と渧霞が言った。
2
湖の脇の、直線の長い道路が何本も平行に走っていたうちの一つにあったあの工場では、わたしは翠雨(すいう)という名前だったのに、あの人はわたしの体に触れたのだった。桃色のロゴが入った自社トラックや、銀色の檻のような背の高いバンボディのトラックがシャッターの前に停まると、踏み台を使いながら荷物を中に運び、大きなテーブルの上で中身の仕分けを行うのが主な仕事だった。入口のフェンスの内側にはりんごの木が植えられていて、風が吹くと硬質な葉の房や白い小花が揺れた。観賞用の品種だったが、赤い果実がうまく実ると、雨さんと育てたコケモモの実を思い出して、わたしは葉翳にも鮮やかなその愛らしい形に何度となく見惚れていた。
工場は横に長く、作業段階によって細かい区分けがなされていた。中で働く人たちは、右端のドアから事務所に入り、奥の狭い更衣室で作業着やワークエプロンに着替えた後、一度外に出てから作業場に向かうので、シャッターを抜けてすぐのテーブルの横は常に多くの人の通路でもあった。トラックが来る時間は大体決まっていたから、合間の暇になる時間には仲間同士で喋り、話題が尽きると外の景色を眺めながら休んでいた。長方形にくり抜かれた青空の下を時折車が走り抜けていくだけの風景は、不思議と時間が経つ苦しさを忘れさせ、わたしは収穫されずに残った果実や、滝の裏側に浮かぶ形のない藻類や、蜂の巣の甘く閉ざされた六角形の部屋や、そんなものの一つになっている気分だった。あたかもそこはトラックを使ってしか出入り出来ない場所であるかのような気がしていた。だから何もやって来ない間は、何にも自分を貸し出さなくて良いという安心感と、どこにも繋がらないということの不安感のようなものが混ざり合って模様になっていて、でもわたしはそれがうっとりするくらい好きだったのだ。
荷物が到着すると、みんなすぐに立ち上がって外へ出た。大きめなワークエプロンのポケットにはカッターとペン、メモ帳とハンカチと小銭入れが入っていた。少なくともトラックの荷台の後ろに並んでいる間は、それがわたしたちの全てだったし、忘れていられるくらいにまったく等質な個人世界だった。テーブルの周りで会話をしているとき、わたしたちの話題は目に見えない蜻蛉をふいに捕まえて見せ合うようで、それはどこから現われるというものでもなかった。でも、工場内で使う塗料や原料を取り分けてその人の元へ持っていくとき、わたしはそういった話題や、わたしの感覚したあらゆる刺激をそのポケットの中に閉じ込めて、誰でもない存在になろうという努力をどこかでたえずしていた。運んで来たものを受け取ると、あの人は何か返事のようなものをして、そのまま話を振られることもあれば、それで終わりのこともあった。あの人を背にするとき、わたしはわたしであるという感じが身体の奥底から急激に湧き上がって来て、人が視界から消え失せ、ともすれば誰かとぶつかってしまいそうになる有り様だった。
でも、誰もわたしと同じものを共有してはいなかった。あの人が休憩の時間にわたしたちのところへ来て、背後に立って話しかけて来ても、大体の場合みんな気前良く相槌を打って、ときには趣味の話に興じたりしていた。わたしは顔を向けることが出来なくて、殆ど同じ姿勢のままで返事をしていた。わたしは、あの人が前はもっと怒りやすかったこと、それを払拭しようとして、今ではわたしたちに積極的に話しかけるようになっていることを知っていた。それを茶化すように、あの人の昔の素行を笑い種にする人たちがいることも知っていた。でもあの人は、うわさ話の住人ではなく、わたしの後ろに立って、わたしの手元に視線を向けて来る一人の人間だった。
わたしの心がどのように壊れても、あの人には何も分からないだろう。そしてわたしは、幽霊のように忍び寄るものを見ないようにすることで、あの人を何も分からない位置に追いやった。わたしたちはみんな同じ色で満足していたし、幽霊を誰にも見せる必要なんてなかった。それがわたしたちの場所であり日々だったのだ。だからわたしには赤いりんごが一つあれば十分だった。誰にも弄ばせない気持ちが脳内で息をしていれば、誰かに対して無口にも饒舌にもなる社会的な人間でいることが出来た。そう思っていたのがわたしだけだったのは明らかだ。わたしは何もかもを詳らかにするようで、鬱蒼と茂らせた硬い葉で会話をしていたのに、誰もがわたしをわたしだと思っていた。もうとっくに出られないような硬い葉の内側の世界のことを感じるままに話すのが楽しかった。わたしはそこにないものを求めはしなかった。でも、あの人は一体わたしに何を嗅ぎ付けたのだろう。
全部を覆い隠すつもりはなかった。天使の臥所は雨さんがつくってくれた。わたしは寝そべったままで、葉叢の眼になって、そこを突き抜けるものを自在に調節しながら、往来を眺めていればそれで良かった。面倒になったら、きっと眠ってもばれなかったし、人は人でないものに変えてしまっても良かった。
「三笠くんは将来どんな家に住みたい? この辺みたいに景色が良いとこ?」
「えー、分かんないです」
「まあ、どこに住んだって大して変わらないけどねえ。物価は高くなってくし。三笠くんは出身も教えてくれないもんね。西の方だっけ?」
「内緒です」
「秘密主義だなあ」
あの人はよくそう言って少し機嫌の良くなった表情をしたが、翠雨はそもそも答えを持ち合わせていなかった。かと言って、嘘を吐く気にもなれなかった。嘘を吐くことは風穴を空けることだから、そんなのは寒々しくて耐えられなかった。ただ、理想の家というものはあった。茨の這う柵に挟まれたカーブする坂を上って行く、小高い丘の上の家だ。けれど、それは住みたい家というのとは違っていた。
あの人もまた、この場所が好きだったのだろう。テーブルの横を通ってシャッターの向こうや入り組んだ工場の内部に向かっていくとき、あの人は自分の田んぼを確認するようにわたしたちの姿を視界に入れ、足取りに微妙なニュアンスを含ませた。それはわたしたちが無言のうちに参加させられている会話だった。そうしてふわりとどこかへ消え去って、またいつの間にかぬっと現れるあの人は、孤独に明るさを纏わせることにあまりに長じていた。ふわりと飛んでいくように見えても、海面からふいに顔を出すように見えても、その足や胴の下には重い鉄の球が繋がれていて、それを忘れようとして笑ったり、怒ったりしていることを、いつの間にかわたしは見抜いていた。わたしは空にも、海にも、身を染めるつもりはなかった。顔を貸しても、垣の外へ出るつもりはなかった。湖の黒々とした反映や、人間の眼の中に、自分の姿を認めてしまうほど広いところへ出て行く気なんてさらさらなかったのだ。
砂利の敷き詰められた湖の岸辺に、水鳥が沢山群れている。人の通るところに鳥たちは集まって、白い羽同士をぶつけ合い、身体を揺らし合って、その隙間から毛並みの良い長い首を覗かせる。少し階段があってすぐ道路になり、車が海と街の間を次々と走り抜けていく。わたしたちの通勤路。そこを右に曲がれば、鳥たちののんびりした今日とはおさらば、わたしたちの冷たくやわらかな大口空けた基地へと道は続いている。着替え。既製品の運送の手伝い。製造の秘密へのささやかな参与。その場所は本当は時間の外に自分を投げ出すような気楽さを溜め込んでいて、やたら広いテーブルを囲う人との距離も、埋め立てられた時間の上で交信するにはちょうど良かった。
進まない時計の針になって、毛糸玉で遊ぶ猫のようなわたしたち。誰の眼にも、映っているのは毛糸玉だけ、という幻想を膨らませてみる。その毛糸で全てをわたしの色に染めてしまえたら、そのときにはわたしは立ち上がるだろうか。わたしは、何にも似つかないわたしの景色が、他ならないこのわたしを支配することをいつだって渇望していたのだろう。誰かの愛が、他の人には決して信じられないほど近くにあるという現実が、わたしを取り囲む全てを染め上げてしまえば良い。誰のことも考えず、景色の中でわたしはわたしの愛になりたい。わたしは消えたかった。
箱に詰められて息をすること、運ばれるのではなく常に運ぶ側でいること。全身を水滴として巡る湿気が濃霧と化して、箱の箍が緩むような大雨の午後だった。来たときにはまだ安らぎを覚えられる涼しさがところどころで太陽光に張り合っていて、ずっと遠い地の落とし物を風が運んで来るような静謐さがあった。向かいの建物を超えて、道路を何本か先へ行った辺りで大きな雷の音がして、そのすぐ後にいきなり豪雨が押し寄せた。工場の中の人たちは特段気にする素振りもなかったが、翠雨たちは外に製品の入った蓋のないコンテナが積まれたままになっていることを思い出して、それをひとまず中に入れることにした。何の合図もなしに、わたしたちは雨の中と人気の失せた入口を往復して、テーブルの横にコンテナを並べていった。そこに新しく壁を建設するかのように、奥から手前へ向かう列の上にまた箱を並べ続ける。わたしたちは見事にずぶ濡れになって、あと少しで全部を運び終えるという頃、あの人は水に濡れていない静かな足音を立てて奥の方から現われた。残り少ないコンテナが最上段に持ち上げられて積まれていく作業をあの人はしばらくの間眺めていた。わたしはその視線に気が付きながら、わたしのコンテナを持って中に入り、疲弊した手で側面に力を込めてそれを持ち上げた。すると、あの人はわたしの後ろに立って、「最近妙に男らしくなっているな」と言い、わたしに触れたのだった。
「助かる。今日は女の子ばかりだから」
そう言い捨てて、シャッターの外へ出ると小走りで事務所へ向かい、長靴と傘を装備して戻って来ると、自社トラックの運転席に滑り込んで、激しさを増す雨を分けて走り去って行った。そこに入るな。お前なんかが雨に濡れるな。そう思うことが出来たのも瞬間のことで、たちまち全てのコンテナの回収が終わり、雨は音も変えずに降り続け、戻って来たみんなの顎からは奔流のように雨水が滴り、様子を見にやって来た社員の手によって一度シャッターは閉められることになった。外に繋がる音をだんだん小さく抹消しながらがたがたと響きを立ててシャッターが降りる間、わたしは一本の木に頼りなく実る、たった一個のりんごをずっとひたすらに見詰めていた。
3
その日からだった。わたしにはどんな声も水で流し込まれるように届いたが、それはそのままわたしの周りで乾いた地面に吸収されるだけだった。声が聞こえていることを示す身振りはたまにしておくものの、その色を思い出して何かの返事をするのは骨の折れることだった。椅子から立ち上がるのを少しゆっくりにした。別にそうしたかった訳じゃない。わたしたちは同質な安らぎの協力者だったのに、その協調性があまりに面倒で退屈でわたしに縁遠いもののように思われた。わたしが元々抱えていた病気と仮病の境が分からなくなって、常に不調の演技をしなくてはならなくなった。
だが、一番演技を必要としたのは重い荷物を持ち上げるときだった。トラックの積み荷を降ろすとき、踏み台の横には次の人がもう控えていて、わたしが荷物を運ぶ人として認められるのは一瞬のことに過ぎなかった。それでも、わたしはそれが重くてなかなか持っていられないという態度をしてみざるを得なかった。なんであの人はわたしにあんなことを言ったのだろう。仕事でやっているだけだった、必要があったから、みんなと同じことをしているだけだった。みんなで雨に濡れた。それなのに、あなたには何が見えたの? そう考えると、やるせなさで力が抜けるのは本当だった。
わたしは、あなたの苦しみを見つけていたのに。あなたは、わたしたちをいつでも群れとしてしか見ていなかった。あなたがうまく近付けないでいる白鳥の群れの、際立って素っ気ない一羽。それがわたしだったのだろう。そんなのは馬鹿げている。ずっと馬鹿げていた。わたしの足首に付いて固まった泥を払うような、そんな投げやりの気持ちがなかったとも言えない。
近付くと高鳴る心臓のような、薄い皮を溶かしつつ照り輝いているりんごの実を横目に、バンボディのトラックの荷台に乗ってコンテナを持ち上げ、ドアの先の踏み台に足を掛けたときだった。順番を待つ人の頭はもうすぐ下に迫っていた。雲一つない高い空の下に、無人の自社トラックが一台止まっていた。重い、と思って視線を荷物から逸らしてみると、その瞬間にわたしは全てのものに押し潰されたような、空に沈められたような気がして、思い切り足を滑らせて転落した。
「一瞬で何も見えなくなって、ああ、やっぱりねって思った。ここは僕の居場所じゃなかったんだ。雨さんから離れて、一人で帰って来て、僕も自分の道を探そうと決めていた。少しくらい傷ついたって、先へ進むためなら構わない。それは、僕が変わるために必要な痛みだと思っていたから」
翡吹は一階のベランダで窓際のベンチに腰掛けて、ご飯が出来るのを待ちながら詞嘴に語った。詞嘴が晩ご飯を一緒に食べるのはこの夏で二度目のことだった。脚は治り切らないものの、リハビリの甲斐あって難なく歩けるようになっていた翡吹と詞嘴は、料理を手伝おうと申し出たが、随分と機嫌の良かった渧霞はそれを断った。
「わたしたち、自分が嫌なものにならないために変わっていくのよ。それはいつだって苦しいし、救いも未来もないように思えることの繰り返しかもしれない。けれど、あなたが嫌なものに傷つけられるのが必要なときなんて一瞬たりともないわ」
詞嘴は人参色の夕日に燃えるような眼をわたしに向けて言った。
「でも、わたし、嫌なものになっていないだろうかってときどき不安になる。わたしは、誰かがどんな状態にあるときでも縋り付けるような人でありたいと思ってる。でも、わたしに出来ることは限られているし、だから近付くことすら止めてしまうことがある」詞嘴は俯いて、ベンチに二粒の涙を落した。
「あなたはいつも全く同じ人間ではないのだから、怖いのは当然だよ。人のことを深く知るのも、人に何かを与えるのも」翡吹は鉄柵の向こうから射し込む光に顔を曝されながら言葉を継いだ。「こうやって話をすると、僕も僕になっていく気がする。そうしたら、まるで救いを求めているみたいになる。その場で何かを見つけようとしているみたいに。でも、救われてしまえばきっと自分が見えなくなるから、僕はいつも救いを恐れてもいた。僕を失うことが僕であると思えるような場所にしか僕は祈らなかった」
喋り過ぎてしまった、と翡吹はどんよりした気持ちに襲われながら、詞嘴の瞼に視線をやった。詞嘴は少し考え込んで、強く目を閉じた。厨房で皿を取り出している音が聞こえて来る。
「わたし、どうしても、」と言って厨房の音に耳を澄ませる。「むかむかする感情がある。わたし、渧霞の顔を見てすごく安心した。でもその安心はわたしの中でわたしのいたるところに切りつけるようだった」
詞嘴の眼は赤みに滲んでいた。
「渧霞もあなたと同じだと思う? 自分を失うことで何かになろうとしているのかしら」
「きっと半分はそう。でももう半分は、全く違う渧霞だけの大切なものだよ」
詞嘴はベンチの背もたれを見ながら口を噤んだ。詞嘴の落とした涙は、細かな光の粒子となって風に吹かれていくようだった。あたたかな空気のうちに、陽の沈んでゆく林の奥から、蒼い夜へと一途に走る使者たちがこちらに向かって来る気配が轟く。それを翡吹は今初めて眼に入れた。
夜とはこんなにも気配に満ちたものだっただろうか。翡吹は自分の脚に視線を落とした。きっとわたしを治すのはこの夜たちなのだ。どこかにいる誰かの気配なのだ。どこかで、息をしている全ての人の気配なのだ。それがあなたの手なら、何もかもが単純だった。でも、ベンチが吸収するのはあなたの涙だけで、それも僕の胸の中ではずっと消えない染みとして残るのだ。立ち上がれば疼く染みになって、わたしの中の誰にも見せられないものが増える。わたしの足元に模様が浮かぶ。
「渧霞だけの大切なものは、眩くてね。それなのに、氷砂糖みたいな冷たい眼差しも持っているんだ。溶け出しそうなものを固める眼だよ。ちゃんと形にしたいといつも望んでいる眼」
「渧霞が大きな形を描いているのは分かるわ。毎日、描いては消すことを繰り返してる。でもわたしは、それを渧霞が望んでいても、その大きな形に渧霞がいつかなってしまうことが嫌。もっと昔の渧霞を、遠い場所に連れ出してあげたかったと思うの。今のわたしなら、そう思うことが出来る」
「今の渧霞はどこにも行きたがらないって思うの?」
「分からない。行きたいと思うかもしれない。けれど、それを打ち消すくらい強い気持ちが渧霞にはあるわ」そう言ってから、詞嘴は俯きながら首を振った。「ううん、打ち消すんじゃない。どこかに行きたい気持ち、どこかに希望があるって信じる気持ちを守るために、渧霞は自分の決めた形をなぞり直すのよ」
詞嘴はいちだんと声を潜めて言った。
「わたしたちが好きな場所へ行くために、渧霞はここに残るのよ。一番分かりやすい場所にいようとしてくれている。それなのに、渧霞がわたしたちから見えない場所に向かっていくような気がして心がざわめくの。渧霞はここにいるのに、いつか渧霞を見失うかもしれないって」
そのとき、奥の鉄柵のところから、響映が黒色のブラウスの背中から広がる袖を翻してこちらへ歩いて来た。ガラスのランプのようなシルエットは風を含んで後ろに流れ、その分だけ西日を受けた顔が煌々と光るように見える。
鈍く小さな靴音を立てながら、響映は窓の方に近付いて来る。ベンチの横に差し掛かったとき、響映は詞嘴と翡吹に眼を向けて、怯えるでも、戸惑うでもなく、それでもほんの少しの親しみが籠もった表情を一瞬見せた。西日の国の最後の一人が去っていくようだった。窓を開けると、厨房の音が大きくなり、遠くからリビングの喧騒も聞こえて来た。響映がベランダを好きな理由の一つが、翡吹にはこのとき初めて分かった。背中の中心から左右に広がる、ギャザーの沢山集まった袖。後ろ手に窓が閉められると、一切の物音を林が吸収し尽くしたかのような静寂が広がった。
「渧霞が優しい眼で愛を注ぎ続けたものは、ああして固まっていくんだね」
翡吹は振り返ることのない後姿を思い出しながら言った。
「渧霞は、大切なものを全部抱えて、何にも落としすらしないで、毎日どこかへ渡っていくかもしれない。でも、僕たちならきっとどこでも見つけられる」
食器がテーブルに運ばれ始めている。その音は忘れてしまった過去の中を獣が鼻先で探索するように遠くから届いていた。僕ではないものが、何かを見つけ出す予感を勝手に裏切り続けているような安心とさみしさがあった。けれど、その安心を内側から破壊するような衝動が、すぐ近くで機を窺っているのも僕は感じる。僕はその獣を守ってやりたかった。壊すのではなくて、今は見つけられないままで良いから、僕の中のずっと遠いところまで飛ばしてやりたかった。掘り当てられない救いは、どこか遠い宇宙の涯てでいつでも目まぐるしく回転を続けていれば良い。僕が呑み込んだ全てが僕の中に鬱積していくのなら、その全てを思うとおりに自分のものにして、どんな風にでも変わっていくことが出来る筈だった。
「だって僕らは一緒に梯子を登っていく天使同士なのだから。僕はいつでも渧霞のこと支えてあげたいよ。渧霞が行きたいところへ行くのを、僕は見ていたいし、その進み方に驚きも羨みもするよ。生きていて良いんだと思う。この家に戻って来てから、僕はまたそんな気持ちになった」
詞嘴は名残を惜しむようにベンチの表面に手のひらを当てながら、眠ったみたいに大きく静かな呼吸をしていた。僕はその横顔を一瞬見遣って、世界の涯ての光だと思った。
「そうかもしれない。わたし、自分一人が先に外へ出てしまったから、ずっとこの場所が恋しくて、あんまりさみしいから、見ないようにしていた。それであなたや渧霞や雨さんのことを心の中で生かすようにして、いつも抱きしめて眠った。それがわたしの愛し方だった」
詞嘴は翡吹の肩に肩をもたせかけ、まっすぐ林を見詰めながら言った。その肩の僅かな震えは、微動だにしないように見える木々の風景と繋がってここにあるのだと翡吹は感じた。ずっと昔から見ていた景色と、過去に巣をかけるのを止めて人だけを愛するようになった今の僕が、縺れ合って奇跡みたいに一体になっていた。
「あなたたちの存在がわたしを生かしていたのと同じように、あなたたちに向ける愛が、わたしを複雑なわたしでいさせてくれた。わたしはその愛でわたしを生きるので手一杯だった。あなたたちからの愛を失うことは怖かったけれど、そんなことは絶対にないってかたく信じてもいて。そんなだったから、あなたや渧霞に近付くことが不安で堪らなかったの」
詞嘴はベンチに置いた右手を滑らせて、後ろのわたしの手に重ねた。
「どうすれば近くにいられるんだろうって毎日考えていたわ。でも、あなたと雨さんは別の国に行ってしまった。雨さんがわたしの家に来て、強くわたしを抱きしめてくれた日から、わたし、本当は向かう場所がさっぱり分からなくなってしまった。それで、渧霞の心に自分を重ね合わせて、辛いときはいつもそうして泣いていた」
「二度目にあなたに出逢ったとき、僕もあなたのことを見ないようにしていたことを思い出した」と翡吹は言った。「あなたは別のところに行ってからも紛れもなくあなたのままで、それなのに違う場所で生きていくあなたが、見たことのない色で輝いていて、さみしかったから目を逸らしたんだ。けれどあの日、僕はその色彩の奥で、あなただけの色が滲んで溶け出しながらそこにあるのを見たんだ」
それは全てのものに溶け出していく色でありながら、全てを吹き飛ばしてしまう力も秘めているように思えたのだ。いつでも出逢い直すことの出来る確かなもの、わたしの怯えや揺らぎがまるでないかのように、わたしが信じられるわたしに届くもの。わたしは否定から逃れられないのだとしても、否定を大事にしたい気持ちがどこかにあるのだとしても、あなたの眼差しは、わたしを、何も否定しなくて良いところに匿うようだった。
「あなたも伝わらない気持ちを抱えていたんだと思って、伝わらない気持ちをこんなに大事にして生きられるのだと思って、すごく嬉しくなった」
「わたしも、あなたが大切なものを抱えながら、あなたのままでいるのがよく見えたわ。会いに行って良かった。祈って良かった」
僕は明日には別の模様の上を歩いていく。そうやって常に何かから抜け出していって、脚が治ったらこの場所も出て行かなくてはいけない。けれど、どこに行こうとわたしの心は血だらけだ。人を信じられなくて、人を否定して、暗闇に蹲って記憶の写真で顔を塞ぐだろう。それでも、どんな傷を負い、自分だけのどんな苦しみに突き落とされてすら、僕には守るものがある。分かっていた。分かっていたけれど、あまりに苦しかったのだ。僕が僕のままでいながら苦しみ悩んでいるという事実が僕には辛かった。僕のままでいるのなら、もっと簡単に道を信じられると思った。もっと素直に心を見せられる筈だと思った。僕は僕でないものに脅かされる底なしの痛みの中に巣をかけようと藻掻きながら、その泡で僕を誰にも見つからないように隠していたのかもしれない。何を隠そうと、僕はそこにしかいなかったし、僕が守るものもそこにしかなかったのに。
広いベランダの石畳は、エイの背のように、歴史の中を飛びながら生きている。眠った世界は反転して夢を見る。時計の針がもう一度上を指してしまわぬ間に。
「僕たち、この先どこへ進んで行ったって、見失わないよ、近付くだけだよ。何も減らない、増えるだけだよ。僕は僕の梯子を登りながら、みんなのこと、考えて考えて大切にしたい」
翡吹が言うと、詞嘴は勢い良くその腕を取って立ち上がった。わたしの耳元で蛍袋のイヤリングが揺れる。
「またどこへでも会いに行くわ! 大切な人たちに、わたしはいつでも会いたい。わたしは祈りたいの。ずっと祈るわ。わたしの願いのために、あなたたちのために」
詞嘴はわたしの手を強く握ったまま、わたしたちは窓に向かった。詞嘴が窓を開ける瞬間、わたしも手の中のその手を強く握りしめた。ドレスの表面を埋め尽くすように縫い付けられたスパンコールが、星屑のきらめきのように視界を覆った。
(エピグラフの引用は関口涼子訳『離れがたき二人』(早川書房、二〇二一)一五九頁による)
天使の梯子 天池 @say_ware_michael
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