術をなくした我々は

譜錯-fusaku-

とある日の出来事

 柳原は廊下を歩いていた。昼休み。午後には英語の単語テストが待っていた。教室に帰ったら、みんな単語帳と睨み合いをしているところだろう。

「今日の問題教えてよ」

 いつもと同じように、隣を歩く榊は柳原に話しかける。

 言われて少し肩をすくめながら目を瞑った柳原の視界は、彼の予想に反して真っ黒だった。言葉では表せない瞼裏の色がただ広がっている。

「えっ」

 その一瞬の暗闇に、柳原は大きく戸惑った。

「どうしたの」

「い、いや」

 浮ついた柳原の反応に怪訝な顔をしながらも、榊はふうんとだけ言って前を向き、再び歩き始めた。それに追いつこうとする気力は柳原にはもうなかく、彼はトボトボと榊の後についていった。




 天気は定義のギリギリを攻めた微妙な晴れ。真冬の風は刺すように痛い。街路樹は当然のように薄暗い貧弱な枝を晒している。今朝見つけた凍ったバケツはまだ氷が張られていた。昼はすぎたのに。

 ぶるっと肩を振るわせる。マフラーをした榊が「寒いね」と白い息を吐きながら手を擦り合わせた。

「雪、降るかなあ」

「どうだろうね」

 降りそうではある。それくらい寒い日だ。手袋を変えたほうが良かったかもしれない。毛糸で編んだようなものではなく、雪遊び用のもっと暖かいものに。

 でも榊は他のことが気になったようだった。

「どうだろうねって、わからないの?」

 そう言って柳原を覗き込む。無理もない。このことは言っていなかったから。

「うん」

「なんで? いや、答えたくなかったら別にいいけど」

 初めから言うつもりだった。でも言いたいかといえばそうではない。それくらいだ。でも、意を決して柳原は口を開いた。言わなくてはならない。

「未来がね、見えなくなった。ついこの間の昼休みかな、それ以来目を閉じたら真っ暗闇だよ」

 声は正常だろうか。恐る恐る顔を上げたが、榊は思いの外驚いていなかった。

「びっくりしてないね」

 そうだね、と彼は一人頷く。そして軽く言った。

「見えるならそんなこともあるのかと思ってさ」

「なら僕の心配はどうなるんだよ、結構悩んだのに」

 ほっとした。夜中布団にくるまって一人で考え込んでいたことを思い出す。

「何に悩むのさ。俺がそう簡単にヤナを捨てるとでも? それに、俺は俺でヤナがいなきゃ困るんだよ」

 そう言って笑顔を柳原に見せてくれた。

 胸を撫で下ろす。たった一人で考え事をしていたから、ネガティブな考えしか思い浮かばなかったのだ。昨日まで榊が柳原と離れていくのではと不安が頭から離れず、眠れなかった。

「うん。ありがとね」

「当たり前だよ」

「あ、手、出して」

 言われるがままに差し出した手に彼は優しく触れる。そして、眉を顰めた。榊の手は氷のように冷たい。でも、その手に触れることで、柳原はいくらか安心できた。

 榊の心遣いは素直に嬉しかった。

「でも」

「まだ何か心配?」

「うん。榊がいてくれるのは嬉しい。でも、僕は今、目が見えなくなってしまったような気分なんだ。一歩踏み出すのも怖いぐらいだよ」

「気分、なんだ」

「だって、一緒にしちゃ失礼だろ?僕は実際目は見えている。本当に見えない人たちの方が何倍も怖い思いをしてるだろうから」

「そうだろうね。でも、ヤナも怖いんだろ?」

「うん。これまでできてたことができない。年老いてくってこんな感じなのかな、すっごく恐ろしい。僕はこれまでの僕とは違っていて、その違和感を糾弾されるのがとても怖い」

「なら遠慮しなくてもいいんだよ。怖さを比べるなんて意味のない。ヤナが不安を抱えてる。それ自体が問題なんだから」

「うん」

 僕の嬉しそうな、だけどどこか蟠りの残った返事を聞いて榊は少し考え込んだようにしていた。それを僕は静かに待つことにした。彼が話し始めるまで。

 榊は静かに口を開いた。柳原よりは少し明るげに。でも申し訳なさそうに。

「俺もね。見えなくなったらしいんだよ」

 これには少し驚いたが、同時に腑にも落ちた。榊が柳原の告白に動じなかったその理由がやっと分かった。

「さっき君の手に触れた時、何も見えなかった。多分俺もヤナと一緒だよ」

 自分のせいかもしれないとの考えが一瞬よぎった。柳原が見えなくなったのにつられて彼もそうなったんじゃないかと。でもそれはやっぱり思い込みに過ぎないだろう。

「だから俺は今、人がこわい。前は大得意だったのにな」

 苦笑いを浮かべながらそう言った。

 榊には柳原と違って人の過去が見えた。だから人の背景を知った上で、その人に合ったように接することができた。だから相手を傷つけることもなかったのだ。

 ある意味では僕らは正反対なんだろうけど、別の意味ではよく似ていたのだ。榊はクラスの人気者だったし、僕はクラス一の秀才だった。この二つは違うけど、大元の原因を共有する仲間だ。僕たちの関係も、その背中合わせの特異さから来たものだった。

 だから僕はその関係が壊れることを心配していた。でも、榊まで過去が見えなくなったことで、もとに戻ったと言える。

「ふふっ」

 そう考えると自然と笑いが込み上げてくる。つられて榊も笑い出したようだ。

「ふははっ」

「普通でない性質をなくし、僕らは普通になったわけだ」

「心の片隅でずっと、なければいいって思ってたのに、いざ無くしてみるとそこまで嬉しくもない」

「そんなもんだろ」

 柳原と榊は寒さを忘れて笑い合っていた。

「なんだか新しいね」

「そりゃそうだ。俺らが新しくなったんだから」

 これまで考えていたことが馬鹿みたいだ。新しくなったんだから、昔の柳原とは何も関係ない。以前のことは考えなくていいのだ。

 行手にカフェが見える。

「ちょっと、入ろうか」

 足を踏み入れると、暖かい空気が二人を包み込んだ。

 二人が初めて出会った頃、柳原と榊はここで色々聞き合った。分からないことが多すぎたから。榊は客が何を頼むかを柳原に当てさせ、柳原は榊に自分の過去について質問した。榊が柳原を驚かそうとしても、何一つ成功しなかったのは愉快な思い出だ。柳原はその頃と同じメニューを頼む。はっきりと覚えていないのに、すんなり口からでた。

「ミルクコーヒーください」

 あの頃は背伸びして買った。今では似合わないまでになっている。榊も同じものを注文した。

「「いただきます」」

 丁寧に言って、口に当てる。コーヒーの苦味とミルクの甘みを感じた。なんだか家庭的な安心感を覚える。数年前の自分が応援してくれているようだった。

「過去は見えなくても、想像はできるよ。むしろそっちの方が知るよりも楽しいかもしれない」

「そうだよ。知らないって、いいものね」

「おいしいな、これ」

 榊が言う。

「苦いでしょ」

「そうかもな」

 ここの窓から見える景色は何も変わっていない。数年前の二人が見たもののまま。あの時、初めて仲間に会った喜びを思い出す。

「本当に良かった」

「いきなりどうしたの」

「ヤナと出会ったのも、今も、俺にとっては大きな転換点だ」

「僕も、榊がいて良かったよ」



 カフェの外は一層冷たい。

「ううう。さぶ」

「早く家に帰らなきゃだな」

「暖房のあるところっていいなあ」

 空は雲が重なり、白くなってきた。

「じゃあね」

 軽く手を振って別れる。僕はドキドキしたまま駅を目指した。息が白いモヤになる。

 出会いも別れも季節なんてない。いつでも起こるからこそ、僕は今嬉しかった。春まで待つ必要なんかないのだ。黙々と歩く帰り道も、いつもほど寂しくはなかった。

 どこかから音が聞こえてくる。元に戻ったような、妙に安らかな気分だ。




 そう考えていると後ろからいきなり肩を叩かれた。

「わっ」

 耳元で響く声に、思わず飛び退いた。そこには満面の笑みを浮かべた榊。

「へへ、びっくりしただろ」

 黙って頷く。生まれて初めてこんなに驚いた。

「前はできなかったから。リベンジさ」

 にやにやして僕の肩を再びポンポンと叩く。

「お互い見えない者同士、頑張ってこうぜ」

「あっ」

 僕はその手の甲を指差す。そこには水滴がついていた。

「雪だね」

「初雪だ」

 雪に驚いたのも初めてだ。案外予測できないというのも面白いのかもしれない。

「にしても、榊の手でも雪って溶けるんだね」

「ちょっと、俺をなんだと思ってるわけ」

「だって、榊の手、年中氷みたいじゃない」

「確かに冷たいけど、氷ほどじゃないよ。ほら」

 差し出された手にそっと触れる。

「冷たっ」

「そんな冷たくないだろ」

「いや冷たいよ。 でも、温かいな」

「なんだよ。そんなに感傷的にさ」

「そんなんじゃないよ」

 僕ははっきりと実感した。僕たちに未来や過去が見えていた頃と今。僕らの関係は何も変わっていない。二人が同じように変わっただけ。いわば両辺から同じものが引かれただけ。

 随分と安心できた。

 変わっていく視界も、一人の声が変わらなかったらなんとか受け入れられるかもしれない。

 視界に映るのは白い雪。

 絵は白の上に重ねて作られるものだ。全ての絵が変わらない白の下地の上に。

 だから僕の感じる世界という絵もそうに違いない。僕たちの白の上に形作られる。

 今日ははじめの一歩にふさわしい。僕は目の前の雪を眺めながら心の中でそうつぶやいた。

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