1-10 小井塚咲那
小井塚咲那にとって図書室は聖域である。
小説や実用書まで、多くの本が無料で読むことができるし、なにより人口密度が薄く、静かなのがいい。テスト前になるとクラスカースト上位勢の生徒たちが、青春の雰囲気作りのために図書室で勉強会なんかを開いたりするが、そういう時だけうるさくなる。大概、司書教諭に注意されるが、無駄だ。すぐに私語をはじめられる。
ともあれ、テスト期間も終わり、元の静かな図書室に戻っていた。
咲那は読んでいた本から顔をあげ、貸出カウンターの壁にかけられた時計を見る。既に午後四時を越えていた。咲那はリチャード・ドーキンスの『進化とはなにか?』を閉じ、スマートフォンを取り出す。ツイッターのアプリを立ち上げ、誹謗中傷アカウントを開いた。
毎日のようにツイートしていたアカウントだが、昨夜投稿されたつぶやきを残し、全てが削除されていた。
――これまでのつぶやきは全て根拠のない誹謗中傷でした。関係者の皆様に謝罪し、対象ツイート全てを削除します――
計画は成功したということだ。
昨日の昼休みに朝司からもらったアドバイスを元に咲那なりに犯人像を組み立て直してみた。ストーカーというのは基本的に自己愛の強い傾向にあると本に書いてある。咲那がDMでやり取りした犯人にも、その傾向があった。咲那の誉め言葉をすぐ鵜呑みにしていたし、いろんなことを全て自分の都合のいいように解釈する傾向が見えた。
好きな人の評判を棄損し、独占欲を満たすなど咲那には理解しがたい情動だったが、自己中心的な性格ならば、ありえるのかもしれないと認めることにした。
そのうえで、咲那は容疑者だった秋月とはつきあったことのない沖本千佳に「これ以上の誹謗中傷をするなら、家族や学校にも報告させてもらう」と本人の名前を添えたDMを送った。結果、咲那が友人Aとして振る舞っているアカウントに相談のDMが飛んできたのだ。これまで都合のいい友人として振る舞っていたのが効いたのか「本名がバレてるなら、要求を飲んで謝罪したほうがいいよ」とアドバイスしたら、受け入れられた。
結果、誹謗中傷していた沖本は謝罪のツイートをし、これまでの全てのツイートを削除したのだ。
その後、友人Aアカウントを使って誘導尋問をした結果、沖本は中学の頃から秋月に憧れていたらしい。沖本が言うには秋月は男性アイドル業界に進むべき人材で、スキャンダルを増やすのは秋月のためではないから、自分が秋月を守っていたらしい。
認知の歪みというものに現実的に触れて、自分も気をつけようと思った。
とはいえ、認知の歪みを放置しておけば、また同じ過ちを繰り返しかねない。咲那は秋月が実は薬物をやっているらしいとか、ガチのサイコパスだとか、嘘八百の話をさも本当のことかのように伝えておいた。結果的に「さすがに庇い切れないかも」にまで思考を誘導することができたので、彼女の興味は秋月から少しはそらせたかもしれない。
友人Aアカウントで沖本の経過観察をしつつ徐々にフェードアウトしていき、それで今回の用件は終了となる。
(全然、小説のネタにならない……)
咲那が求めているのは、もっと胸がキュンキュンする甘いコイバナである。顔のいいクズ男子とか、そのクズ男子のストーカーの話など、誰が読みたいのだろうか? 少なくとも咲那は読みたくない。
そんなことを考えながら咲那は読んでいた本を棚に返し、図書室を出ていく。そのまま朝司が待つ教室へと向かって歩いていった。
(これでハッピーエンドなんだから、次はもっと真っ当なコイバナを教えてもらわないと)
などと考えながら二年二組の教室に入れば、朝司はいつもの場所で頬杖をつきながら窓の外を眺めていた。
「岩永さん、こんにちは」
朝司は咲那のほうへと振り返り「やあ、小井塚さん、こんにちは」と挨拶してくる。咲那から見た朝司の顔は、かなり整って見えた。秋月ほどじゃないにせよ、朝司も充分にイケメンの部類に入る。秋月は中性的な美少年だが、朝司はもっとガッシリしている。目鼻立ちはハッキリしており、細身なのに全体的に筋肉質だった。
やや浅黒い肌にスポーツマンらしい短髪。並んで立つと見上げることも多いので、背も高く180センチくらいはありそうだった。<恋愛の神様>と呼ばれてもいいくらいモテそうな雰囲気がある。
だが、運動部系の見た目と違って朝司の雰囲気は基本穏やかだ。それこそ、今にも夕焼けに消え入りそうなくらいに。
「誹謗中傷アカウントはどうにかできました」
言いながらスマートフォンを取り出し、朝司にアカウントを見せた。朝司は怪訝そうに眉根を寄せる。
「どうしたんですか? これでハッピーエンドですよ?」
「いや、さっき、秋月が来てさ……」
腕を組みながら眉間のシワを濃くする。
「もうダメかもしれんと言っていた」
「来たってまた相談に来たんですか?」
「ああ、好き勝手泣き言言って帰ってったよ」
「九重さんはツイッターの謝罪の件、知ってるんですか?」
「知ってるみたい。そのアカウントに関しては秋月も知っててさ、それを彼女に見せたんだけど、どうにも受け入れてもらえないらしい」
「じゃあ、もうただ単に普通の別れ話じゃないですか? 九重さん、もう相談者さんのこと嫌いなんですよ」
「いや、でも、そこはまだ嫌われてるわけじゃなさそうだって言ってたよ」
「男性の認識と女性の認識には隔たりがありますからね。ここは男らしくスッパリと諦めたほうがいいかと思います」
「ここ最近、俺なりに二人のことを見たりしてたんだよ。君みたいに表情から嘘を見抜けたりはできないけどさ……楽しそうに笑ったりもしてたんだよね。ほら、好きな人にしか見せない表情ってあるじゃん?」
「さあ、人を好きになったことも好きになられたことも無いので、その限定的な表情は知りません」
「それに別れ話になるのは、不意にいきなりスイッチが入ったかのように、そういう感じになるんだってさ。だから、その度に秋月もスマホの中にある女子のIDや電話番号も全て消してるのに信じてもらえないって……」
「九重さんってメンヘラなんですか?」
「メンヘラってなに?」
「もともとはネットスラングです。メンタルヘルスに問題を抱えている人のことを指しますね。精神医学的には境界性パーソナリティ障害の人たちのことです」
「同じクラスなんだろ? そういう性格なの?」
「さあ? 同じクラスですけど、きちんと観察してるわけではないので」
会話を交わしたことはあるが、可能な限り顔を見ないようにしていた。下手に嘘や感情を見抜きたくなかったからだ。それは九重だけではなく、他人全般に当てはまる。
「仮に九重さんがメンヘラなら、別れたほうが相談者さんにとってのハッピーエンドじゃないですか? 依存されたり振り回されたりしないで済みますし、何より九重さんにとっても浮気者な相談者さんと別れたほうが正解だと思います」
「今は真面目になってるんだろ?」
「だとしても今だけという可能性もあります。未来はわかりませんよ」
人は変わる生き物だ。時間をかけてゆっくりと毒が体を冒すように変質していく。相談者のようにいきなり変化するのは、むしろ無理をしている状態だ。となれば、いずれ揺り返しが来るだろう。そうなる前に相談者と九重が別れたほうが、咲那としてはハッピーエンドだと思う。
「一応、相談された手前、別れるなら別れるでハッピーエンドな別れ方をしてほしいんだよな。これでも恋愛の神様なんで」
「恋愛経験無いんですけど、ハッピーエンドな別れ方なんてあるんですか?」
「……それは俺にもわからないけど」
困ったようにうなってから、何か思いついたのかニコリと微笑みかけてきた。
「君は恋愛小説家として、現実ではありえないような夢みたいな話を書いてるんだろ?」
「はい、現実がクソなので」
「だったらさ、この相談を小説だと考えてみたらいいんじゃないかな? この状態から二人がハッピーエンドを迎える話を書くつもりで」
「そんなの無理ですよ。プロット以前のキャラ設定レベルで破綻してます」
「ほら、小説とか漫画でもさ、意外な真実みたいな感じの展開があるだろ? てんどんだっけ?」
「どんでん返しですね。でも、それはあくまで創作だから成り立つんです。現実世界でどんでん返しなんて無いですよ。なにか相談者や九重さんが隠し事をしてるならともかく」
「してないとも限らないだろ? 君は嘘を見抜けるんだし、まだ全てを調べたわけじゃない。俺は小説とか書けないからわからないけど、登場人物の全てを知らないのにお話を書いたりしないだろ?」
「いや、普通にしますよ。時間とか無い時。ただ、書いているうちに『あ、この人はこういう奴だったんだ』と理解して直したりしますけど……」
「それだよ! まだ秘密があるかもしれない。秋月にも彼女にも。君も俺も二人の全てを知っているわけじゃないんだからさ」
「そうかもしれませんけど、秘密なんて無いかもしれないじゃないですか。あったとしても、今回の件と関係ないかもしれませんし」
「……秋月は俺にとって大切な友達なんだ。あいつ、本当に恋愛はダメだったけど、九重さんのおかげで変われるかもしれない。本人だって変わりたいって思ってるはずなんだ。頼むよ。力を貸してくれ」
そこまで言われると「しかたがない」と思わなくもない。ただ、このままありもしないハッピーエンド探しにいつまでもつきあっているわけにはいかないのだ。
咲那はただ書けなくなった小説を書けるようになりたいだけで、誰かの恋愛の面倒を見たいわけではない。あくまで取材できればいいだけだ。
咲那は人差し指を立てながら言う。
「じゃあ、あと一週間です。一週間で情報を得られなければ打ち切ります」
「うん、それでいい。俺も冬月のことを観察してみるよ」
「ただ、一言言っておきますよ。現実で誰かの秘密を暴いたって、ハッピーエンドになるなんて限りません。むしろバッドエンドです。それでもいいんですか?」
「ああ、それでもいいさ。暴いた結果を披露しなければいいだけなんだし」
咲那はため息まじりに「わかりました」とうなずいた。
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