第十話

 帳の境界の天幕を勢いよく開けば、すでに宵闇を告げる王が最後の身嗜みだしなみを整え終えたところだった。あまりにも変わらない冷静さに、照胤王は頭に血が上り勢いに任せて夜宵王の胸倉を掴んだ。


 知らないはずがない。知らないわけがない。

 なのにどうしてこの王は今夜も歯車としての役割を果たそうというのか。


 心が、ないのか。


 照胤王はふと、そんなことを思った。


 胸倉を掴まれた夜宵王はただ冷ややかな目で照胤王を見つめ返した。そこに映った、たった一瞬の揺らぎを、彼が見過ごすはずがなかった。


「……知っていたのか?」


 何を、とは問わなかった。照胤王が感情を剥き出す理由を知っていたから。夜宵王は静かに瞼を伏せた。それが答えであると告げられたようなものだった。


「何故……」

「天命だ。仕方があるまい」

巫山戯ふざけるなよ! そんなもの、こちらから妨害してしまえばいい!」

「できるのか? お前ごときが?」


 感情の読めない彼から放たれた冷たく低い声が照胤王の鼓膜を揺らす。そこに見えたのは〝怒り〟だった。何もできない自分に嫌気が差したような、不甲斐なさに圧し潰されそうな色をした声だった。似たような経験をいつだってしてきた照胤王も、苦虫を噛み潰したような顔をして夜宵王を睨みつけた。


「天帝は一度決めたことは必ずすお方だ。お前も知らないわけではないだろう」

「だが、っ」


 ぐわんと世界が大きく揺れた感覚に、思わず驚いた。強烈な眠気に体勢を保つことが難しくなる。


〝夜〟が――来る。来て、しまう。


 夜宵王の胸倉を掴んでいた照胤王の手から、力が零れていくように抜けていく。ずるずると下がっていく彼の手を、夜宵王は優しく掬い取った。


「……仕方のないことだ」

「……そ、んな、言葉で…………」


 嗚呼、駄目だ。そんな言葉で片付けるな。


 愛おしいのだろう?


 苦しいほどに。狂おしいほどに。


 何年も、何十年、何百年、何千年と、狂うほどにながときを生き、それでも尚その気持ちを押し殺してきたのだろう?


 照胤王の口から漏れたのは、吐息にも似た小さな小さな掠れた声だった。悲しみに溺れた兄の瞳は、真っ直ぐに弟に向けられている。


 がくりと膝から崩れ落ちる照胤王の体を、夜宵王は咄嗟に支える。そして、彼を寝台へと横たわらせると夜宵王は弟の頭を優しく撫でたのだった。


「……お前は、優しいな。照胤」


 薄れる意識の中、夜宵王が宵闇に消えていくのを、照胤王はただ見つめることしかできなかった。

 兄の背を見送ったのを最後に、照胤王の意識は完全に途絶えた。

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