天使墜落(私)刑

志村麦穂

1 ゼンラロスト・イン・トウナンエイジア

 韮怜馬にられいまは雨期特有の激しいスコールに打たれていた。遺跡の石畳に跳ね返り、息苦しい水煙が顔を覆った。韮はまったくの混乱と不安でパニックになっていた胸中を、諦めによってすっかり洗い流していった。なぜ、という疑問について答えを見いだす徒労に比べたら、肌を叩く雨粒の叱責などプノンペンの置屋で受けた質の悪いと変わらなかった。

 彼は全裸だった。彼は身ひとつで土に突っ伏していた。

 口から入る泥水が東南アジアの洗礼である腹痛を思い出させたが、それにも億劫さが上回った。入国して以来、肌に密着するようだった熱気、田舎の畦道と夜明け前の繁華街の側溝を掛け合わせた不快な匂いの湿気。それらから一時でも解放されることに喜びを感じてさえいた。

 バイトで貯めた資金と奨学金をやりくりして、人生経験という名の海外旅行へと踏み出した大学二年の夏。タイで熱気と水質に挨拶を交わし、独特な人いきれに肌を慣らしてカンボジアへ。底の浅い武勇伝と男らしい話題のために風俗を覗き、旅行の体裁を整えるために遺跡を巡って帰国する予定だった。その最後に訪れたアンコールワットでのこと。プノンペンでトゥクトゥクのドライバーに紹介された格安の現地ガイドを雇ってすっかり観光気分に乗せられていた。寺院では他の観光客も多くみられ、日本語を話すグループもいてどことなく懐かしい気分にさえなっていた。

 なぜ、という疑問にあえて答えを出すとするなら、油断だった。

 カメラで視界を塞いで、現地ガイドの姿が見当たらないと思った時には遅かった。紹介されたガイドが資格を持たぬモグリの野良ガイドであったことは明白だった。慌てて連絡しようと伸ばしたポケットにスマホがない。バックパックを探るうちに財布の不在を。挙動不審な韮に声をかけてくれた親切な現地人はスリグループの一員で、人気のない所に連れ込まれた挙句、みぐるみを剥がされ捨てられた。

 連絡手段も、身分を証明するパスポートもない。ポケットで丸まっていた10ドル札さえ失った。

 勉強になったと笑うしかなかったが、その気力さえ湧いてこない。笑い話で済ませるには、五体満足で日本に帰国する必要があったが、韮はその手段を断たれていた。

 その日、韮の運は完全に尽きていたと断言できる。

 ひとしきりスコールのもとで虚無を味わったあと、なんとかマーケットまで辿り着き助けを求めるも、警察を呼ばれてそのまま連行。必死で英語で弁明を試みるも、身元を証明するものがない。

「アイム、ツーリスト! ジャパニーズ! マイバゲッジ、ワズ、ストールン!」

 その後もカタコトの中学英語を駆使して声を張り上げたが相手にされず。現地警察のクメール語はまるで理解できず、そのうちに牢屋に入れられる始末。なんの哀れみか、すりきれた服だけは与えられて全裸からは脱することができた。一歩前進と前向きに捉えようと努力したが、明らかに状況は悪い方へと傾いていた。

 韮は虫の這う牢屋で一晩を明かした。もはや抵抗も燃え尽き、連絡が取れないことで心配した学友かバイト先が異変に気付くのを待つしかなかった。他人任せの希望は、雲間の星明かりのように儚く遠い。イスラム過激派組織に人質にされたひとの心細さへ想いを馳せるぐらいしかやることがない夜だった。

 目を閉じると大学の食堂で、サークルの先輩に旅行の思い出を語っている自分がいて、机にはワンコインのジャンボカツカレー。目を開けると太った鼠が横切る。高校生や大学入学したての頃には無気力で、いつ死んでもいいような気がしていた韮だったが、こんな場所では死にきれないと噛み締める。日本では死に場所を選べる余裕があったのだと気付かされて涙を流した。

 翌朝、靴先で転がされるという手荒な扱いで目覚めた韮。なすがまま腕を掴まれたかと思うと、手錠ではなく荒い縄で手首を縛られる。カモン、カモン、と客引きのような呼びかけでセダンに押し込まれたかと思ったら、一時間ほど走るとまた別の車に乗せ換えられる。はじめはクメール語を話していたカンボジア人ドライバーも、三度目にトラックへと変わったときには中国語を口にしていた。誘拐や身代金、人身売買といった単語が脳内を駆け巡り、疲れによって押し流されていった。

「ノレ」

 荷台を顎で示した中国人が日本語でしゃべったとき、助けを求めることは不可能だと明確に突きつけられる。韮はようやく自分の人生を完全にふいにした実感を得るに至った。逃げ出すことの非現実さは、薄っぺらい画面越しに映像を眺めているような他人事の浮遊感があった。彼はもう泣いたり笑ったりはしない。生きるための従順ではない。諦めでもない。もう、どうでもいいという白けた気分が彼の思考と感情を麻痺させた。

 幌のついたトラックの荷台には、韮と似たり寄ったりの人間が詰められているようにみえた。カンボジア人の十歳前後の子供たち。何日も身体を洗っていないのが、脂と埃で絡まった頭髪でわかる。放置された生ごみの腐乱臭が漂い、具合の悪さがみてとれる。かわいそうに、などと乾いた同情を唇に乗せようとした。

「天使?」

 韮は驚きで目を見張る。

 少年少女には翼があった。薄汚れた不揃いな羽根と土気色の皮。肩甲骨の間、脊柱起立筋を裂いて、もう二本の腕が張り出してきたように。それは蛹の羽化を思わせ、子供の背から別の生命体が這い出ようとする場面を幻視させた。まるでB級映画の不出来なクリーチャー。韮は乗り合わせた子供たちを前に息を詰めた。

「ハロォ、ハロォ」

 ひとりの羽のある少女が韮の服を引っ張る。あやふやな英語で話しかけ、近くに来るよう促す。そのまま彼の手を握って誘導する。自分の身体へと。胸や腹、尻を触らせると片方の手を差し出す。もう片方は自分の身体に当てさせたまま。

「テン、ダラー」

 天使モドキは繰り返す。

「テン、ダラー」

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