第十二話

「……月詠姫?」


 天蓋宮にて眠る月詠姫は、顔色こそ優れないものの穏やかな表情をしていた。漸く落ち着いて眠れているのだから起こしてしまうのは忍びない。照胤王はも兼ねて彼女の近くで休むことにした。


 勿忘草の庭に自らが齎した日の光が射し込んでいる。暖かいなと眺めていれば、いつの間にかうつらうつらと舟を漕いでしまい、次に意識が浮上した時には目の前で月詠姫が微笑んでいた。どうやら転寝うたたねをしてしまったようだと、照胤王はまだ覚めきらない頭をゆっくりと横に振った。


「ふふ、おはようございます、照胤王」

「月詠……? ……っ、今何時いつだ⁉」

「日はまだ昇っておりますゆえ、そんなに焦らずとも大丈夫かと」


 確かに。冷静になり周りを見渡せば、まだ日は沈んでいなかった。夕刻に近い時間帯ではありそうだったが、夜が来る前に起きることができたのは不幸中の幸いと言えるだろう。


「そ、そうか……」

「よくお休みでいらっしゃいましたね」


 肩に重みを感じ軽く触れれば、美しい羽織が掛けられていた。おそらく月詠姫が気を利かせて掛けてくれたのだろう。いつから目覚めていたのかまでは分からないが、照胤王は少しだけ申し訳なく思った。


「……これは月詠が?」

「ああ……。気持ち良さそうに転寝をされていましたので、体を冷やしてはと思いまして」

「ありがとう」

「いいえ」


 自分は〝日〟の化身なのだから病知らずなのだが、とは言わなかった。言えば彼女が悲しむ顔をするだけだ。病に臥せることはなくとも、精神面で落ち込むくらいは化身にもある。その気持ちの揺れは天候に左右するので、照胤王は敢えて言うのを控えた。


 照胤王は少しだけ乱れた身成りを整えると、月詠姫を見つめた。彼の視線に気が付いた月詠姫が「どうかされましたか?」と首を傾げれば、照胤王は分かり易く気まずそうに視線を逸らし俯いた。言うのを躊躇ためらったが、いつかは知ることだ。


「……近く、日の狼が月蝕に向かうそうだ」


 声が、震えた。伝えようと、覚悟していたはずだった。

 それなのに、いざ言葉にすればそれはどれほど残酷なものかを思い知らされる。

 少しして、そうですか、と紡がれた彼女の声は凛としていた。


「……天帝から、沙汰が参ったのですね」


 月詠姫の心情を想うだけで息が詰まりそうだった。


「次の、満つ月の頃に。貴殿の所には使者はこなかったのか?」

「来た痕跡は見つけたのですが、その件で来たのか別件だったかまでは聞けず仕舞いで……。おそらく、用件は前者でしょうね」


 月詠姫が苦笑する。その身に何が起こるのかは憶えていないはずの彼女は、さも憶えているような素振りを見せる。本当はまだ以前までの「彼女」が生きているのではと思ってしまうほど、彼女の素振りは自然だった。


「夜宵王には、俺から伝えようか」


 敢えて夜宵王はこのことを知らないものだとして照胤王は話を進める。気遣いは時に心を傷つけると知りながら、それでも彼女には嘘を吐かなければならないと思った。


「そのような……。貴方様のお手を煩わせるわけにはまいりませぬ。わたくしが、夜宵王様に直接お伝えいたします」

「……すまん」

「何故謝るのです?」

「いや……何もできんことが、歯痒くてな」

「代替わりのことは仕方ありませんもの」

「しかし……早すぎる……」


 彼女は照胤王よりもずっと、強い意志を持って代替わりを受け入れていた。自らの記憶が綺麗さっぱり消失してしまうかもしれないというのにも関わらず、彼女は反抗の意を見せることなく飲み込む。月詠姫の在り方に照胤王は無意識の内に涙ぐんだ。


 なんて酷い「罰」なのだろう。

 彼女の心は全て擦り切れてしまっているというのに。


「……そう気を落とされますな、照胤王」

「……」

「わたくしは、貴方様がたのことを忘れてしまうのでしょう。なんとなく、そのような気がするのです。自分がこの体から消えてしまうような、そんな感覚が。それに、最近眠る度にわたくしの耳元で知らぬ声がそう囁くのです」

「……予兆があったというのか?」


 月詠姫からこんなことを聞くのは初めてだった。照胤王は純粋に驚き、目を見張った。月詠姫は頷いた。


「おそらく。以前までの〝わたくし〟がどうであったかは、分かりかねますけれどもね」


 どうやら歴代の〝月〟の姫も、〝日〟の王と同じように「月蝕」が起こる度に後代へ継げるよう記録を残してきたらしい。おおよそ彼の比にならないほどの回数を代替わりしてきた「月蝕」の書は、天蓋宮の書庫に大切に保管されているという。


「……しかし、何が原因で月蝕の沙汰が下されるのか。俺には皆目見当も付かぬ」


 何か分からないか? と照胤王は月詠姫に問う。


「そうですね」


 ゆらり、月詠姫の瞳が震えたのを、照胤王は見逃さなかった。きっと彼女には心当たりがあるのだろう。分かっていて、彼には隠した。隠したのは、発言をしたとしても、それは解決には繋がらないことを理解していたからに違いない。だから敢えて照胤王はそれ以上何も問わなかった。

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