夜の徘徊

たけもとピアニスト

今日会う人たちは、きっと今日これっきりだ

 二年半交際し、一年の同棲生活を経た毅との突然の別れでやけになった

私がとった行動は、Uver Eatsを多用し暴飲暴食の日々を過ごすことだった。

もともと無いに等しかった貯蓄が目減りし我に返った時には、

次の給料日までに使える持ち金が六百円になっていた。


学生時代音楽に青春を捧げ大学新卒の貴重なカードを棒に振った私は、

月額四万二千円(水道光熱費別)のボロアパートに住んでいる。

ボロアパートといっても最寄りの駅の大国町は徒歩十分圏内だし、

電車一本で梅田までいける。壁が暖簾と同じくらいの防音機能しかないんじゃないかと思うほど薄い以外、私はこの自分の城を気に入っていた。


「だるい。眠い。うざい。」


そんな誰に文句も言わせない私の城も、

一年という短くない期間であの男の記憶が染みついてしまった。

特に、こんな山道付近にあるラブホテルよりも条件の悪いであろう六畳一間の空間で不貞行為に勤しんでいたことを思うと、降りていったはずの頭の血が湧き上がってきて畳に煙草の火を押し付けたくなってしまったのだから悲劇である。

今の私のことを慰めてくれるのは不定期にベランダにやってくる野良猫のもち丸と、選別の際撮ってやった私の拳で砕いた毅の鼻っ柱画像だけだ。


『今日も休みですか?お店は問題なく回ってるから気にしないでいいけど、来月のシフト提出明日までだよ。』


店長からのLINE通知が光っている。

受信したのは今から六時間ほど前の十八時半ごろ。

やけくその生活が一週間も続くと、すっかり私の脳は昼夜逆転に順応してしまっていた。


「あー、くそ。ほんっと、暑いしジメジメだし、最悪。」


光熱費もバカにならない今、日中以外はエアコンをつけることも憚られる。

ベランダへと続く窓を全開にして寝そべっていると、ふと外から声が聞こえてきた。

たてかけてある時計に目をやると、時刻は深夜一時を回ろうとしていた。


大学生?それとも酔っ払い?

今や米兵の飼うピットブルのように猛犬状態となっている私の心には、

ぶつぶつと聞こえてくるその声さえも騒音として受け取った。

こんな時に大声で怒鳴り散らせたらどれだけよかったかと思ったが、

不健康で細い自分の腕が視界に入ると、そんな気も失せた。

出来ることといえば、狭い部屋の中でのそのそと起き上がって窓に近づき、声の主がどんな奴か拝むことくらいである。


ひょいと頭だけ出してそっと下を見ると、街頭の下でしゃがみこんでいる一人の人影が目に留まった。何かに向かってぶつぶつと話しかけているその男の念仏だか呪術だかわからない言葉を聞きとろうと、私はもう半歩身を乗り出した。


「…で、どちらかってぇと日本橋よりも芝のほうが近い。朝早く起きて、河岸で魚を仕入れてほうぼう商って歩いて、昼飯時分になるってぇと、飯屋に飛びこんで…飛びこんで、えっと…おまんまを食べる。」


どうやら男は携帯に向かってひたすらに念仏を唱えているようだった。

ちょうど今頃お盆の時期になるとよく祖父母の家にお坊さんがやってきたものだが、

その時にお坊さんの唱えていたお経は何一つ理解できなかった。

それだから周りを盗み見てみると、父も母も祖母も、神妙な顔をして両目を瞑り、

まるで聞き入るかのように頷いたり手を合わせたり、自分も唱えてみたり。

これはきっと自分が子供だから理解できないだけで、大人になればきっと

みんなと同じように理解が出来るのだろうと漠然と思っていたが、

なるほどやっぱり私も大人になったのだなと感心する。

男が何を話しているのか、文脈は理解できぬとも意味は理解できたからだ。


「お姉さん、もう一杯おくれ!」


心ばかりに声を張って男がそういった。

ふたつの意味でぎくりとして、私は腰を明後日の方向に捩じってしまった。

ひとつは自分がのぞき見していることを気づかれたのではという焦り、

もうひとつは、男が唱えていたのは念仏でもなんでもなかったのかい!という

「ずっこけ」である。


「何してんのあの人…台本でも読んでる?」


そうして注意深く聞いていると、

男が何やら物語を一人芝居しているのだと気が付いた。

見に行ったことも聞いたこともないけれど、舞台の練習でもしているのだろうか。

だとしたら珍妙な舞台である。


「…よし、よし!これで冒頭部分は完璧だ。明日の高座はぜってぇ面白いもんになるぞぉ、あとは帰って、カミさんと熊の掛け合いを仕上げよう。」


一人で勝手に納得した男は、そのままスキップして姿を消していった。

何を言っているのかさっぱりだったので、私は手探りで携帯をつかみ取って

今聞いたうろ覚えの単語を足し合わせて検索にかけた。


「芝浜…何これ、落語だったの?じゃあ、あの人落語家?」


というより見習いだったのだろうか。

テレビで目にする名前は知らないけど顔は知っている落語家の人たちは

もっとしわくちゃのおじいちゃんだし、今の男は甘く見ても三十代に見えた。

師匠にみせる演目の練習でもしていたんだろうか。


「なんでこんなとこでやってたんだろ。…あ、もしかして私と一緒なのか。」


落語家見習いが満足に暮らせる住まいは、イメージだと暖簾とはいかずとも段ボールやガラス板一枚くらいの防音設備の家だろう。家の中で演目練習をしようものなら、座布団じゃなくて隣人からの怒号が飛んでくるに違いない。

…そもそも、落語って座布団を投げるんだったろうか?


答えの出ない意味のない思考をぐるぐると巡らせた後、

興味の対象はまたさっきの男に戻った。


あの人は深夜一時に街灯の下で落語の練習をする変わり者だったわけだが、

なかなかどうしてそんな変わり者に会ったのは私の人生でも初めてだった。

こんな時間にこの付近を徘徊しているということは、彼はこの近くに

住んでいると考えるのが普通だろう。

太陽が昇り車やSNSがやかましい昼と、どっぷり日が沈みセミや木々まで眠っている夜とは、街の姿はまるで違う様相を見せている。


「…ちょっと、散歩でもしようか。」


誰に許可をとるでもなく私は呟いて体を起こした。



***



 大通りに出ると車のライトが眩しく、

談笑するサラリーマンやカップルたちの声が耳に入ってくる。

私は何となく顔をしかめて、すぐに路地の方へと戻っていった。

別に神経質な質(たち)ではないが、今日はそういう気分ではなかった。


近所の小学校の隣を抜けていくと、

十字路の端でしゃがみこんでいる人影を見つけた。

ぎょっとして立ち止まりそうになったが、なんてことはない。

数十メートル先に面倒くさそうな男が立っているのが見えた。つまるところ痴話喧嘩である。


「やぁだぁ」と子供でも昨今こねないであろう駄々をこねている彼女は、

ろれつが回っていないところをみるにずいぶんとお酒を所望されたのだろう。


我を忘れるほどに飲酒をするほど愚かしいことはない。

ライブハウスの打ち上げで隣り合った酔っ払いと殴り合いになり頬骨を骨折してから、私はそういったことは一切卒業していた。


そんなカップルたちの横を通り過ぎるとき、ふと毅のことを思い出した。

彼と出会ったのもまたライブの帰り。

高校生で初めての路上ライブを敢行し、くたびれたおじさん一人立ち止まらなかったことに意気消沈していた中で、阪急梅田駅とヨドバシカメラを繋ぐ連絡橋の上で私たちは出会った。


同じく路上ライブに繰り出し惨敗していた彼らと、私たちはすぐに意気投合した。

あの頃は、今では求めても決して取り戻せないほどばっちりと

感受性のアンテナが三本たっていて、彼との出会いを運命だと思ったものだ。

世界がきらきらと万華鏡をのぞき込んだときのように鮮やかに見えて、

眩しくて目を覆いたくなるほどに未来への希望に満ちていた。


「子供の頃夢見た未来がこれって糞食らえよ、ほんと!」


たまらず小さく叫んだ。

犬を連れて歩いていた皺だらけのスーツを着たおじさんが、

びくっと体を震わせて恐る恐るこちらを見た。

絶滅危惧種の日本男児のように凛々しい顔をした日本犬の柴犬が、

「ピットブル・私」に対し臨戦態勢をとるように吠えてグルグルと喉を鳴らす。


一言「すみません」と言おうと思ったが、

何を気遣う必要があろうか今日は深夜の徘徊日である。

今日出会う人々も獣どもも、明日から顔を合わせることなんてないのだから

変に気を回す必要もあるまい。

なんだか自分が大きくなったような気分だった。



***



そのまましばらく歩いていくと、

欠伸交じりにふらふらと歩く三人組を見かけた。

歳は十代後半…どれだけ多く見積もっても二十歳くらいといったところだろうか。

背中にベースを背負っている少女が目に留まり、私の心臓はエンジンを吹かした。


「全然合わなかった。これじゃ学園祭間に合わないよ…

ベースも、なつよりも全然へたくそだし―――」

「そんなことないって。最初の頃よりミスも減ってきてるし、

初めて半年も経ってないのにゆっこスゴイ上手くなってるよ?」


「ホンマそれな!ゆっこ天才だと思うわ、マジで。アタシとか音程外しまくりだし、発声練習しないとマジでやばい。」


「でもぉ…本番まで時間ないし、夏休みに集まれる時間も、もう限られてるっていうか…」


「あと一ヶ月もあるんだもん、絶対大丈夫!ウチらの初舞台、ぜったいに成功させよう!最高にいい思い出になるって!ね、ちぃ?」


「それな~。てかおなか減らない?アタシラーメン食べたい。」


「え、やだ。この時間太るもん。」


「え~、二時以降は朝ごはん抜けばノーカンじゃない?」


漂う青春の香りにめまいがした。雑草とはいえバンドウーマンの私には、

目の前の彼女たちは蒼くみずみずしい果実そのものだ。


聞く限りだと「ゆっこ」はバンド初心者なのだろう。

必死に練習はしているが、経験者の二人と自分を比較して塞ぎ込んでしまう。

ただ、言葉の節々に承認欲求があり「そんなことないよ」待ちなのも、

私から言わせればこの上なく可愛いところだ。


「なつ」はさしずめ、バンドのリーダー的存在といったところだろう。

情緒不安定なゆっこを窘めつつ、バンドの空気をクリーンに保とうとしている。

こういうバランサーみたいな子って、絶対にどんなグループにも必要になるんだよなぁ。


そしておそらくほとんど何も考えておらず反射的に言葉を発しているであろう参に目のメンバーである「ちぃ」。

こういう子は純粋に「楽しいから」「趣味だから」で音楽をやっているし、

舞台の成功とか失敗とかをあんまり気にしない。そのくせ一番うまかったりする。


そういえば、最後にライブをしたのはもう半年以上前になるんだったかと、

ふと私は思い出した。これといった理由や確執があったわけではない。

だけど考えてみると、最近の私は毅にばかり時間を取られて

音楽活動に腰を入れられていなかったかもしれない。


あいつも、最初は音楽に情熱を持っていたくせに。

「メジャーデビュー」だとか「YouTubeでスカウト」だの言っていたが、

結局そのどれも実現はおろか動画撮影すら行われずに時は過ぎた。


それと比べれば、不安や焦燥感をはねのけて練習を行い、

こうして学園祭に向けて青春まっしぐらの彼女たちが、とても輝かしく見えた。


「あ、こんばんはー」


「ちぃ」がこちらに気づいて頭を下げた。

つられて、「なつ」と「ゆっこ」が小さく会釈する。


「こんばんは。」


耳はいいとして、唇のピアスは外してくるんだったと心の中で額を覆った。

深夜に出会った唇・軟骨ピアスのインナーカラーピンクの二十六歳は、

二十歳に満たない学生の彼女たちにとってはとても怖い存在に見えるだろうからだ。


「その、ライブ、頑張ってね。」


一瞬迷ったが、私は喉につかえていた言葉を

そのまま吐き出すことにした。今日は深夜の徘徊。

今日出会う人たちとは、きっと今日これっきりだろうからだ。


「え、あは。はい、ありがとうございますー。関大っす~」


「ちぃ」はへらっと笑ってもう一度頭を下げた。

この子はきっと将来大物になるだろう。

相変わらず残りの二人は及び腰だったし、通り過ぎて少ししてから、「ちょっと~」と

咎めるような声が僅かに聞こえた。

ほんの少しの申し訳なさと、それよりもちょっぴり多めの幸福感が私の中に満ちた。



***



 帰り道、学園祭の日程を調べながら大通りへ出てみると、

コンビニの駐車場に大きなトラックが三台並んで停車しているのが目に入った。

店内から漏れる光の前には、中年の男二人が楽しそうに談笑している。

もう一人の運転手は、運転席で仮眠をとっているのが見えた。


「このあと三時間かけて三重だぜ、やんなるよなぁ。うちの社長もっと新入社員雇ってくれないかね。」


「今日日、大型なんてとるやつぁいねぇのよ。男でも軽で十分ってやつが増えてんだと。俺には理解できねぇが、いい加減身体がついてこなくなってるよ。」


深夜のコンビニのイメージといえば周囲の学生が路上で

何次会だか分からない酒盛りをはじめたり、誰に聞かせたいのか理解不能な

エンジン音を響かせたツッパリのたまり場というのが私の見解だ。

それは地域によっては今でも間違いではないのだろうが、

こうして長距離ドライバーたちがつかの間の雑談に使っているほうが、

なるほどずっと心地よいと私は感じた。


「ハイライトください。」


「かしこまりました、えっと―――」


「あ、三十五番。すみません、お願いします。」


一瞬不安げな表情を浮かべた店員が、「ありがとうございます」と

顔をほころばせた。残金六百円は八十円となったが、

私の心は先ほどと同じような幸福感が広がった。


コンビニの外に出ると夏特有のじめっとした生ぬるい風が頬を撫でた。

いつもなら顔をしかめるようなこの風も、今日の私にとっては

なんだか心地の良いもののように思える。夜の風は、もしかしたら

昼間よりも少しだけ澄んでいるのかもしれない。


「お疲れ様です。」


談笑していた男たちに会釈すると、二人とも口をあんぐりと開けて

呆然とした顔をしていた。中学の教科書に載っていた、名前も知らない

絵画作品のようで面白い。


「ああ、ありがとう。」


半音遅れて聞こえてきた声にもう一度首を傾げると、

帰ったらベランダにもち丸が来ているかもと想像しながら、

私はちょっとスキップして家路に向かう。



二十六歳、フリーター。

耳にはそれぞれ三つ穴が開いているし、

唇ピアスをして髪のインナーカラーはピンクだ。

スキップなんて青春の特権のように思えてやろうとも思わなかったが、

今日この時間、世間は誰も私のことなんて見ちゃいないだろう。


ずっと止まっていたグループチャットを開いて、

バンドメンバーにいつ集まれるか質問を投げた。

こんな時間に既読がつくはずもなく、投げかけた質問の返答は

朝にならないと分からないだろう。

ついでに、店長から届いていた通知に既読をつけると、

液晶に指を走らせて返信を打ち込んだ。


『お疲れ様です。迷惑かけてごめんなさい。

明後日から出勤します。来月は、十七日と十八日以外は全部入れます。』


三人はどんな音楽が好きなのだろう。

そもそも関大の学園祭って、外部から入れるか調べておかないと。

見たことも聞いたこともないけど、明日は落語を聞きに行ってみよう。

もし席がなかったら、ポットキャストで調べてみよう。



たまの夜の徘徊も悪くない。

今度はまた、気が向いたら第二回目を実施してもいいかもな。

夏の暑さが収まって、秋風を感じられるようになった時。

その時はまた、スキップしながら夜の街を散歩をしようか。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

夜の徘徊 たけもとピアニスト @fawkes12345

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ