ユンバーの寂しい湿地を発ち、ふたりはゆったりとした速度で南下して、聖都の方角へと歩を進める。冷たくじっとりとした沼のそれとは違う、程よく乾いた地面や、湿気で腐れていない常緑樹の爽やかな香りは、外の世界をほとんど知らないトビアスにとってこの上なく刺激的だった——山ほどある話したいことを、ひと時とはいえ忘れるほどに。しかし、それもほんの一時のことで、ある程度旅慣れるや、トビアスは止めどなくセイヴィヤ相手に話すようになった。はじめのうちは、トビアスが赤ん坊の頃に教会の戸口に捨てられた話や、先代墓守の元で学ぶ前は孤児の為に料理をしていた話など、セイヴィヤもある程度は耳を傾けていたが、やがてそういった話題が尽き、トビアスは取り留めもないことを延々と話すようになった。疲れれば口数も減るだろうと、セイヴィヤは敢えて過酷な旅路を選び、硬い地面で野宿するよう命じたりしたが、元々劣悪な環境で育ったトビアスはびくともせず、嬉々としてセイヴィヤの指示に従ったので、旧い悪魔はついに観念して、普通の街道を進み、トビアスの話には適当に相槌を打ってやることにした。

 

 ある夜、焚き火を囲みながら、セイヴィヤがはじめて自分から口を開いた。

「トビアス。出逢った夜、貴方は私を『お父さま』と呼びましたね? それは何故です?」

 訊ねられ、トビアスはなにかに思いを馳せるように、揺れる火を眺めながら答えた。

「僕、家族が居ないんです」

「この時勢で、珍しいとは思いませんが」

「うん。村にも孤児は沢山居ました。でも、みんな家族みたいに暮らしてた……」

「貴方は違ったと?」

「そんな事ないんです。孤児たちは僕より年下で弟や妹みたいでした。僕はずっとみんなの面倒を見てたんですけど……」

「——貴方の面倒を見てくれる者……愛してくれる者は居なかった」

 セイヴィヤの言葉を肯定するように、トビアスが頷く。

「神父様も村長も、おやっさんも……みんな僕には冷たくて。だから思ったんです。『創造主様が、本物の父親みたいに優しければいいのに』って……父親なんかいたことないから、ただの理想ですけど」

 愚かな青年だ。創造主は身勝手で気まぐれ。慈愛も慈悲も無く、地上での人間の営みなど気にも留めない、冷淡な存在だというのに。それを父代わりに思い、己の心の拠所にするとは。

「哀れな子。創造主は、貴方が思うような相手ではありませんよ」

 トビアスへの憐憫か、或いは悪魔が本能的に持つ、創造主への底無しの憎悪がそうさせたのか。セイヴィヤは嘲るような、含みのある調子で言った。

「なんでそんなこと言うんですか? セイヴィヤ様は来てくれたじゃないですか」

 トビアスが首を傾げる。向けられた瞳の純粋さが可笑しくて仕方ない。

「あの夜、僕の祈りに応えてくださったんでしょう?」

「嗚呼。なんと……」

 ——馬鹿でおめでたい子だろうか。そう嗤ってやるのは酷な気がして、セイヴィヤは含み笑いを漏らすにとどめた。せっかく本気で神だと思われているのだ。わざわざ自分から正体を明かしてしまっては勿体無い。

「セイヴィヤ様は優しい、僕が願ってた通りの方です!」

 トビアスが幼子のような屈託の無い笑顔を見せた。自身を救い出した救世主の素性について、毛の筋ほども疑っていないようだ。

 もう少しこのままでもいいだろう——焚き火から火の粉が弾ける音に紛れ、鼻で嗤った。

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