4. 立ち込める暗雲

 夜の帳に包まれた東雲通り。

暖かな街路灯に照らされて、橙色の輝きを放つ。


窓から見える景色は幻想的で。

でも相変わらず、どこか物々しかった。


「あーあ……私の人生、猫みたいに気まぐれだったら良いのに」


髪を指でくるくると巻きながら、琴夏は唐突に呟く。


「どうしたんだよいきなり」


「仕事してても予定調和ばっかで。なんか刺激が無いっていうか」


「……好きで、出版社の仕事やってるんじゃなかったのか?」


「いやそれは、そうなんだけどさ――ちょっと食傷気味っていうか。最近は校正の仕事ばっかで」


素面シラフの筈なのに、何故だか彼女の表情は火照り、浮ついていた。


「ね~、詩織ちゃん? 気まぐれな方が楽しいよね~」


「楽しいと思うけど……でも猫みたい、っていうのは嫌だなあ」


ダル絡みをする琴夏に、詩織は優しく答えた。


「ん……どういうことっすか?」


「うーん、猫、っていうのが……」


「もしかして詩織ちゃん、猫……苦手なんすか?」


「……うん」


「え~、もったいない! あんな可愛い生き物いないっすよ」


そう言って明彦はスマホを取り出すと、一枚の写真を見せた。


「ほらこれ。実家の猫」


黒縁模様の可愛らしい姿が映し出される。


「名前は?」


「レタス、っす」


写真の中のレタスを、詩織はまじまじと見つめて。


「うん。遠目に見る分には可愛いけど……」


「……?」


「昔、引っ掻かれたことがあって。それがトラウマで……」


彼女の表情は、どこか悲しそうだった。


「こらぁ……明彦、無理にそうやってぇ、自分の好み、押し付けない……」


「うわちょ、ちょっと先輩、大丈夫っすか?」


「大丈夫大丈夫――っとと」


「お、おい危ないって」


よろけて転びそうになる彼女。

咄嗟に、日向が抱え込む。


「琴夏大丈夫か――って、酒臭っ!」


「ん〜?」


「お前さては飲んで来たな……ううっ」


「あ、あはは、そうだよー……」


暖かな喫茶店の雰囲気。

それを壊すかのように、琴夏はだらしなく姿勢を崩した。


「ああもう……明彦、悪いけどコイツのこと頼んでも良いかな?」


「……了解っす」


やれやれ、と言った様子で肩を落とす明彦。


「酒癖悪いクセに一丁前に呑むんだもんなあ……詩織ちゃん、こんな大人になっちゃダメっすよ?」


「あはは、うん……」


床に転がっている琴夏を見ながら、詩織は楽しげに笑った。






「それじゃあ、みんな……本当に気を付けて」


「大丈夫っす。先輩こそ気を付けて」


「日向さん、じゃあね」


 明彦におぶられた琴夏は、むにゃむにゃと口籠りながら……時折寝息を立てていた。


日向は辺りを見回しつつ皆を見送る。


「……」


(先ほどまで、意識して忘れていたけれど……今の僕たちは危険に晒されている)


何より日向は、自分の周りの人間が凶手にかかることを危惧していた。


近くに見える三つの影。

――それが見えなくなるまで、日向は店先に佇み続けた。






 次の日。


「いらっしゃいませ――あっ」


「こんにちは」


日向の前に姿を見せた少女。

――初めての私服姿で。


「ん?どしたの、日向さん」


「いや……可愛い洋服だな、って思って」


「へぇ〜」


すると、詩織はニヤニヤと笑った。


「な、なに?」


「いや、日向さんも偶には気が利くんだ、って」


「"偶には"って。それは余計だよ……」


日向がそう言うと、詩織はまた嬉しそうに微笑んで。


それから店内を見回し――


「……お客さん、そこそこいるねえ」


「失礼な。これが平常運転だよ」


「ね、どこ座れば良いかな?」


「うん? ああ、今なら……カウンター席が」


――その時だった。

ドアが勢いよく開けられて。


店内に、若い男たちが数名入って来た。


「いらっしゃいませ」


「キミが例の桐谷君? ネットで話題の」


「え……」


突然の言葉に、日向は戸惑いを隠せない。


「ほら、例の"吉祥寺の作家殺し"事件。キミが犯人なんでしょ?」


「な、なに言って――」


「おいどうなんだよ。ええ?」


複数の男たちに問い詰められ、行き場を失う。


「……え、あ、その」


「お前が犯人なんだろ! おいっ!」


「あが……っ!」


刹那――

鳩尾みぞおちに食い込む強烈なパンチ。


思わず足取りがふらつく。


「日向さんっ!」


側に居た詩織が、日向の身体を支えた。


「チッ……覚えとけよ、この野郎」


男の一人がそう言い残すと、これで満足したのか、全員踵を返してそのまま帰って行った。


響動めく店内。


「っ……」


日向の口の中に、酸っぱい味が広がる。


「日向さん、警察を――」


「いやダメだ……ゲホッ、ゲホッ……」


「でも……」


「これくらい……大丈夫だから」


日向は立ち上がると、店内で他に警察を呼ぼうとしている人にも止めるよう言った。


「……あまり大ごとにはしたくないんです。すみません」


それもこれも、皆を巻き込まないため――。






 閉店時間が近づいても、詩織は一向に外へ出ようとしなかった。


「"吉祥寺の作家殺し"、か……。嫌な名前が付いたもんだよ」


「……」


だんまりを決め込む詩織。

彼女なりに、色々思うところがあるのだろう――日向はそう感じ取った。


「……ほら、もうすっかり夜だぞ。早く帰んないと危ないって」


「日向さん……」


「ん?」


「……お願いだから。自分だけ、傷つこうとか思わないでね」


「え……」


彼女の表情も。彼女の声色も。

いつもの、少し生意気な感じとは違って――


「……うん。分かった」


だから日向も、彼女の言葉に応えた。






「……それじゃあ、また明日」


「あ、うん……」


ここ連日、共に過ごして来た少女。

どこか不思議で、可愛らしいその姿。


「また明日ね……」


日向は――そんな彼女のことが、少しだけ分かったような気がして。


優しい気持ちで、彼女を見送った。






そして事件は――唐突に終わりを迎える。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る