夜の帳が降りる頃

第二十一話

〝夜〟が目覚める。



 彼が目覚めれば宵闇の空が訪れる。それが『宵闇の君』と喩えられる所以ゆえんであり、自然の摂理であり、世界の理だ。


 世界を形づくる歯車である夜宵王は今宵も目覚め、空を見上げて想う。吐息が静かに宙に溶けた頃、夜宵王は帳の境界を出るための支度を始める。


 今宵は新月。彼の齎した夜の海には煌々と光を放つ星々があるが、そこに揺蕩っているはずの月は光を失い、宵闇の世界へと溶けていた。



 勿忘草の庭を通り「彼女」の眠る天蓋宮へと足を運ぶ。さわさわと風に触れる勿忘草たちは歌を歌うように揺れていた。


 ――わたくしを忘れないで。

 そう、言っているようにも、聞こえた。


 視界の先がぼやけている。蝋燭の火が揺らめくように、夜宵王の目前に「それ」は佇んでいた。


「………………」


 亡霊のように現れた「彼女」は、いつか愛した始まりの〝月〟だった。


 どうしてこのようなを見るのか。それはきっと、想い出の残り香が漂う、この勿忘草の庭が夜宵王にをしているからだろう。

 悪夢のような、幸せな、そんな幻覚ゆめだった。


「……再び、そなたは私のもとを、離れるのだな……」


 夜宵王が問えば、幻覚であるはずの「それ」は、色を失くした薄い唇を丁寧に動かし、笑った。自嘲のような、憐みのような、憂いた笑みだった。

 悲しいのか、嬉しいのか。複雑な心境に落ちながら、夜宵王は「彼女」を見つめる。「彼女」は揺らめくだけで、応えてはくれなかった。


「……」


 天蓋宮にも帳の境界にも、暑さや寒さなどの気象現象は存在しない。けれど、今彼の目の前に現れた「彼女」は、何度見つめようとも民の国の陽炎かげろうのようであると夜宵王は感じた。ゆらゆらと揺らめく、実体の無い幻。


「……だが……逢えて、良かった」


 振り絞るようにして彼から出た言の葉は、どこか泣き声のように震えていた。ああ自分にもこんな感情があったんだなと、夜宵王は自分自身について客観的にそう思った。

 歯車の中で最長の歴を誇る〝夜〟にも、まだ学ぶことがあるのかと。夜宵王はほんの少しだけ、微笑んだ。


「……暫しの別れだな」


 始まりの〝月〟の姫は何も言わない。


「別れたとしても、私たちは巡る」


 微笑んでいるだけで。


「私は……そなたを想えるだけで、十分じゅうぶんに幸せだ」


 そして、目を、伏せた。

 それが合図であるかのように、夜宵王の背後から「ざり……」という土を踏む音が耳に届いた。



 ――どうか。「わたくし」を、愛してくださいませ。我が宵闇の君。



「月――」


 始まりの〝月〟の姫は夜宵王にそう伝えると、その言葉に呼応したかのように勿忘草が風に吹かれて庭を舞い始めた。

 彼女は、未練など無い表情を浮かべてその勿忘草の舞の中へと消えていった。

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