第8話

 結局、魔王軍が施したような刻印も装飾品もなく、この待ち時間によってウエルの頭もすっかり冷めて、

「あ、アイ、さん。えっと……」

 テーブルで真向いに座る女子に視線を合わせることもできなくなっている。間を持たせたいのか、改めて淹れたお茶を啜ろうとして熱がったり、布巾を取りに立とうとしてテーブルの脚に小指をぶつけたり。未見の衣装の女子へのねぎらい、異世界からという唐突な話と、魔王軍への腹立たしさ、そうした先行事項は荒波が凪に変わるようにすっかり落ち着いてしまえば、女子と一つ屋根の下にいる、顔立ちの整った澄んだ声の、同世代と思われる女子がいる。本人のたっての希望で身辺保護の手続きもしないともなれば、さてアイはどこで寝泊まりをするのか、という疑問が浮かんできてもおかしくはない。時化の後の浜には海中にいたであろう珍妙な生物が上がってしまうように。

 とはいえ、である。一介の非常勤講師を務める男が女子とともにいる、というだけでいつまでも動揺しているわけにはいかない。女性と二人っきりというシチュエーションがここ二年ほどなかったとしても。その頃はまだ学生で成人の儀礼をしていなかったとしても。

「ウエルが困るなら、私は出ていく」

 異世界の方に気を利かせるのは国にかかえられている非常勤講師である前に、一人の人間として、すたる気がしてならない。

「アイ、君は気にしなくていい。いや、気にしないのならば、ここに住むのはどうだろう。僕は安月給だけれども、これまで返済していた借りもなくなったから、多少はお金を回せる。そして、決して不埒なことはしない、と誓おう。もし不安というならば」

 前かがみになる勢いを手でかざして制したのは異世界のJKである。

「ウエルが私を案じてくれているのは分かる。手籠めにするならとっくにしているだろうし。

 それに、あなた、女性の扱いに慣れてないようだし」

 いたずらっぽい笑みは天使の微笑というよりもサキュバスの余裕に見えなくもなかった。が、ウエルは

「だから、しばらく厄介になってもいいかしら?」

 率直にアイの言葉を信じた。

「もちろんだとも」

 今度は本当に勢いがあった。前かがみになる代わりにすくっと立ち上がっただけであるが。

「異世界から召喚されたジエイ・ケイのアイ。僕がきっと君を異世界、えっとニ・ホンだっけ、へ返還する術を見つけ出そう!」

「え、ええ。任せるわ」

 決然と宣言するウエルに圧倒されたのか、アイの返事はぎこちなかった。

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