第三話

 月詠姫は夜宵王を待っている。


 太陽の温かい日差しが日中世界を照らしている頃から、まだかまだかと彼のことを想い、憂い、待ち焦がれている。


 宵闇が空を支配したその瞬間に、彼女の心は少しずつ躍りだす。夜の帳が降りるこの瞬間を、月詠姫は待っていた。


 彼女の目の前には勿忘草の庭が広がっており、その境界にはせせらぎを奏でる川がゆったりと流れている。

 煌々きらきらと光るその川は、かの有名な天の川である。

 これは月詠姫が夜宵王に会えない時間を悲しみ、流した涙の雫でできた川でもあった。


 彼女の寝台にギシギシと縁側の床を踏みしめる音が届く。ゆっくりと体を起こし、緩く口角を上げて今できる精一杯の微笑みを月詠姫は〝彼〟に向けた。

 天蓋宮と呼ばれる勿忘草の庭を抜けた先にある屋敷は、月詠姫の眠る宮である。



 毎夜、こうして夜宵王が会いに来るのだが、出迎えはまちまちであった。それは一重に彼女の体調や精神面が関係していることは理解していたので、出てこないからといって気持ちを落とすことは違うと夜宵王は胸の中に気持ちを仕舞う。


 月詠姫は月の化身だ。その美しく艶めく長い黒髪は夜に溶けることを約束し、儚げに潤う琥珀色の瞳は彼女自身を表している。まるで羽衣はごろもを纏う天女のような美しさに、夜宵王は思わず視線を奪われる。くるりと内側に巻く横髪が、凛とした彼女の可愛らしさを一等際立てていた。


「……月詠姫……。起きているか?」


 夜宵王が月詠姫の眠る天蓋の側で優しく問い掛ける。少しして「はい」と芯の通った声が夜宵王の鼓膜を触れた。しばらく待っていると、奥から月詠姫の侍女を務める兎師としたちが天蓋を開き彼女の姿を露わにしたのち、静かに奥へと控えていった。ここからは二人だけの時間だと兎師たちは身を引いたのだ。


「夜宵王様……」


 弱々しくも、月を思わせる彼女の瞳はすでに〝夜〟を映して離さない。


「月詠姫、今宵は体調が優れぬか?」

「いいえ。貴方様がいらしてくださったから、もうすっかり」

「そうか」


 そうは言うものの、月詠姫の目元は赤く染まっていた。先程まで泣いていたことは明白だった。しかし夜宵王に心配を掛けまいと彼女は彼に微笑む。

 夜宵王は泣き腫らした月詠姫の目元に手を伸ばす。だが、その手はくうを掴むだけで届くことはない。月詠姫はただ少し困った表情をした。


「…………もう泣くのは止めろ、月詠。せっかくの美しい顔が勿体ない」

「ふふ、そこははっきりと〝不細工〟だと仰ってくださればよろしいのに」

「それでは濁した意味が無いではないか」

「あら、隠してくださった優しさを自ら無駄になさるの?」


 くふくふと月詠姫が笑う。少し胸中は複雑であったが、彼女が笑顔を見せてくれたことに夜宵王は安堵した。


 月詠姫が天蓋の内側から手を伸ばした。しかし彼女の手もまた夜宵王と同様に空気を掴むだけ。手を伸ばした先には、視界では認知がしづらい水の膜のようなものが彼らの境界線を隔てていた。


「……触れたい」

「私もだよ、月詠姫」

「触れられぬのは、わたくしたちが〝月〟と〝夜〟の化身だから……?」

「……ああ、そうだ」

「今宵が、まだ新月でないから……?」

「……そうだ」


 月詠姫は水の膜にそっと触れる。夜宵王も彼女にならって手を重ね合わせるように膜に触れた。


 化身である彼らにの体温が存在するのかは分からないが、何故だか〝心〟に触れている気がして、彼らは仄かに胸に温かさを感じていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る