2 ハッピィ・ドーナツ・ホール

 韮と子供たちをのせたトラックは都市から離れた農村を横切り、トタンで囲われた廃工場へと連れてきた。乗り継ぎを合わせた長時間の移動に、韮はまだカンボジアの国内にいるのか確証がなかった。翼をもつ天使の子供たちは、茫とした眠たげな表情を浮かべている。自分たちの置かれた境遇を理解した様子はない。韮のように繋がれているわけでもなく、ひとりが引っ張られるとそれにつられて他の子も列をなしてついて行く。親のあとに従う子鴨のように、子供たちは覚束ない足取りで工場へと吸い込まれていった。

「オリロ」

 韮は中国人に掴まれ、強引に背中を押される。

「ここはどこなんだ……水、みずをくれないか。昨日からなにも口にしてない」

「アルケ」

 疲労と乾きで朦朧とする頭で、韮は察した。彼らは自動的に決められた単語を発しているだけで、会話が成り立つほど日本語を理解していない。隙の多い日本人の観光客を狙った犯罪だと予想できた。

 廃工場の内部は小部屋に別れていて、石膏ボードの薄い壁で仕切られた空間には十数人ずつの子供たちが押し込められていた。汗と皮脂と老廃物の蒸れた独特の臭気。そこは衛生環境さえままならない、うら寂れた置屋街の雰囲気が煮詰められてあった。痩せこけた枯れ枝のような身体と、抜け落ちた灰色の羽毛。子供たちは仄暗い隅に押し込められて、影を揺らしている。

 黄ばんだ蛍光灯の瞬きに合わせて子供は身体をくゆらせる。韮は子供らの行為の正体に気が付いて怖気を催した。重なり合った蛆が腐肉に群がって蠢く波と広がる。

 10ドル。子供たちの手に握られた10ドルの紙幣。紙切れを握り締めた子供は、押し込められた倉庫のなかで他の子の身体を貪る。男女の見境なく、汗と垢を接着剤に肌を張り合わせ、擦り合い、浅い呼吸と唾液で渇きを埋める。

「複製された養殖の刺激ではが落ちてしまうのです。天使同士で交換した快感は、伝播するほど水の割合が増えて薄くなる。とても商品としては使えない。しかし、天使の交配は生産ラインの増設に繋がるので助かります。肉体は脆いので、強い刺激を与えると壊れてしまいますから、数の確保は重要な課題なのです」

 韮を迎えたのは端正なパンツスーツを着こなした女性。爪先まで整えられたキャリアの風格は、東南アジアの場末には不釣り合いだった。彼女の手には韮のパスポートが握られており、彼の拉致は偶然ではなかったことが示されていた。

「韮怜馬さん。本日はドーナツ工場の面接にお越しいただき、誠に感謝しております。私はカンボジア・ドーナツ工場、日本支部営業部門でコーディネーターを担当しております、田中と申します」

「ドーナツ工場? 置屋街の間違いだろう」

「ご覧ください。こちら、我が社の主力商品である『ハッピィ・ドーナツ』です。エンゼル・リングの名称を登録しようとしましたところ、指輪や某社の商品とニアミスしまして、あえなくハッピィに落ち着いたわけです。こういった商品はわかり易さとポップが重要ですから」

 彼らが再び倉庫の子供らに視線を戻すと、その頭には白金の光沢を宿した輪が浮かんでいた。それは頭から滲み出すように浮かび上がり実体を現す。翼と頭上の光輪。子供たちが本物の天使であることを証明する異形の姿。

 韮は事前に調べたカンボジアのマナーを思い出していた。子供の頭を不用意に撫でてはいけない、と。カンボジアでは頭に精霊が宿っていると考えられている。首の後ろに住まうアイヌの憑神、トゥレンカムイと類似した信仰かもしれないと納得していた。しかし、子供たちの頭に潜んでいたのは果たして神や守護霊であるのだろうか、と疑問を抱く。

 田中は分厚い耐熱手袋をはめた手で、光輪を掴んで引き抜く。束になった髪の毛が引き千切れる不快な音が響いて、天使の輪が持ち主の頭上を離れる。田中は光輪をふたつに割って、中身を確認する。

「気泡の粒が大きくて、生地が乾燥しています。香りも生臭さが勝ってしまう。これでは食用には適しません。ひどい粗悪品です」

 出来損ないの光輪を投げ捨てると、腹をすかせた子供らが群がる。ひとりが口にして、ドーナツの味を占める。すると我先にと隣の天使の頭上へ手を伸ばす。ほかの子らも浮かんだ光輪に気が付いた。次に起こるのは奪い合い。素手で焼き立ての光輪に触れ、焼き爛れた皮膚の匂いが倉庫に籠る。あまりの酷さに目を背けようとした韮だったが、訪れた天使たちの変化に釘付けにされた。

「生産ラインの増設――天使の自家養殖です。こればかりは何度みても薄気味悪いものですね」

 韮の記憶は幼少期に観察した、蝉の羽化をなぞっていた。

 痩せこけ、骨の浮き出た背が盛り上がる。吹き出物が内容物を吐瀉するように、指が現れ、腕が生える。水面から息を求めて顔を出す勢いで、新しい腕は背中を抑えつけ身体を引っ張り上げる。天使の背から、もうひとりの新しい天使が生まれ落ちた。ひとりはふたりに分裂し、そのまま互いに情を催してを再開する。

 羽が飛び散り、光輪の食べ残しが薄暗い倉庫を照らし出す。

「こいつらは、なんだよ……」

「天使、ですよ。近年東南アジアのスラム街を中心に発生しています。突然変異や遺伝子異常を唱える者もおりますが、先ほどの光景をみればお分かりの通り。そのようなぬるい変化ではありません。我が社では天使が人間に托卵して産ませた生命、というのが公式見解です」

 田中は韮を先導して工場の奥へと進んでいく。韮はそこで職員たちの異様な作業を目撃する。

「テン、ダラー」

 それは確かに売春のようであった。

 場違いに身形の良いアジア人の男が、天使のひとりに10ドル紙幣を握らせる。個室にはこれから行われる奉仕の道具が整えられていた。リクライニングのチェアと湯気の立つ盥、ステンレスのカートに乗せられた銀の鋏に剃刀。使い込まれた道具は、長年染みこんだ使い手の油で黒く艶を放っていた。韮の目には美容室の個室にしか映らない。子供は髪を剃り落とされ、蒸されたタオルで頭皮を直に温められる。毛穴と汗腺が開き切ったところで男はピンセットを駆使して毛根を引き抜いた穴に、鳥の羽毛を一本ずつ移植していく。子供は刺激を受ける度に身体を小さく震わせる。

 隣の個室では料理が行われていた。ライブクッキングといわれるもので、客の目の前で調理する様子を見物させる。客はひとりの天使で、手には同様に10ドル紙幣が握りつぶされている。そして、調理されている素材もまた羽の生えた天使だった。韮が目にしたのは、首を失って逆さ吊りで血抜きされている姿。床に転がされた虚ろな瞳と目線がぶつかった。

 小分けにされた部屋では多種多様の、常軌を逸したが行われていた。子供が詰め込まれた倉庫のほかは、どれも専用の個室となっていた。買い手は大抵裕福そうな中国人か白人で、中には日本人と思しき姿もあった。男のこともあれば、女のこともあった。どの部屋も共通して、子供に10ドルを握らせることで売買の契約が成立するらしい。工場の奥は湿った呼吸が充満する。甘く薄暗い興奮が韮の耳を塞いで放さない。

 でひとしきり満足し終わると、子供の頭に光輪が現れる。光輪の現れ天使となった子供は、次のセクションへと送り込まれる。

「なぜ、10ドルを」

「条件付けです。彼らは天使ではありますが、以前は貧困層の子供として生活していました。その頃身に着けた習慣を利用させてもらっています。彼らは順番を記憶しているのです。

 彼らはお金で衣食住を、生に直結した幸福を得ていました。幸福とは常に紙幣のあとからやって来るもの。彼らは紙幣を得ると条件反射で幸福感が得られると思い込んでしまう。そのあとにどのような刺激が与えられるとしても、彼らのなかで幸福だと認定されてしまえば、それは幸福に違いない。なぜならば、彼らは天使。人間に幸せを与える存在。天使を於いてほかに、だれが人類にとっての幸福を決めつけられましょうか」

 個室区画を抜けると棟が変わる。奥の棟ではベルトコンベアに立ち並ぶ作業員と、流れてくる天使たち。天使が作業員の前にくると、光輪を剥がされ別のラインへと流される。子供たちは無気力に項垂れ、手荒いの内容を想起させる痕跡を残すものが少なくない。ベルトコンベアの流路を辿って行くと、光輪はマシンを通して一つずつパッキングされる。ポップな字体のロゴが踊るパッケージ。コンビニに陳列されるような彼にも見慣れた形状になり、最期は段ボールに落ちていく。

「なにをさせたいんだ。手の込んだ誘拐までして」

 身分証を握られ、黒い商売の内容を明かされ、容易に逃げられるはずがない。職員の腰に吊り下げられたホルスターが飾りでないことは韮にも分かった。脅しでさえなく、すでに韮が抵抗できる余地が残されていない。従わなかった先の想像をする余裕はなかった。

「我が社では現在、中国、欧州にて展開しておりますが、この度日本での販路開拓が決定いたしまして、営業・広報を行ってくださる追加人員を確保したく、この度は韮さんにお声がけさせていただいた次第でございます。やはり、若い層へのアプローチを行いたいとの意向で、ターゲットと同年代の韮さんは適任だと考えました」

「まさか、ワゴン車で移動販売しろとでも?」

「そちらがご希望ならば、そのように手配しますが。当方といたしましては、まずは研修を通して我が社の理念に賛同して頂きたいのです。資金集めはあくまで事業拡大のために必要な手段であって、利益を上げることが目的ではありません。我々の根本は慈善活動なのです」

「いるらしい。自らの異常な性癖を満たす行為を正当化する言い訳として、慈善活動と称する輩が。かわいそうな子供たちを救ってやっているんだ、と大真面目な顔で」

 韮は個室で行われたプレイの数々に、肌を震わせた。健全に生きるならば覚えてはならない、暗い暗い興奮だ。鬱屈とした加虐趣味。例えそれが異形の天使であたっとしても、姿形はひとのそれ。ゲームで人型のデータを撃破して快感を得ることとはまるで違う。

「重大な誤解が二点、あります。まずは弊社の救済対象に彼ら天使は含まれていません。彼らは私たち人間を救う存在であって、人間に救われるために遣わされたわけではない。そしてもう一点、慈悲は実効的な手段をもって与えられます。具体性を欠いた理想論ではない」

 田中はパッケージに入ったドーナツを掲げる。

「天使の光輪は一種の記録・再生装置なのです。彼らは自らの肉体で体感した幸福を、このディスク状の記録媒体に転写する。光輪は経口摂取で人間の脳内に幸福を再生します。とても美味しいらしいですよ、なんせ幸福の味ですから」

 韮の手に彼の財布が返される。中には両替したドル紙幣が詰まっている。視界の端には彼に警戒の視線をむける職員。はじめから選択肢は用意されていない。

「幸福にも様々な味が必要です。ユーザーは常に新しい刺激フレイバを求めるもの。まずは研修と称しまして、彼ら天使に幸福を与えて、ドーナツの製造作業を体験してみてください。きっと、お気に召しますよ」

 韮の服の裾を小さな手が引っ張る。翼をもつ少女の眼は、茫洋とした奈落がすり鉢状に墜落していく。ひとの救いには暗すぎる、と韮の足は竦んだ。これほど空恐ろしい無垢があろうか。苦痛も、恐怖も彼らの心を揺らさない。欲しているのは即物的な刺激と、現金な救い。それが社会の増刷した妄想だったとしても、彼らが気付くことはない。

「テン、ダラー」

 少女は両手を椀にして、施しを乞う。

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