第十七話
「月詠姫」と自分の名前を呼ぶ、愛おしい者の声が、微睡む世界から彼女の鼓膜を撫でた。
ゆっくりと瞼を開けば、心配そうに眉を顰める想い人が彼女の頬に優しく触れていた。何故触れられているのだろうと不思議に思うも、頬を濡れた感触がして、ああ泣いたのか、と彼女は他人事のように心の中で呟いた。
「すまぬ……遅くなった……」
「……いいえ……? お会いできて嬉しゅうございます、夜宵王様……」
嗚呼、彼は今、天蓋宮の内側にいる。
やっと、やっと、触れることが叶うのだ。
長く焦がれ続けた想いが溢れた月詠姫は、潤ませた瞳に愛おしい〝夜〟を映した。
夜宵王は縋るように伸びてくる月詠姫の手を優しく包み込んだ。ひんやりとした感触が彼の心を切なくさせたが、表情を崩すわけにはいかず、この不安を彼女に悟られぬよう微笑むことに尽力した。
ゆっくりと月詠姫の体が夜宵王の胸元に抱かれていく。彼の温もりは、先程までの不安を甘く溶かしてくれるようで、再び眠りそうになる。
「月詠姫……?」
けれど、少しだけ違う。
彼の温もりはとても優しいのに、今宵の彼はどこか寂しそうだ。彼の体が少しばかり震えているように感じたからだろうか。月詠姫は不思議に思い、顔を上げて彼に問うてみた。
「夜宵王様? どこか、痛みますか?」
その問いに、夜宵王は少しばかり目を見開いた。それはきっと近くで見つめることを許された彼女にしか気付くことのできない、ほんの些細な変化だった。
「…………いいや。痛みは、ない」
「ほんとうに?」
「ああ、本当だ」
嘘を言っている気配はない。それでも不安な月詠姫は、彼の体を触れた。確かに怪我をしている様子はなさそうで安堵する。しかし疑念は拭えない。
(――あ)
それは突然彼女の中で腑に落ちた。
彼は外傷ではなく、心を痛めているのだと。
(……知って、しまわれたのね)
自分が、もうすぐこの世界から消えてしまうことを。
(……知っていて……何も言わないなんて。やはり優しいお方)
彼のことを想えば、自然と
「…………夜宵王様。月詠は、幸せ者です」
当たり前だ。「月蝕」は、歯車である
月詠姫はしっかりと夜宵王の目を見つめる。彼女の想いなど露知らず、不思議そうに見つめ返す夜宵王は、迷子の仔犬のようで酷く愛らしく見えた。
「……夜宵王様。わたくしは、いつまでも貴方様をお慕い申しております」
「……私もだ、月詠姫」
「愛してる、愛しているのです」
「……」
そこで夜宵王は気付く。彼女もまた、自身の運命を知ってしまったのだと。そしてそのきっかけについても、どうやら理解をしているようだと。
まだ知らないと思っていた夜宵王は、今から紡がれるであろう彼女の言葉を一つたりとも聞き漏らさんと聴覚に全意識を集中させた。
「貴方様と離れてしまうと思うと、たとえそれが数刻だとしても、心が引き裂かれてしまうほどに、胸が痛むのです」
「……私もだ」
「それでもこれは天命」
「…………」
「分かっているのです、仕方のないことだと。それでも、わたくしは諦めきれないのです……」
代替わりは月詠姫を再構築するための、大切な儀式である。「彼女」という「器」を失わないために必要な儀式。守るために行われるはずの儀式だというのに、失う
心を失う恐怖は如何程か。
始まりから今まで生きている夜宵王には、とても図りかねた。
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