末吉じいさんと歳三じいさん

ShiotoSato

追いつけないくらいの距離

「はぁ…ひぃ……」


 走る。


「………」


走る。ひたすら走る。


「……す、末吉すえきち。少しは手加減しろ…」


夜の街を駆ける一匹と一人の影。

月明りに照らされ、影が静かに揺らめく。


末吉と呼ばれたその柴犬は、どこかを目掛けて一心不乱に走り続けていた。


「お、老いぼれを置いてくな……」


その後に続くのは一人の老人…名前は歳三としぞうという。


最近彼は末吉の散歩――実際は徘徊と言ったほうが正しいかもしれない――に、悩まされていた。


末吉はボケてしまったのだ。


「まさか…わしより先にお前がボケるとは」


心の中で苦笑しつつも、歳三は末吉の後を追う。





――住宅街をいくつも通り抜け、公園の中に入った。


「おい、末吉、昨日もここ…通ったじゃろうが…」


生い茂る木々。使い古された遊具。鳥のフンが落とされたベンチ。


「へぇ…へぇ…」


老体に鞭打ち、尚も駆け巡る。

公園の時計にふと目をやると、針は午前3時半すぎを指し示していた。


(もうすぐ夜明けか……)


ひたすら、走り続ける。


歳三は確かに疲れていた。でも――


(ああ……)


木々の間に心地よい風が吹き込んで来て。

それが僅かに、歳三の心を癒やした。




――公園を出ると。


「……」


そこは、夜の隅田川だった。


「あぁ……懐かしいな」


歳三は足を止めようとするが――


「あ、こら、待て――末吉」


末吉の走りは老犬であることを感じさせない。

必死に追い掛けながら、歳三は息も絶え絶え…


「なぁ……末吉?」


ハァハァと息を切らしながら尋ねた。


「お前は…何を、そんなに急いでるのか…」


末吉は変わらず、一直線に駆け抜ける。


隅田川の中流。

黒く揺らめく水面は街明かりに照らされ、さながら灯篭流しのよう。


「……お前には、どんな景色が、見えてるんじゃ?」


歳三はというと――かつての景色に思いを馳せていた。




15年ほど前。

歳三が今より若かった頃。


彼の老後の楽しみを共有したのは、紛れもなくこの柴犬だった。


「末吉、行くぞ」


「ワンッ」


川沿いを、同じ速度で駆ける二人。

歩幅は違えど、同じ時間を共有した二人。


時には、他の犬と喧嘩をしたり。

時には、知らない道で迷子になったり。


そんな思い出が歳三にはあった。


でも時間は待ってはくれない。

――過ぎ去って行くばかりで。


腰は曲がり、息も上がるようになり。

歳三はかつてのように駆け回ることが出来なくなっていって。


昨年――彼の妻が亡くなり。


その悲しみを癒やしてくれた末吉も、すっかりボケてしまい。




「……」


人生とはこんなにも残酷なものなのか。

ここに来て、歳三は辛い現実に直面していた。


「…す、末吉」


しゃがれ声で呼び掛ける。

今日はいつにも増して末吉が遠い。


「何でお前はそんな、必死に…」


走り続けるその姿を見ながら――ふと、歳三はおかしなこと考える。


昔は同じだった、走る速度。

今は、自分が置いてけぼりにされている。


…コイツは、迫っている"死"から逃げようとしているんじゃないか?


…つまり、わしなんかより先に死んでたまるかって思ってとるんじゃないか?


一度そう思うと、もう歳三にはそういう風にしか見えなくなって――


「うおおおぉっ――死んでたまるかぁっ!」


歳三は狂ったように、末吉の後を追い始めた。


「わしを、置いてくなぁぁっ…!」


身体の節々からパキッ、ポキッという音が鳴る。呼吸もおかしくなり――それでも、歳三は足を止めない。


午前4時半。

街路灯と、屋台の小さな明かりが灯る世界。


暖かな光に照らされながら一人の老人は駆ける。


「……」


ふと歳三が横を見ると、夜勤終わりだろうか――屋台の中からこちらに奇異の目を向けて来る、スーツ姿の人達が見えて。


(……これじゃわしが、ボケ老人じゃないか)


それでもまだ止まらない。


風を切り、猪突猛進。


ひたすら走る。


でも、どんどんと距離を離されていく。


「……」


ついに歳三は力尽き――。

その場にへたり込んだ。


「……末吉?」


視線の先――気付けば末吉もその足を止めて、こちらを窺っていた。


と、その時。


「あの…何か探し物ですか?」


後ろから声と足音が聞こえて来る。

歳三が振り返ると、先ほど見掛けたスーツ姿の人達が立っていた。


「え、ああ…」


その表情から歳三は気付く。

自分は――たぶん徘徊を疑われてるんだと。


「あ、その…わしは徘徊とかじゃなくて…」


「え?」


「ほら…あそこに、見えるでしょ?うちの犬…あれを追っ掛けていて…」


歳三は指差した。




「……」


けれど。

何故か返事が無く。


全員が張り詰めた表情をしていて――。


「……え?」


歳三の額を、冷や汗が伝う。


「いや……ほら、居ますでしょ?」


彼の目には確かに一匹の柴犬の姿が映っている。


「……」


しかし返事は無く…。


その反応が全てだった。

それでも歳三は。


「…正直に、教えてほしいんですが。あそこに――犬はおらんのですか?」


スーツ姿の一人に、そっと尋ねる。


「はい。少なくとも僕には…見えないです」


「……」


そっと歳三は視線を戻した。

その瞬間、遠くの末吉の姿が揺らめいて。


「あぁ――そうじゃった」


――ようやく思い出す。




「お前は今日……先に逝ったんじゃったな」


一昨日も、昨日も。

この時間に散歩をしていて。


今日も、ボケてしまったお前の為に散歩をするはずじゃった――歳三は静かに呟く。


「お前が見えてただなんて……ボケてるのはわしも同じじゃったか」


空を見上げる。

気付けば一筋の涙が頬を伝っていて。


それを、慌てて拭うと。


「――」


視界に飛び込んで来る――朝焼けの空。


涙で塞がっていて、気付かなかった。


「なあ、末吉?」


歳三の瞳に映る末吉の姿は、もう、消えかかっている。

けれど彼は構わず言った。


「すまんかった……置いてけぼりにするな、とか言って…」


遠くの末吉は、ただ、真っすぐ歳三を見つめるばかり。


「お前は死ぬことから逃げてたんじゃなくて……先に行ってたんじゃな」


優しい風が頬を撫でる。


いつしか、遠くにあった末吉の姿は無くなっていた。

歳三は重い腰を上げ――


「でも、わしがお前に追いつけなかったということは――」


そして前を見据える。


「わしはまだ…死ねないということか?」


見渡せば、橙色の空。

いつしか歳三は泣き止んでいた。


追いつけないくらいの距離が離れていても、もう寂しくない。


「……心配せんでええ。まだ逝かんから」


淡く消えた幻に向かって、歳三は言った。


















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