第十一話

 次に彼の意識が浮上したのは、宵闇の王が支配する世界が眼前に広がる頃だった。


 今宵は新月。煌々と輝いていた月の光は、今宵ばかりは見当たらなかった。今頃、彼らは触れ合うことを許され、愛し合っていることだろう。

 彼らがたった一時の幸せを、噛み締めていると信じたい。


 歯車は世界を構成する部品でしかない。情などは必要ないのに、彼らを創り出した天帝はなんの嫌がらせか「心」を部品に植え付けた。その起源はいつの頃だったか、思い出せないほど遠い昔の話だ。初めこそ自分に向けられる心に面白さを感じていたようだが、次第に部品が、意志を持ち始め互いを想い合うようになってからは、心そのものを「罪」とした。

 天帝からの寵愛を受けられなくなった始まりの〝月〟の姫は、それまでの記憶を全て失う「月蝕」の罰を受けた。


〝月〟の姫が今までと違うことに、いち早く気が付いたのは〝日〟の王であった。


 何故心などという煩わしいものをお与えくださったのか、と創造主である天帝に牙を向けた〝日〟の王は天帝の怒りを買い、制裁として「日蝕」の罰を受けることとなった。


 それは「月蝕」と同じ、全ての記憶を失う罰だった。

 しかし照胤王はこれを「罰」だとは思っていなかった。


〝月〟よりも頻度は少ないが、〝日〟の王も何度か代替わりをしているらしい。歴代の〝日〟の王が記した書によれば、自らが全てに関する事象を忘れるだけで、特に己に害が無いのだという。

 だがそれは、〝夜〟の王だけは全てを憶えているということになる。最も辛いのは〝夜〟の王ではないか。彼だけが代替わりをすることがない。否、形無きものにできるはずがないのだ。まるで、ずっと憶え続けていることが罰であるかのように。


 生き地獄だ。彼だけが、始まりの世界に取り残されている。


(また……、護れないのか……)


 照胤王はぐっと唇の端を噛んだ。プツ、と小さく糸が切れたような音が聞こえ、鉄のように苦く赤い液体が口端に垂れた。それを拭えば袖口が赤く滲む。

 化身と云えども人型をした彼らには、民と同じ機能がいくつか存在する。体内を流れる「血液」もその一つだった。だが、いくら血液を零そうとも、彼らは「死」を知らない。心の死は在れど、肉体の死は無い。


「……やはり、生き地獄だ……」


 もう一度天帝に抗議してみようか。もう二度と彼らから幸せを奪わないでくれと。もう夜宵王の悲しむ目を見るのはうんざりだと。しかしそれはできないことだと彼は頭ではしっかりと理解していた。再び、自分が「日蝕」による制裁を受けてしまえば、今まで先代から築き上げてきた記憶が全て失われてしまう。


〝夜〟が、一人ぽっちになってしまう。


 月が消えることも許せないが、自分の身勝手な行動で彼を独りにするのは違う。考えるだけ、ただ心苦しいだけだった。


 置いてはいけない。


 彼が齎す宵闇は、まるで彼の心を映したかのように深い。

〝日〟が昇る頃、帳の境界に日の使者が現れた。天帝からの申告である。その内容は、何となく想像ができた。


「満つ月の刻、月蝕の儀が行われる」


 照胤王は心の中が泥のように崩れていく感覚に、胃がひっくり返りそうだった。


 ☾


 明け方になれば、何事も無かったかのように夜宵王が〝月〟との逢瀬より帳の境界へ帰還した。何気なく視線を向けると、彼の肩元が濡れていることに気が付いた。雨でも降っていただろうかと照胤王は思ったが、少ししてあれは、月詠姫の涙が触れたものではないかという考えに落ち着いた。

 夜宵王はすぐに床に就いてしまった。照胤王も、何も訊く気になれなかったので丁度良かったと安堵の溜息を零した。

 入れ替わるようにして帳の境界を出れば、うっすらと真昼の月がぽつりと天に浮かんでいるのが見えた。

 彼女はどのような気持ちで今日を生きるのだろう。


 照胤王は、そんなことを思った。

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