第九話

 日が暮れ始める。そろそろ〝夜〟が目覚める頃だ。

 ちらりと横に視線を向ければ月詠姫は疲労の表情を浮かべながらも愛しい彼を想い焦がれていた。透き通るような白い肌に、少しだけ赤みが差している。愁いた顔は、この世界の何よりも美麗だった。


「……そろそろ戻るよ」

「あ……はい。本日もお疲れ様でございました」


 力無く微笑む彼女の頬に照胤王は自身の右掌を当てる。冷たい頬だった。それでも彼女は今日を懸命に生きようとしている。その瞳は温かい光を灯していた。


「無理はするな」

「はい」

「我が愚兄殿は、貴殿から離れることなど到底できぬのだから、焦らずとも必ずここに参るだろうよ」

「……ふふ、はい。ありがとうございます」


 名残惜しくも思いながらそっと彼女の頬から掌を離していく。うっすらと残った体温が照胤王の心を少しだけ満たした。



 月詠姫が床に就くのを見届けてから、照胤王は帳の境界へ戻るべくきびすを返す。勿忘草の庭を、足元に気を配りながら進んでいると、目の端に何か不穏な影がぎった。


(まさか――)


 照胤王はすぐにその影を捉えようと歩を進めた。影は庭の入口で止まったので、照胤王も倣って物陰に隠れる。息を殺し、影の正体を覗いた照胤王は思わずその双眸を見開いた。

 影の正体に気付いた瞬間、ああだから兄はあのような態度を取っていたのだと腑に落ちた。背筋に一つ伝うものを感じながら、照胤王は影から視線を逸らさずにいた。


「…………」


 独りごちた言の葉は誰に届くでもなく地に落ちた。


 日の狼――それは天帝の忠実なる獣である。世界の歯車である「夜」「日」「月」に歯車としての異常を感じた場合に現れる制裁者。

 主に、が行われる際に姿を現すのだが、その周期はまばらであり決まって各使者が王に告げるのが常だった。

 しかし、今回は異例の事態であると照胤王は胸中で舌を打つ。


(早すぎる……! 前回の代替わりから、まだも経っていないじゃないか!)


 そう、時期尚早なのだ。

 こうも早く彼女の幸せが奪われてしまうのか。何もできない己の無力さにやるせなさが募る。


 日の狼は庭の敷地に入れないためか、唸り声を上げながら口の端から涎を垂らし彷徨うろついている。日の狼の眼光は、ギラギラと獲物を食らわんと地を這うようにして動いていた。だがそれは、今は無意味な行動でしかない。


 月詠姫の坐す天蓋宮、その入口とも言えるこの勿忘草の庭には強固な結界が張られている。それを開くには〝夜〟の力が必要だ。


 照胤王でさえ夜宵王に頼み込み、入るための鍵を貰い、やっとのことでこの勿忘草の庭に足を踏み入れているのだ。


 あれから少しして、獲物がいないことに気付きその現状に飽きたのか、日の狼は勿忘草の庭をずりずりと去って行った。張り詰めていた糸がプツリと切れたような脱力感に深く息を吐く。


「……なんだって……〝今〟なんだ……」


 やっと掴めそうな幸せの時間を、近く彼らはうしなうかもしれない。


 代替わりの時がいつなのかまでは分からない。

 まだなのかもしれないし、すぐなのかもしれない。

 幸いしたのは、この場に月詠姫がいなかったことだけだ。


 日が落ちる。照胤王は今見た光景を〝夜〟に伝えるべく庭を駆け出した。

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