Ⅶ
聖都に帰還すると、エマニュエルは真っ直ぐ至聖堂に赴き、教皇の側近に任務の完了を報告したあと、その足で至聖堂の地下室——『憐れみの書庫』に降りていった。
『憐れみの書庫』は、セレス教会が有する最大の図書館であり、聖都唯一の公文書館だ。広大な地下空間には無数の本棚が並び、聖都の歴史書から忌まわしい秘密を記した禁書に至るまで、教会のあらゆる書物が収められている。
永遠に続くかのような螺旋階段を降り、薄暗い書庫に足を踏み入れると、大きな机に向かい、蝋燭の小さな火を頼りにして聖典を写し書く、顔に包帯を巻いた修道士たちの姿が目に入る——重い皮膚病の罹患者たちだ。
書庫の名にある『憐れみ』とは彼らに向けられたもので、皮膚病に罹り、治る見込みのない重症者であっても、望めばこの場で働きながら余生を送ることを許されるのだ——もっとも、罹患者たちの間では、書庫行きは流刑も同然だった。
エマニュエルの姿を認めると、罹患者たちは一斉に顔を背ける。浄らかな天使の姿を前に、誰もそうせずにはいられなかった。近くに居たひとりを呼び止め、エマニュエルが「ユンバーの教会に派遣された聖職者全員の情報が欲しいのですが」と丁寧に訊ねると、近くに居た数名が一斉に駆け出し、すぐに求められた書類を手に戻ってきた。息の上がった罹患者たちに礼を述べ、エマニュエルは渡された書類にくまなく目を通す。
五十年分の記録すべてに目を通し終え、エマニュエルの疑念は確信へと変わった。ユンバーの湿地帯、その中のどの教会にも、セイヴィヤという名の神父は居なかったのだ。あの賢しい目をした神父は嘘をついている。神父を騙るのはいつの時代も詐欺師か悪魔だ。
不意に、背後から漂う聖なる気配を感じた。
「おや。君がここに来るなんて珍しいですね。エマニュエル?」
振り返ると、他の罹患者たちと同じ格好の男が立っている。一見すると見分けはつかないが、魂から迸る光と、小鳥の囀りのような声に覚えがあった。
「お久しぶりですね。ローレンス」
エマニュエルが挨拶すると、天使ローレンスは恭しく頭を下げた。
「調べ物ですか? 我らが父の寵児が、何か分からないことでも?」
「ええ、少し確かめたいことがありまして……」
「手伝いますか? もうここに三百年は居ますから、なにかお探しならお役に立てるかもしれません」
同胞からの申し出に、エマニュエルは笑みを浮かべながら首を横に振る。
「いえ。もう調べ終わりました。それよりも聞きたいことが……」
エマニュエルがローレンスに顔を近付け、声をひそめる。
「今まで、気配の無い悪魔に出逢ったことは?」
ローレンスは少し考えて、「ありませんね」と静かに答えた。
「そもそもそんな者が居るのでしょうか?」
「えぇ。ここに来る途中で会いました。神父を騙るあたりは一般的な悪魔と同じでしたが、気配が一切しないのが不気味で……」
エマニュエルの表情が強張る。
「もしかすると、あれは旧い——」
——悪魔、と続けようとして、ローレンスに手で制される。
「そこから先は、口にしないでおきましょう」
包帯で隠された珠のような顔は、恐れで歪んでいるようだった。
「仮にその悪魔が……あれだとして、特に均衡を乱している訳ではないのでしょう?」
「ええ。青年をひとり誑かしていたようですが、それだけです」
エマニュエルが答えると、ローレンスが安堵の溜息をつく。
「それならば、関わるべきではありません。もしその相手が本物なら、私たちが束になっても祓うことは出来ないでしょうから」
そう言うと、ローレンスは「それでは、務めに戻ります」と、エマニュエルから離れていった。
「——何故、気にするのです? 悪魔は均衡を乱していないですし、誑かされる人間のことなど、君はどうでもいいだろうに」
去り際、ローレンスが振り返って訊ねる。
「……わたしにも解りません」
言葉とは裏腹に、エマニュエルの奥底では奇妙な予感のようなものが渦巻いていた。
空色とスミレ色の、愛おしく、悍ましい渦が。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます