第五話

 夜宵王はようやく眠った月詠姫の顔を認めると、再び勿忘草の庭を踏みしめながら元来た道を戻る。


 ふと彼の目の前にもふりとした何か小さな物が視界の端を掠める。夜宵王は少しだけ怪訝そうな顔をして「出てこい」と低い声を地に這わせる。



「…………御前おんまえ、失礼いたしまする」



「月の使者、か……何用だ」


 月の使者と呼ばれた者たちは一斉に夜宵王に向けてこうべを垂れる。

 彼らは月詠姫に仕える従者・兎師だった。常に彼女を案じ、そしてする存在。いわば天帝から送られてきた密偵スパイのようなものである。


 身の回りの世話を担うのは雌であり、現在夜宵王の前に跪くのは雄だった。

 月の使者たちは中心に黒い丸印の映える布製の面をしているために、その表情は読めない。夜宵王はさらに怪訝な目を向けた。


「何用かは……貴方様の方がよくご存知なのでは?」


 何物をも映さない漆黒の闇が月の使者を貫く。恐怖にも似た感覚に彼らは体を震わせた。呼吸をすることも許されない緊張が、まるで今宵の帳のように彼らの周りを覆い尽くしていく。


しらせにございますれば、先達せんだって〝夜〟に伝えよと」


 月の使者の一羽がすくりと立つ。その姿は愛らしいが、反面、言葉にしていることは無情にも程がある。


 それは主である月詠姫に対して「死ね」と発言しているようなものだった。

 同時に、早いな、と夜宵王は心の中で舌打つ。


 月詠姫の心は、三年に一度を行う。それは月の使者の言う〝月蝕〟が関連しており、一番早い時は数ヶ月での代替わりだった。


 何も分からぬままに心を亡くし、何も知り得ぬままに再び亡くなる。


 三年もあれば彼女は段々と元の『彼女』に近付くが、それは全てにおいて「以前の彼女」ではなく、彼女にでしかない。

 勿忘草の残香に心焦がす日々は、夜宵王にとって苦痛以外の何物でもなかった。

 夜宵王は嫌味たらしく苦笑した。


「我らを作り出した〝天帝〟は、酷く残酷な心をお持ちのようだ」

「……近く、日の狼が参られるとの沙汰でございます」

「………………ね」

「次の満つ月の頃に――」

「去ねと言っている‼」

「っ‼」


 あまりにも深い〝夜〟が、一帯の空気を震わせた。


 息をしようものなら体が引き裂かれてしまうことだろう。

 視線を揺らせば、たちまちに窒息させられてしまうだろう。

 それが、ここにいる月の使者の誰もが感じた恐怖の形だった。


「これ以上の会話は意味をなさぬ。早う去ね。でなければここで死ね」


 夜宵王の機嫌はこの時をって完全に損なわれた。意中の月詠姫との憩いの時間ときが、いとも容易たやすく崩されたのだ。

 これ以上ない苛立ちは宵闇を深海へと変えていく。

 酸素が消え真空の箱に閉じ込められたような感覚に、呼吸がままならない月の使者たちは次々に体中の力を失い地に伏していった。


「……この天蓋宮にて殺生は大罪。いくら〝夜〟であろうと天帝が黙っていない」


 一羽、平然と立つ月の使者が、彼を諭すように言の葉を紡いだ。夜宵王はその言葉を認識すると、口角を上げ表情を歪ませてわらった。


「私を消すか? それもいいだろう。自らが作り出したものが意志を持つことを目障りだとし、世界の歯車としたあの王のことだ。私を消すことなどに心を痛めることはないであろうなぁ!」


 夜宵王はわざとらしく声を張る。

 むしろ、消してほしかった。金輪際、あのような気持ちを抱くことをしたくなかった。愛する気持ちを、知りたくなどなかった。

 けれど天帝はこれを許さない。精々苦しめと。まるでそれが罰であると言われているような感覚に夜宵王の胃の中がひくついた。


「できぬであろうな。〝月〟や〝日〟とは違い、〝夜〟には形が無い」


 いっそのこと、願ってしまおうか。


 即刻断たれるであろうその叶わぬ願いを、世界であり父であり母でもある天帝にぶつけてみようか。


 しかしその何もかもが意味の無い行動だと知っていた。


「形無きものの願いを聞き入れるいとまがあれば、すぐに切り捨てるか? ああ、天帝とはそのような〝王〟であったな」


 誰が答えるでもなく皮肉めいた台詞を吐き捨て月の使者を一蹴すると、夜宵王は勿忘草の庭を再び歩き出した。



 張り詰めていた空気が一瞬にして緩めば、月の使者は呼吸をすることを許され、体を動かすことを許された。

 一羽の月の使者が、空を見上げる。


「……我らが王よ、天帝よ……。何故我らにこうも試練をお与えくださるのか」


 一羽の月の使者はゆっくりと目を細め、そして今にも宵闇に溶けていきそうな三日月を眺めると、憂いた表情を浮かべ吐息を零したのだった。

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