旧い悪魔は、あまりの退屈さに辟易していた。飛ぶのに飽いたので人の姿をとり、あてもなく彷徨ったのはいいが、久々に人間たちと邂逅した場所は、よりによって沼地近くの寂れた村だったのだ。こじんまりとした集落に住む者は皆一様に痩せていて覇気がなく、奥底に仄暗い欲望の火種こそ秘めてはいるものの、焚きつけたところで、その炎が焼けるようなものはこの陰気で湿っぽい場所には殆どない。住人の数だけはそこそこいるようなので、手ごろな者に疑念の種を植え付け、互いに争わせてこの場所を滅ぼすことくらいは出来そうだが、それはあまりに安直だ——なにより、すぐに終わってしまう。

 幾千年か地上を放浪し、それより更に永い時を深淵で過ごした悪魔からすれば、村ひとつ無くなるまでの時間などほんの一瞬。猜疑、恐怖、憎悪などなど、混沌に芽吹いた目眩く感情は、最後のひとりの死をもって無に帰し、襲い来る倦怠から逃れるための旅がまた始まるのだ。次に訪れる退屈しのぎの機会がいつかも知れぬ、終わりのない旅が。

 

 中年の神父の姿をとって、村に近付く。村人たちはその姿を一目見るや、教会本部からやってきた高位の神父だと決めつけ、わざとらしい作り笑顔で迎えた。知性を滲ませる、上品な顔つきの聖職者の素性を疑う者はひとりとして居ない。

 カビ臭い木造の教会に案内され、集落の神父、そして村長と面会した。神父は齢四十そこそこの、枯れ木のような見てくれの男で、下手なおべっかを止めどなく吐き続ける退屈な男だった。村長の方は命の灯火が消えてしまいそうな老齢で、誰が何を言っても「はぁ」としか答えない、こちらも退屈な男だった。その後も村じゅうをじっくりと見て回ったが、はじめの見立て通り、この名もなき村に旧い悪魔の関心を引くようなものはひとつとしてない。長居は無用だと、落日とともにこっそり村を去った。

 村を出て、闇の色濃い方へと歩を進めると、自然と村はずれの共同墓地へ辿り着く。ほんの刹那、泥中に眠る屍を魔法で傀儡とし、村の連中を脅かしてやることを思いつくが、くだらないにも程があると、吐く白い息とともにその考えを捨てた。冷たくぬかるんだ墓所に参る者はおろか、立ち入る動物さえいないのだろう、何日も跡が残りそうなぬかるみなのに、あるのはブーツを履いた人間の足跡と、棺桶を引き摺ったらしい跡だけだった。唯一残されている足跡は、不気味な森の奥へと続いている。一体誰がこんな場所に足を踏み入れるのだろうかと、好奇心をくすぐられた旧い悪魔は足跡を辿ることにした。

 鬱蒼とした木々に月星の光が遮られ、森の中には夜闇よりも暗い、深淵にも似た漆黒がある。魂に刻まれた何かが虚無を恐れるのか、大抵の人間は往々にして闇を避けるものだが、足跡の主は一切の躊躇なく進んでいるようだ。そこから辿るうち、ひどく歪んだ倒壊寸前の小屋に辿り着いた。足跡は小屋の戸口で途切れている。窓のひとつ、カーテン代わりに垂らされたぼろ布の隙間から光が漏れていた。近付くと、青年らしい声が聞こえてくる。

「——天のお父さま。今日もご飯が食べられて、こうして眠れることをありがとうございます」青年は祈っていた。穏やかに、まるで父親にでも語りかけるように。

 物珍しさに、旧い悪魔は思わず「ふむ」と唸った。永い放浪の中で幾度かこういった場所を住処とする人間と出逢ったが、何れも魔術の真似事をする異端者や故郷を追われた気狂いで、きちんと祈りを捧げるだけの理性を持つ者はひとりとして居なかった。祈りは続く。

「今日はミルドレッド婆さんを埋葬しました。婆さんの家族に声を掛けようとしたら、逃げられてしまいました……いつものことだけれど、やっぱり寂しいです」

 声に宿る痛ましい孤独、生々しい人間味に、この青年が今まで見てきた狂人たちとは異なることを確信する。面白いものを見つけたと、旧い悪魔は胸躍らせた。

「お父さま……もう限界なんです。いつになったら僕をこの場所から連れ去って下さるのですか? お願いだから……何とか言ってください。僕を独りにしないで……」

 青年が言葉を詰まらせ、森がざわめき立つ。ふと、悪魔の脳裏をある疑問が過った。

 ここで応えたら、青年はどう反応するだろうか。孤独に苛まれ、創造主に呼び掛ける青年に、創造主として応えてやったら——。

 知ることへの底無しの欲求に駆り立てられて、旧い悪魔は青年に呼び掛けた。

「子よ。何故泣いているのです?」

 闇にこだまするように言うと、なんの前触れもなく語り掛けられた青年が息を呑む。

「……お父さま?」信じられないというふうに、青年が反応した。驚きと期待で早まる鼓動が聞こえてくるようだ。

 声を大に笑いそうになるのを堪えながら、威厳たっぷりに応える。

「貴方の祈りが答えられましたよ」と。

 

 トビアスの両手が震え、祈る手指に絡ませた紐からぶら下がる不細工な手彫りの聖印が小刻みに揺れる——子供の頃から祈り続け、今日、創造主がついに沈黙を破ったのだ。衝撃と興奮に、思わず失神しそうになる。

「え? お父さま? へ、返事……返事し……?」

 幻聴でないことを確かめるために呼び掛けるが、舌がもつれてうまく言葉にならない。闇からの声は、それを優しく受け入れるように小さく笑った。

「安心してください。幻ではありません。私はここに、貴方のそばに居ます」

 トビアスは跳ねるようにして起き上がると、戸口へと駆けた。一瞬でも扉を開けるのが遅れれば、声の主が去ってしまうと思ったからだ。半ば体当たりするように扉を押し開けると、古びた蝶番が外れ、板切れとなった扉が倒れた。そのままの勢いでつんのめって転び、闇の中で立つ来客の足元に跪く格好になる。視線を上げると、優しげな輝きを放つ琥珀色の瞳にとらわれた。

 琥珀色の瞳の主——闇に溶け込むような黒い神父服を身に纏い、遺灰か骨粉を思わせる、くすみのない白の髪を撫で付けた賢そうな中年の男は、笑みをたたえてトビアスを見下ろしている。今まで誰からも向けられることの無かった優しい眼差しに、熱いものがこみ上げた。

「……やっと……やっと来てくれた……」

 男の膝に縋りつき、大声で泣き出す。

「お父さま、お父さま」と、甲高い泣き声を森に響かせる青年の頭を、悪魔は優しく撫でた——新しい玩具を手に入れたと、ほくそ笑みながら。

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